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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成27年8月

幽霊、亡霊、祟り、などよりも怖いもの

 
  まあ、何と言いましょうかな。ほんの一部の人ではありまっしょうが、この国の人たちはですたい、どうも、どうもですよ、「幽霊、亡霊、祟った」などの類の話が大好きな民族みたいでして。それもどちらかといえば、それを悪い印象として捕えている傾向が強いみたいでして。しかしですばい、今の今までくさ、この世に生きていた人を、それも何かしらのつき合いのあった人を、私達のような信仰(僧侶など)に携わっている者の根拠なき不可解な一言で、その人が他界された途端に、化けもの(悪霊)扱いとは、何とも失礼な話だとは思いませんかい。それも人だけに飽き足らず、いうに事欠いて、神仏までも共犯扱いにしてくさ。先日テレビを見ておりましたら、ある拝み屋さんですが、祈願料によって恨みを晴らす相手への罰当たりの度合いが変わるとか。

それも何と、数十万円払ったらくさ、相手を病院送りにまでしてくれるとか。いやいやいやいや、「ちょっと待て、ちょっと待て、お兄さん。病院送り、って何ですのん」ってやつですばい。拝み屋さんが祈願したら神仏はんたちは、「よし、任せい」と傷害の片棒までも担いでくれるんですかいな。神仏が人を祟る「親玉」ってか、そんな、あほな。お墓にしてもですたい。これもまた、一部の人でしょうが、昔は火葬せずにそのまま土の中に葬られていたでしょ。その亡きがらがですばい、「夜中にお墓を抜け出して襲ってきやせんか」と恐れた人たちが、事もあろうに遺体の両足の骨を折って、立ち上がれんようにしてから葬っていたんだとか。さらに、そこまでしても安心出来ず、「重し」として石塔(墓石)を上に置いたんだとか。・・・いやいや、そんなにせにゃならんほど、亡くなって逝った人を忌み嫌って恐れるなんて、「あんたはん、このお方に生前、恨みを返されるようなこと、何かしでかしたんですかいな」と、逆に聞きたくなりますよな。

最近ではあまり、次のようなお人はお寺に来られなくなりましたが、「お墓参りに行くので、お守りのためお札を下さい」とか、「清めのお塩を分けて下さい」とか。あのですな、何に使うんですかいな。あと数年もすれば、あなたもそのお墓の住人の仲間入りでっせ。墓参に来た人から、「近寄るな」といきなり塩を撒かれてんさい、自分がされたら嫌でっしゃろ。自分がされて嫌なことは、第三者にもしないことが賢明ですばい。「わしがいったい、あんたに何をしたというんじゃ。ちょっとお香のお裾分けをいただかせてもらおうと思っただけじゃなかか。そんなに嫌わんとあかんかい」と、嘆かれますばい。可哀そうに、ね。

この手の話では、次のようなものもありましたな。これは何年か前の話ですがね。「8月14日早暁に父親が亡くなり、15日に葬儀を執り行いたいのですが、その日がちょうど友引で、どうしたらよろしいでしょうか」と。この国では昔から、「友引に葬式をしたら誰かが連れて逝かれる」との風評があってですな。仏教界ではそんなこと一言も言っとらんのですがな。仮に1000人友引に葬式をしたとしたら、誰かしら1000人、一緒に連れて逝かれるということですかいな、そんなことはないわね。ただ、こういう考え方が庶民の間に根強くあるのは事実。おまけに15日は、盂蘭盆精霊送りの日ときたもんだ。所謂、ダブルパンチですたい。となりゃくさ、そりゃ、弔問客の中には、気持ち悪がるお方も当然少なからずおられますわな。折角、葬送に来ていただいているのに、そんな思いを抱かせるのは大変申し訳ない、という点から友引を避けて執り行う、という考え方なら大いにありだとは思います。最近では、科学的、医学的な発展から、いろんなことが証明されてきたことにより、この国の人たちのそうした熱(祟りなどの)も段々と冷めてきたみたいでして。その傾向の一つに、ここ数年テレビで、この時期、夏の風物詩のように放映されていた恐怖物(怪談話)が、だんだんと少なくなってきたように思われませんか。もう視聴率が、その企画では取れなくなってきているんでしょうかいな。だからといってくさ、去年の7月頃に新聞紙上に載っていた記事はいただけんかったですわな。見られましたかい、皆さん、その記事を。お墓が何十万基も捨てられている写真、あれは代々の「恩」を捨てておるに同じですばい。

ここでちょっと一つだけ。こんな話ばかりをしておるとですな、「なら、住職さんは霊魂という存在を全面否定の立場の人間ですか」と、たまに聞かれることがあるんですよね(続刊の法話参照)。別に、霊魂の存在を全面否定しているわけではありまっせんばい。自然界の理(ことわり)として、命はどこからかやって来たんだから、必ずどこかへと帰るはずでっしゃろ。考えたら不思議なもんで、今の今まで生きて動いていた人間がですな、突然外部からの衝撃(事故など)によって動かなくなり、死んでしまう。ならば、今の今までこの体を動かしていたものは、いったい何だったんだろう、ってな話ですわな。私が言いたいのはですたい。一生懸命生きてこの世を去って逝った人たちを、何の根拠もなく、失礼にも、無礼にも、化け物(悪霊)扱いするのは大概にやめまっしょうや、と言っているだけです。

それでは話をまた、お墓の件に戻しましょうかね。確かに現在、結婚をする若者が極端に減り、これからはお墓を維持する子孫がいなくなる、という悲しい現実から、そういう行動に出るという心境については、少しばかりは理解できますよ。しかしですばい、これより何千年先になろうと、何万年先になろうと、親から産んでもらって、育ててもらって、今の私が存在するという順送りの理(ことわり)に、何も変わりはないでっしゃろ。それに人というは、どうも何か対象物がないと感謝の心が持てないようでね。誕生日のプレゼントや中元、お歳暮などの贈り物、眼に見える物には感謝の意を表しますが、親の心や、空気(酸素)、太陽の恵み、などなどには、・・ですな。しかし、本当に大事なものは目に見えないんだけどな。「あって当たり前」という考えほど、感謝の心を削ぎ落すもんはないですもんな。 

お墓や仏壇の存在価値も、まさにここなんですよね。対象物があるから、手を合わせて頭を下げるんでっしゃろ。目に見えているから、多少なりとも感謝の心を忘れずに持ちとどけられるんでっしゃろ。そりゃ、お墓を捨てるには、捨てるだけの理由は勿論ありまっしょうが、その様なときのために、菩提寺のご住職がおられるんでっしゃろ。お墓の問題に限らず、早々に結論を出して後々に後悔を残さんように、その道に明るい人(見識者)にまず、相談をしましょうね。そう言えば、昔話にこんなのがありましたな。小鳥を捕まえた鳥刺しが、「逃がしてくれたらいいことを教えたる」と言われて、欲を出し逃がしたところ、それが真っ赤な嘘で、怒り狂って、また捕まえようと罠を貼ると小鳥から、「あほう、あるはずのないものをあると思うな。手に入るはずのないものを手に入れようと思うな。過ぎ去ったことをいつまでも後悔するな」と一喝。そりゃ、そうだわね。今あるもの、今手に入るものを、自らの直情的な欲で捨てちゃあかんわね。一度逃した縁は、そう簡単には手に入ってこんですもんな。まあ、でも、感謝の心を持たない人間が大半を占める世の中って、いったいどんな世界になるんでしょうかな。恐らく、「悪霊、祟り」などよりも、こわーおまっせ。