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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成27年9月

本末転倒で、わがも転倒

 
 先先月の晦日(月末日)、見知らぬ男性から電話が入り、いきなりですばい、途轍(とてつ)もない早口の大きな声で、言いたいことだけ一気にしゃべり上げたかと思ったら、名も名乗らずに一方的に電話を切ってしまわれました。まるで、松岡修三さんみたいなお熱いお方でしたな。所謂、巷でいうところの、「夏には会いたくないタイプ」のお方でしたね。「住職さん、あなたが出された法話本ですけど、あの中に書かれてあった、プロフェッショナルといわれている人たちも、初めは誰しもがど素人、という一文があったでしょ。あの言葉によって、忘れていたことを思い出しました。私は小さな会社を経営しておるんですが、考えたらあなたの言われる通り、経験者が仕事が出来るとは限りませんもんな。経験者が、一生懸命働くとも限りません。未経験のど素人でも、やる気がある人の方が、やる気のない経験者よりも将来的にみたらずっと会社のためになりますもんね。私がそうでしたからね。
初めのひと手間(ど素人教育)を面倒くさがって会社は、どうしても率先力を求めたがります。率先力を求めるのが悪いと言っているわけではありませんよ。それよりも、その人間の人となりに目を向けていくことの方が大事じゃないのか、と改めてそう思ったんです。早速求人広告の欄の、経験者優遇の言葉は消して、門を広げていこうと思います。うちは専門職種ですから、経験者歓迎なんて書かなくても、おのずと経験者はやってきますからね。やる気があるから売り込みに来るど素人を見落とさないように努めたいと思います」と。

全く持って最近は、この手の話がやたらと多くなってきましたね。なんにせよ、親(社長、先生、師匠も含む)が楽をした分だけ子供は育っておりませんもんね。子供が育つといえば先日、九州南部地方の特別養護老人ホームへ講演に呼ばれたとき、講演後参加者の中の8歳の男の子が、「キリストさんは何故復活したのですか」と質問を。それに対し、「君は亡くなった爺ちゃん、婆ちゃんを覚えているかい。覚えているなら君の心の中には今も爺ちゃんと婆ちゃんは生きているということだよ」と。ただそう答えただけでその子は、「わかった。ということは、キリストさんを僕が心に思っているうちは、ずっと復活してくれる、ということなんだね」と。これにはさすがに驚きました。おりますばいね、世の中には、ね。

さて、経験者優遇といえばくさ、ここ近年、お医者さんの診療に関する不平、不満の話ばかりが、よく耳に入ってきます。特に、若いドクターへの不平、不満話がですな。お寺は愚痴をこぼす場所ですからね、言いやすいということもあるんでしょうがね。勿論、どの話も鵜呑みにはしていませんよ。恐らく文句を言われている対象者は、ごく一部のドクターでしょうからね。しかし、お年を召されたお医者さんや、看護士さんの愚痴を直に聞いておりますと、そりゃ、あかんやろ、と思えることも少なからずありますね。例えば、精神疾患で治療を受けに来られている患者さんに、「あなた、このままいったら、うつ病になって、最期は必ず自殺の道を選ぶことになるよ」とか。あのですな、プロの精神科医にそんなこと言われてんさい。ちょっと気弱な人だったら、本当にうつ病(本病)になってしまいますばい。火に油を注ぐようなこと言ってどないしますねん。「病院を変えて、別のお医者さんの判断をあおいだらどうですか」と助言をしたら、転院後まもなく回復に向かわれました。このような話はですな、実に情けないことですが、私達の信仰の世界でもよく耳にする話なんですよな。所謂、「脅し信仰」というやつです。まあ、何にせよ、脅しだけはやったらあかん。

確かにですばい。現在、お医者さん方は、過酷な労働条件下で、そのような患者さんを相手に日々格闘、ついつい口が滑って、言ってはならんことを口にすることもあるかもしれません。何せ、お医者さんも生身ですからな。疲労が限界を越えてきたら、ですな。健全な精神は、健全な肉体に宿るといわれておりますから。まあ、しかし、・・・ね。その他の不満話では、「ちょっと坊さん、聞いてくれんかん。臨床に行ったらくさ、お医者さん、患者のわしの方にはいっちょん顔を向けず、パソコンのデーターばっかりを覗き込んでくさ、この数値は、ああじゃ、こうじゃと、・・・わきゃわからん。顔色や、肌の色は一切見ようともせず、触診もせず、問診もせずじゃ。あのな、わしゃ、ロボットかい。山のような薬だけを出して、「次回また」と。「貰った薬がどうもわしの体には合わんみたいです」と申し入れたら、「おかしいね」の一言で片づけ、別の薬を処方して、「しばらく様子を」と。その時も一切触診、問診はなしじゃ。どう思われますか、住職さん」と不平、不満の雨あられです。

まあ、これもですたい。片方の言い分ばかりじゃ、ね。たまたまこの日、この患者さんの虫の居所が悪かっただけかもしれませんからね。長年主治医としてこの方を看てこられたドクターなら、診察室に入ってきた瞬間に、患者さんの様子を見られて、そうした行動をとられたのかもしれませんからね。しかし、そうじゃないとしたならば、ちょっと考えもんですかな。少なくともお医者さんは初めは全員、医は仁術、つまり人を救うを志としてこの世界に入ってこられたはずですもんな。お医者さんは、薬師如来の手足となるお役目をいただいて命を授かられたお方、看護士さんはその脇仏の日光、月光両菩薩の手足となり、患者さん達に、暖かさと安らぎを与える役目を担われたお方、と私は理解しておりますんでね。

病院に限らず、別の畑においても、例えば学校の先生などは、文殊菩薩の手足の役目かな。私達坊主は、お釈迦さんの手足として働くために命を授けていただいたもの。まず、与えられた仕事の本質に目を向けないとですね。贅沢をしたいから、お金持ちになりたいから、ではあかんですな。確かにお金は大事ですよ。1円不足しても全て成り立ちません(値切れる品は別)。揺るがしてはいけない社会の規律ですからね。しかし、サラリーは、一生懸命積んだ功徳(仕事)が、形を変えてやってきたもの(お金)。つまり、結果の代物です。特に、人の心を相手にする職業についているお方は、お金儲け(収入)を先に考えたら、何かが狂ってまいりますな。間違いなく、本末転倒と共に、本人も転倒していきよりますばい。

さて、そういう不満をぶちまけて来られる人の話ですが、結局最後までは聞いてあげますよ。しかし、最後の最後、ひとしきり吠えてすっきりされたであろうその後には、必ず本人さんにこう言い添えます。「まあ、それでも、病院にドクターや看護士さん達がおられなかったら、誰があなたの体を看てくれるんですか。もし学校に先生がおられなかったら、誰があなたの子供の勉強を指導してくれるんですかいな。まずは、「お世話になっとる」が先でっしゃろ。文句を言うなとは言いません。改善には必要不可欠ですからね。しかし、根底に感謝の心がなければ、ただのクレーマーですばい」と。以前、「たかじんの委員会」で、横浜市が保育園の待機児童0を成功させたとの話が。しかし、そこへ他府県の方々がなだれ込み、再び待機児童が増加したと。横浜を手本として地元で活かそうとせず、手っ取り早く引越しを選んだ結果とのこと。「あっちの水は甘いぞ・・」だね。・・・世相の流れかな。