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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成27年10月

ぶれない生き方、とは

  昨年9月の秋分の日前後頃だったかな、深夜のテレビタックルで、果実を摂取した方が良い、悪い、マラソン(駆け足)はした方が良い、悪いで、ドクター同士が大激論をされておりましたな。結局双方共が一歩も引かず、結論は曖昧なままで番組は終了しましたが。しかしながら、こればっかりは仕方がないかな。例えば、お肉の摂取にしてもくさ、一般社会の見解では、色んなリスクがあるから食べ過ぎは体に悪い、と言われておりますが、まあ、何にしても過ぎたるは悪いですがね。しかし、わが金剛寺内に限っては、90歳を越えて今だ元気でいる長寿の方々を見てみますと、そのほとんどがばりばりの肉食主義ですもんな。 

まあ、確率の問題はあるでしょうが、人間は一人一人体質も違いますしね。病気一つとってもくさ、この人にこの薬が効いたから、じゃ、あの人にも効くか、といえばそうでもないし、3錠飲まんと効かん人もいれば、1錠で効く人もいるし。世間一般の風評では、やぶといわれているお医者さんでも、私とっては名医ということもありますしね。所謂、何にしても合縁奇縁といわれるものがありますからな。そう考えてみたら、受け入れる側の姿勢如何、ということになりますかいな。ただ、そんな場合大事なことは、タックルの大激論で双方が引かなかったドクターたちのように、指導者は決してぶれない姿勢でいてもらわんと困りますよな。肝心要の指導者がぶれぶれだったら、その主張を信じて付いていこうとしている人たちは、いったい何を信じていいかわからんことになりますもんね。どっちが正しい、正しくない、なんてもんは、私達のような見識の浅い素人には到底判断など出来ませんもんね。

ところで判断できないと言えば以前、あるドクターとの間でこんな会話が交わされました。この世の中、最期の最後は間違いなく人間とウィルスとの戦争になるだろうね、と。考えてみたら人と人との争いなんてもんは、割り切れんもんを無理矢理割り切って、双方が折り合いをつけさえすれば、解決の方向には向かいますもんね。偏った、こだわった自己主張さえ押さえることが出来たらの話ですけどね。しかしながら、ことウィルスはんが相手では、そう簡単にはいきませんわな。お互いに意志の疎通が出来ませんからね。所謂、その道に暗い私個人の素朴な疑問なんですがね。例えばですよ、インフルエンザウィルスですが、いつしか身心における変化の努力を放棄し、薬(第三者)に頼ることしか出来なくなった人間が、「なにくそ、負けてたまるか」と、どうでもこうでも変異を繰り返してまでも生き残ろうとしているウィルスはんに、どうやって勝つことが出来るんかいな、と。イタチゴッコが、どんどんと差をあけられているような気がしてならないんですがね。だからといって、新薬の研究そのものを否定しておるわけではありませんよ。人間の世界に医学が持ち出されて以来、そこで葛藤なさっておられるドクター方の並々ならぬ御苦労のおかげで、ありとあらゆる「不治の病」といわれる病気が克服されてきたことは承知の事実ですからね。ただ、無知なる私がこのウィルスはんとの戦いから学べることがあるとしたらくさ、「努力をしないもんが、努力をするもんには、絶対に勝つことなどは出来ない」ということぐらいですかな。

努力といえばくさ、昨年、パキスタンの17歳の女の子にノーベル平和賞が与えられ、世界中が大絶賛となりよりましたよね。ところが私は、世間とは少々見解が違いましてな、少しばっか憤りを感じました。「全く、いい加減にせえよ。世の大人は17歳の子供(女の子)に、なんちゅう重荷を背負わせとんねん。責任をおっ被せるのもここまできたかい」と。まあ、恐らくご本人は重荷とは思ってないでしょうけど。この平和賞に限らず、子供が矢面に立たされている報道を見るたんびにくさ、所謂、大人といわれる人たちの責任転嫁の姿勢が、どうも目立ってならないんですがね。これはあくまでも私個人の意見ですが。・・・んんんっ、・・でも、しかし、これでいいのかな。誰かが何とかしてくれるだろう、ではですな。

このことは私達宗教の世界でも、精進努力の観点として常に問題になってきておりましてね。どの宗派を選択(判断)するかは、これと同じことが言えますな。登りつめれば同じ頂(ご浄土)、と思うんですがな。「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」と言われるように、どれが正解というもんはありまっせん。真言、天台、日蓮、浄土、浄土真宗、禅、などなど。色々と用意をされている登山道を、私達は信じて登れる道をそこから一つ選ぶだけ、それだけですもんな。ただ、最後までぶれずに登り続けられる人ばかりではないのが、この信仰という世界、ですかな。「こっちの水は甘いぞ」と声が掛かったら、折角くさ、5合目まで登ってきたのに、わざわざ麓まで下りて、また、最初から登り始めよる。人によったら、これを何度も繰り返してござる。まあ、こういう人に限って、努力せんでも幸せになれる方法はないかいな、と責任の所在を自分以外のものに持っていく人がどうも多いようですがね。

以前、こんな若者(40歳)がお寺にやってきました。3年ごとにコロコロと職を変えるというんですな。どうも話を聞いておったら、初めの1,2年は一従業員として働いておれるので、居心地が悪くないらしいんですがね。ところが3年目になってくると、やはり何かの結果を出してこなあかん。そうなるとくさ、当然責任を負わされる。それが嫌で、会社を辞める、というんですな、これが。そんなことを繰り返してきておるにも拘らず、「給料が少ないから生活が苦しい」と。いったいどこ押しゃそんな文句が出てくるのか、呆れ返るばかりで。そこで拙僧一言ですばい。「あのですな、おたくはんや。3年ごとに仕事を変えればくさ、当然その都度、初任給に逆戻り。コロコロと仕事を変えている履歴書を見た雇い主が、高額の給料をあんたはんに支払ってくれると、本気で考えてるんですかいな」と。

先日、「さんまのまんま」という番組を見ておりますと、さんまさんがゲストの女性に、「今、お歳はおいくつですか」と質問をされました。それに対し、「いくつに見えますか」との質問返しに顔つきが一変しましたな。どうも、さんまさんは、この手の掛けあいは嫌いみたいですな。私もこのやりとりは、あまり好きではないですね。対話の時間を止めてまで質問返しをする必要はない。さんまさんは時折、「テレビは戦場」という言葉を出されておられますが、「今、自分がおかれている立場から、何をやるべきかしっかり判断せんかい」ということなんじゃないでしょうかな。まあ、ね、一概には決めつけられませんが、どうも上記のような若者が増えてきた背景には、我々親が与えてきた「ぬるま湯」が原因の一つとなっておるんではないかと。あと思うに、自分以外に守らにゃならんもん(家族、夢や希望など)が持てないというか、持ててないというか、それも原因の一つなんじゃないかと。今現在の行動が将来に及ぼす影響なんて考える必要なんてない、とね。将来への影響といえば先日ですな、病院の待合室で座っておりましたら、面白い標語が目に入ってまいりました。「農薬は、農毒薬の略語なり。虫はいっぺんに、人はジワーと殺される」と。この言葉、誰が考えたんか知らんけど、人間の欲に警鐘を鳴らす言葉としては、バッチ、グーかな、と。