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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成27年11月

さあ、爺ちゃん、婆ちゃん、出番でっせ

  先般、あるところの教育委員会さんの依頼で、お爺ちゃん、お婆ちゃんなど数百人にお話をしてまいりました。まあ、しかし、なんですばい。お年寄りの方々ちゅうんは、いやぁ、実に話しやすいでんな。積み上げてこられた見識の深さですかな。冗談話しの中からも、教訓に当る含み言葉を自らが掘り起こしてくれて、何を言ってもその絡みを理解し、大いに笑ってくれはります。「んっ、法話上手になったんかいな」と、勘違いしてしまいそうでっせ。

それはそうとして、その講演の依頼内容なんですがね。「80年間培ってきた数多の智慧を、我が子、我が孫に渡せぬまま、灰になっちゃいかんよ。実に勿体ないことですよと、お年寄りの方々にお話しをして奮起させてくれませんか」というものでございました。まあ、確かにそうですかな。人によっては、若者(我が子)に気を使いながら、肩身の狭い思いをされて生活をされているお年寄りの方々が多いと感じることは結構にありますからな。拙僧は、その大半がお年寄りの方々が相手ですんでね、気の毒に思うことも少なからず、ね。

 まあ、しかし、何ですよ。何年か前に檀家さんの子供さんからこんな話を聞きました。ある高校で、初めて学校を上げての餅つき大会があったそうなんですが、なんと先生方が事もあろうに、蒸し上がったもち米を臼に入れて、いきなりつき始めたんだそうです。そんなことをすりゃ、あなた、当然もち米は散らばり、いくらついても餅にはなりまへんわな。檀家の子供さんは、金剛寺で毎年暮れに餅つきをやっておりますんで、「先生たちは、何をやってんだ」と思ったそうなんですが、口を出したら自分がせにゃならんことになるから、見て見ぬふりをして黙っていたそうなんですな。・・・まあ、それはそれで問題はありますがね。しかし、堪りかねたんでしょうな。自ら杵(きね)を手に取り、友人を集め、ある程度こねて餅にした後、「この状態から餅をついて下さい」と先生方にバトンタッチしたそうです。

神社、仏閣で行われている行事の多くは、昔ながらの伝統を頑なに受け継いで、そのものの品(餅もその一つ)が出来るまでの過程を、子供たちに示そうとしておるものも少なからずあります。また、そのものの品の本質(役割)を体験で教えているものも多いかな。例えば2月の節分ですが、多くの神社、仏閣ではこの法要にて、「大根だき」と称して、大根をお接待として振る舞っているところが多数あります。この1年、健康で過ごしていけるようにという思いから、体に良いとされる「大根」を食べてもらっておるんですな。またその味付けもですばい、いぶし銀の檀家の奥様方が担っておられるので、常日頃大根を毛嫌いして食べない子供さんたちも、「美味しい,美味しい」と喜んで食べておられます。味付け(工夫)によってこんなにも違ってくるんだ、と新たな発見にも繋がっているようですばい。  

工夫と言えばくさ、来月は時季がきますが、渋柿つるして甘い干し柿を作るのも、またその一つかな。柿をつるす前に10秒ほど熱湯につけて干せば、カビも蠅もつきませんもんね。これは毎年、女房殿とやっておりますんで実証済みです。この知恵も檀家のお年寄りの方からの伝授なんです。変わったところで言えば、井戸掘りも実に面白い言い伝えがありますばい。現在は水脈を調べる機械があるようですが、それでもなかなか水脈を当てるのは難しいみたいでね。この方法は、満州時代から土建業をやっていたわが爺様から教わった知恵なんですがね。快晴の日の夜中に、おせち料理などを入れる漆塗りの重箱を逆さまにして、掘りたいと考えている場所を何か所か決めて置いておくんです。次の朝、その重箱の内側に水滴がついていたら、その下に水脈があるというんですな。にわかには信じ難いでっしゃろ。ところがこの方法を試して、掘り当てられたお方がおられたんですよね。私の爺様の智慧を信じてやってみたんですな。「偶然だよ」で片付ける前に、やってみる価値はありそうでしょ。

考えてみれば、水道を捻れば水が出る。スイッチを「オン」にすれば電気がつく。ボタンを押せば火がつく。私達は当たり前のように思っておりますが、これが出来なくなった途端、水道会社、電力会社、ガス会社に、「生活が出来ん、早く何とかしてくれんかん」と烈火のごとく嘆願文句を浴びせかける。最近聞くところによると、家庭の台所に「包丁」がないところがあるんだそうですな、にわかには信じがたいことですが。ちなみに子供たちが大好きなハンバーグですが、なんと、ミンチから作られていることを知らない子供たちが多いんだそうですばい。「チン」で袋から出してきて、「はい、出来あがり」ですからね。先日なんかは、テレビで報道されておりましたが、ヤカンでお湯を沸かさずに、瀬戸物で出来ている「きゅうす」に水を入れて、直接ガスコンロに掛けている高校生が少なからずいるとか。ペットボトル社会だからね、・・・じゃ済まないよね。親が手本を見せておかないと、知識として身に着くはずがないわな。いかに時代が変わっても、胃袋を掴めん料理では、ご主人も外食が多くなるだろうし、当然子供も料理上手には育たんでしょうな。あっ、勘違いされては困るんですが、これは奥様方だけに責任がある、と言っておるわけじゃありませんからね。

さあ、そこでですばい。「爺ちゃん、婆ちゃん、この状況を見て、どげんしなさりますな」って話ですよ。「いよいよ出番が回ってきよりましたばい」ということから、「お坊さん、是非、お年寄りの方々の後押しを」ちゅうことで、この講演に呼ばれたというわけですたい。  

 私はこの講演の冒頭でこうおっ始めました。「拙僧は当年取って53才。偉そうに墨の衣に袈裟つけて、皆さんの前で、法話なんぞさせてもらっておりますが、何ぼくさ、威きってしゃべっても、80年間培ってきた皆さんの知恵には、到底及ぶことはありまっせん。私が提供させてもらっている数々の法話にしたってそうですばい。そのほとんどが、檀家の爺ちゃん、婆ちゃん方の人生経験話の受け売りです。お年寄りの皆さんが、若いもんに遠慮して貴重な知恵を封印しておらっしゃるから、こりゃ、勿体ないと、私が代りにしゃべくっているだけです。誰かが繋いでいかないとですな。封印してしまうにはあまりにも惜しい。命においてもしかりです。何万年もの間、一つの命をバトンタッチのように繋いできてくれたからこその、この命。我が身の代で閉じさせてしまうには、ですな。やんごとなき事情がある以外は、前向き(結婚)に考えていかんとあかん。さあ、人間死ぬまでは、生きとかなあかん。この世に役目がなくなった人から、どうも旅立って逝かれとるようです。ということはですたい。今、命があるということは、何かしらの役目があるということでしょうな。その役目に目を向けまっしょう。眼を閉じるときに子孫の姿を見て、「何であの時、言ってやっておかなかったか、と後悔せんようにしましょう。皆さんにしか出来ない仕事ですよ」と。

いかに時代は移り変わっても、人間の成長は我欲が原動力。よってくさ、欲そのものが悪いというわけではありません。ただ、現代はややいき過ぎている感がありますよね。自分さえ良けりゃいいと望んでも、悲しいかな、多くの自分さえ良けりゃいいに潰される時代。この状況を打開するには、やはりどうあっても、人生経験豊富な知恵を借りんと、ですね。