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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成28年2月

人が背負ってきた運命とは

 1982年2月9日、当時私は19歳でした。新宿アルタスタジオの前で、大学受験のために上京して来る友人たちを当局の大画面に目を向けて待っておったところ突然、「日本航空350便、羽田沖に墜落」という放送が。奇しくもそれは、ホテル・ニュージャパン火災の翌日のことでございましたな。「逆噴射」の言葉が世界中に知れ渡った航空機事故にて、死亡24名、重軽傷149名の大惨事、この時ばかりはさすがに焦りましたね。友人がどこの航空会社で来るのかも、何時のフライトかも知らなかったので、号外が出てから20分後に姿を見せてくれた時には、事故に巻き込まれた方々には大変申し訳ありませんが、心の底から安堵しましたな。前の便に搭乗していたそうで、当時は今みたいに携帯などの情報が乱れ飛んでなかったので、友人は事故のことを知らずにアルタ前へ。人の運命とはいったいどのようになっているんでしょうかな

「逆噴射」を仕出かした片桐機長は、精神鑑定により妄想性精神分裂病の診断が下り、結局、不起訴処分となったそうですね。航空機事故と言えば、やはりもう一つ、私にとっては忘れられんものがあります。事故の1週間前、同社、同行程にて帰省し、お寺でお盆を向かえる準備をしていた時、「日航が落ちた」と一報が。

 1985年(昭和60年)8月12日、御巣鷹山の尾根に、日本航空123便墜落、搭乗者524名の内、520名が死亡。垂直尾翼の破壊が原因だったそうですが、あれから今年で、もう31年なんですね。当時ジャンボ機は、4つのエンジンの内、3つが動かなくなっても落ちることはないといわれておったんです。期待も込めて信じておったんですが、私はあれ以来、飛行機に乗ることが出来なくなりました。だいたい高い所は嫌いな性質も加わってですな。搭乗者の中には、有名な方も何人かおられましたよね。ハウス食品代表取締役社長さんとか、坂本九さんとか、ですな。坂本さんは、本来は搭乗される予定ではなかったそうですね。この事故の中にこのような明暗を分ける縁が、どれ程あったんでしょうかな。

 これまでの日本の歴史に残る大惨事の中に、金剛寺の檀家さんが絡んでいるものがいくつかありましてな。その中でもある一人の青年の2度に渡る遭遇は、逃れられない運命の不思議を感じさせられましたね。1度目は1993年7月12日午後10時17分に発生し、死者202名、行方不明者28人を出した北海道奥尻島地震。地震発生から何と、4、5分で津波がやってきたそうですね。この青年ですが、出張でたまたまこの地に滞在していたそうで、押し寄せてくる波に命からがら難を逃れたそうです。2度目は1995年1月17日、早暁5時46分。死者6434名、行方不明者3名、負傷者43792名を出したあの阪神淡路大震災です。突如、地鳴りが起こったと思ったら、体が宙を舞ったそうです。住んでいたマンションの部屋からベランダ越しに外を見ると、目の前に建つマンションが音を立てて崩れ落ちていったそうです。「取り敢えず外へ」と体をかわすと、そこには生き残った人たちが瓦礫の中で立ち竦み、ただただ茫然と受け入れられない事実に目を向けられていたそうです。ちなみに私も大学時代は頻繁にバイトではありますが、10トントラックに乗ってこの神戸には朝早く荷を下ろしに来ておりましたので、阪神道路の朝の状況は大変よく知っておりました。地震があと30分ほど遅かったら阪神道路の朝は上も下も大渋滞中、被害はもっと酷いものになっていただろうなと、当時ニュースを見ながら思わせてもらったのを鮮明に覚えておりますね。思えばこの青年ですが、北海道に続き神戸までも。命を失っていてもおかしくない2度に渡る天災との遭遇、「人には寿命というものが本当にあるんでしょうね。切実に思い知らされた貴重な体験でした」と、後にしみじみと言われておりましたね。

 また、2001年9月11日、死者3025名を出した航空機を使った4つの同時多発テロの時にも、出張にてこの地に滞在していた檀家の方がおられましてね。ニューヨーク世界貿易センター、ツインタワーに突入爆発炎上のまさにその場面に遭遇していたそうです。仕事場であるタワーに入る直前に飛行機が突入、間一髪のタイミングで命を拾いましたと。

 さらに記憶に新しい、2011年3月11日、死者、行方不明者18483名(平成27年1月9日時点)を出した東日本大震災にも、その地に檀家の娘さんが。宮城県に嫁いでおられていたなんて、私はその時まで知りませんでした。3月の彼岸参りで親元に足を運んだ時、それこそ何年かぶりにその娘さんに会ったのですが、話を聞いてびっくりです。押し寄せてくる波から親子4人が山へ山へと必死に逃げ、九死に一生を。目の前で自分たちの家が無惨にも波にさらわれていく状況を、ただただ茫然と見ていたそうです。この娘さんの話を聞いているうちに、「結局、私達は第三者にすぎんな」と被災者との温度差をまざまざと知らされることになりました。当時、ご主人は現地に残り、1歳と3歳になる女の子を連れて親元に戻って来られていたのですが、実家には身を寄せず、最低限の生活品を揃えて近くのアパートに。「何故、実家で世話にならないんですか」と尋ねると、「幸せにも私達は帰るところがありましたが、向こうではみんな衣食住に不自由をしながらも、必死に復興作業をされておられます。主人から、「子供が幼いんだから、実家に世話になっとけ」と返してもらいましたが、私達だけがぬくぬくと生活させてもらうわけにはいきませんので」と。まさに、「対岸の火事」の例え、そのものですな。こちら側では、多くの野次馬が集まり、川向こうの火事を見ながら、ああじゃ、こうじゃ、と講釈三昧。その同じ時に対岸では、みんな必死に協力し合って消火活動を展開。およそ1年前くらいでしたかな、任侠世界に籍を置く檀家の息子さんから連絡が入り、「和尚、今、若いものを何人か連れて福島に除染作業に来てるんですが、ぜんぜん人が足らんのですわ。人を斡旋してくれる会社かなんか、知り合いの中におられんですか」と嘆願が。私自身で調べて確認したわけではありませんが、除染活動をされている人の中には、任侠界に籍を置く人たちがかなり多くおらっしゃるそうですよ。

以前ですが、ある政治に係わる方と一向に進まない除染作業について話をさせてもらったことがあったんですが、「○○さん、素人考えで本当に恥ずかしいんですが、何故、人が住んでいるところにわざわざ廃材を持って行こうとされるんですかね。日本近海には数千といわれる離島があるのに、どうしてそこに目を向けようとされないんですかね。こんな話をすると、港がないから船がつけられないんだ、とおっしゃる方もおられますが、あれからもう4年(昨年時の会話にて)でっせ。4年もあればどこの島であろうと、受け入れを可能にする港なんて、造れていたんじゃないですかな」と。当時は、「私のとこの地域に、廃材を持って来んな」と、「絆」という言葉を高らかに掲げて応援しながらも、いざとなれば手のひらを返し、持ち込みを反対する地域が多かったからですな。・・・んっ、今でもかな。

しかし、ほんとにこの世は、「一寸先は暮れの闇」ですな。「他人事じゃないですばい、明日は我が身」と、せめて心なりとも常に準備をし、危機感を持っておかんと、ですな。