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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成28年3月

出逢いは一瞬早くもなく、一瞬遅くもなし

 3月と言えば、この世界に生きるものにとっては、西暦835年3月21日寅の刻(午前1時頃)、生きながらに紀州高野山は奥の院の岩陰にご入定なされた弘法大師空海さんは、やはり最初に頭に浮かんできますよね。昨年は高野山開創1200年祭が行われましたが、わが寺も檀家さん方を50人ほど連れて、法要の片隅に参加をさせていただきました。
昨年と言えばもう一つ、江戸270年の安泰を築き上げた徳川家康公も、元和2年(1616年)に崩御されてより早や、400回忌を迎えられておられましたよね。高野山開創何百年祭と共に、家康公の回忌も何百年祭として流れていきますので覚えやすいですよな。

家康公といえば、75歳でこの世を旅立たれて後、その御遺骸は日光東照宮に安置されているように思われがちですが、実はですたい。本人の御遺言により静岡県は太平洋に面した久能山東照宮に眠っておられるんですよね。晩年、秀忠公に将軍職をお譲りになり、ご自分は大御所となられたのち、終(つい)の棲家として選ばれた駿府の国に近かったからとの説が有力だそうですけど。この駿府は幼少の頃、今川家の人質として一時期住まわれていた場所だそうですね。余程住み心地がよかったんでしょうかね。童(わらべ)の頃の思い出は人質だったとはいえ格別だったのかな、家康公は。私の知り合いもこの静岡には住んでおりますが、山あり、海あり、気候良し、と。そりゃ、あなた、非常に暮らしやすい土地だと言っておりますもんね。家康公としては、この地でゆっくり永眠したかったんでしょうかな。   

しかし、日光の地での役目はそれとは別儀、関東を守護するためにわが御霊を招き入れよとの御遺言。つまり、神格化した家康公を東照大権現としてお祀りし、徳川の繁栄を願えとの思いであったんでしょうな。それはそれ、これはこれ、と考えられておられたんでしょう。まあ、でも、終の棲家に駿府を選んだ理由は当然それだけじゃないでしょうけどね。多くの歴史研究者の方々が推察されている通り、やはり豊臣家の存在が一番大きな理由であったんじゃないでしょうかな。つまりくさ、「大坂(大阪)は、江戸からでは遠すぎる」ということなんでしょうな。関ヶ原の戦いの後、家康公に味方をした豊臣家子飼いの大名たちを石高を増やすという名目から、西へ西へと追いやっておりますもんね。駿府より東はそのほとんどを徳川方で固めて脅威は全て西の方へと。人の世は、「昨日の味方が今日の敵」ですもんな。なんてったって、元をただせば秀吉公の子飼い。大阪攻めで寝返られては、ですな。

駿府城の改築は江戸城と同時進行だったそうですね。安倍川の流れを駿府城の西側に変える(大自然の堀)自然の大改造工事は、何と、関ヶ原で勇気ある敵前突破を成し遂げた薩摩藩が請け負ったそうですな。外様大名も生き残るために必死だったんですね。今も、「薩摩土手」として残っておるそうですばい。その数年後(慶長17年)には、さらに大坂(豊臣家)との間合いを詰めるために名古屋城を築城し、慶長20年、ご存じの通り、ついに大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすことに。家康公の性格を表す言葉で、「鳴かぬなら、鳴くまで待とう」というのがありますが、どうもそうじゃないようですな。「準備万端整えたうえで、時期を待つ」というものだったんでしょうな。ちなみにですな、その生涯から、「人生二度なし」の真理を根本信条とした明治時代の哲学者、森信三先生はこう言い放っておられますもんね。「出逢う人には必ず出逢う。それも一瞬早くもなく、一瞬遅くもなし」と、ですな。しかし、そのご縁に出会うて、それに気付いて、活かせるかどうかは別物とは思いますがね。家康公にしてもくさ、信長公と秀吉公が先んじて天下統一の土台づくりをなされてなかったら、また、石田三成公のような「豊臣家を守る」という一途な忠臣の堅物がいなかったら、天下分け目の戦を画策することなど、恐らく出来ておりませんもんね。鳴かぬなら、鳴くように仕向けて、辛抱強く時期を待った家康公だからこそ、ということでしょうかいな。

「出逢う人には必ず出逢う。それもピンポイントのタイミングで」とくりゃですな、この3月は今一つどうしても忘れられないことがございます。平成24年、私を拾い上げて法話本を世に出してくれた出版社の社長さんとの出会いです(平成27年3月分法話参照)。ところが昨年の3月、続刊の発行が決定したおり、その時初めて聞かされたのですが、その社長さんが初版出版の1年後体調を壊されて社長職を退任されていたということを。これにはさすがにショックを覚えました。お寺の檀家さん相手以外の仕事(講演など)に導いてくれた大恩人ですからね。確かに箇条書きとはいえ、法話の原稿を無謀にも出版社に送るという種蒔きをしていなかったら、また「適当でいいや」と見当違いの種蒔きをしておったなら、当然このご縁には出会えておりませんよね。しかしながら、拾い上げてもらえなかったら何もかんもなしです。まさにタイミングは、「一瞬早くもなく、一瞬遅くもなし」でした。担当の方から教えていただいたのですが、「続刊の出版が決定したことをお伝えすると、非常に喜んでおられましたよ」と。このご恩は、さすがに一生涯忘れることはできませんね。

加えてこの3月は、私ら夫婦の結婚記念日のある月でございましてな。今年で早や28回目を迎えさせていただきましたが、1、2回、女房殿の怒りを買うてしばかれた以外は、大方夫婦円満でございましたな。しかしですばい。昔々から時折言われている、「赤い糸で結ばれている」というものが本当にあるとしたらですな、人類は4万年前から存在しとるそうですが、基本的な考え方としてくさ、その時代その時代の両家のお父さん、お母さんが、新たな命を生み出して繋いでくれてなければ、私達の命までたどり着けていない、ということでっしゃろ。さらにこの4万年もの間には、生き残るには稀であった激動の時代が、何度も訪れておりますわな。まあ近い所でいえば、戦国時代や明治維新、第二次世界大戦や諸々の天変地異などもそれかな。考えてみたら、途切れずに繋がって来れていることこそ自体が至難の業。壮大なスパンで、代々の先祖が生き抜いてきてくれたからこそ、4万年もの月日を越えて女房殿と出逢うことが出来、わが子とも顔を合わせることが出来たんですもんな。

とりわけ、わが女房殿の妹なんかはくさ、そりゃ、あなた、また不思議なご縁だったですばい。北九州の片田舎の娘が、19歳も年の離れたイギリスはロンドンの男性と結婚して現在、4人の子供を授かっております。義理の妹が名古屋でご主人に道を聞かれたことがご縁でございました。日本の激動だけじゃなく、イギリスの激動を乗り越えての出会いでっしゃろ。そう考えてみたらくさ、顔すら知らんご先祖さんたちだけんども、命を繋いでもろうてくさ、ね。そりゃ感謝せにゃあかんですわ。代々の先祖の努力のおかげで、出逢わせてもらえたんですもんね。夫婦円満にして、次代へと繋げていかんと、申し訳ないですよね。

さあ、今月は春のお彼岸月。中休み(中日法要)を挟んで、前後3日は人生を有意義に保つための修行実践日(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)。何、難しいってですかい。要するに、心を豊かに保って家庭円満を、先祖さんに見せてやってくだっせっ、てこと。