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
昭和20年8月15日、皆さんもご存知のように第二次世界大戦が終了しました。
日本はアメリカ連合軍との戦争に負けました。
ちょうどその頃のお話です。
不可侵条約を結んでいるはずの旧ソビエト連邦軍が、
ドサクサにまぎれ北方四島に進入してきました。
戦時中でもさほど影響のなかった所ですから、島に住んでいた人達は
何が何だか解らないうちに
自分達の全財産を奪われてしまいました。
そんな中、唯一の本土との連絡手段、つまり海底を通してつながっている電話は、
互いのスパイ工作を恐れ、島側はソ連軍が、根室側は通信に携わる機関が と、
それぞれ情報が漏れないようにと切断してしまいました。
子供ながらの父の記憶で最後の通話は、
「30隻の迎えの船を渡すから、安心して待っててください。
ソ連のスパイ行為を阻止するため、これから電話線を切断します。だったそうです。
しかし、島の周りにはソ連の軍艦が何隻も碇泊し、
日本の迎えの船など近づけるはずもなく、
島の人達が待っているにもかかわらず、いつまでたっても迎えに来ませんでした。
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写真はイメージです
待ちくたびれた島の人々の一部は
自分達の持っている小さな船で根室、
あるいは根室周辺の海岸に
夜逃げ同然、なんとか引き揚げてくることができました。
しかし途中、運が悪く荒波にさらわれ遭難し、亡くなった方々も大勢いたそうです。
自分達の所持していた船もソ連軍に奪われ、ただ残された人達はそれから2年後、
ようやく迎えに来た貨物船に裸同然で、
最も寒さの厳しい秋から冬にかけて樺太経由で、函館に上陸したそうです。
中には航海の途中で肺炎を起こして命を落とす人、
乗る場所がなくて船の甲板でテントを張って引き揚げて来た人、
波にさらわれてしまう人、
無事に引き揚げる事ができても、行く所がない人、
なんとも悲惨な光景が目に浮かびます。
灼熱の原子力爆弾で終戦を迎え、
原爆ドームがその悲惨さを言い伝えられている様に、
極寒のこの事実も 二度と同じあやまちを繰り返さないために、
この通信所も平和のシンボルとして言い伝えていくべきではないでしょうか。
戦後60余年、冷たく暗い海底をはしる海底ケーブルと、
旧通信所は人々から忘れ去られてしまいましたが、
その事実をなにもかも物語っているのではないでしょうか。
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