ハイジアパーク南陽所蔵  

 
サー・ハリー・スミス・パークス 
(Sir・Harry・Smith・Parkes1828~1885) 
ジェイムス・カーティス・ヘップバーン
 
通称ヘボン博士(1815~1911)
 英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ18年間中日英国大使を務めた。
 
 
 明治維新の立役者(高杉晋作、西郷隆盛、後藤象二郎など)とも会談し江戸無血開城にも影響を与え、諸外国では始めに新政府を承認した。

ペンシルバニア州出身の眼科医。一八五九年に訪日すると無料で目の診療を行うとともに熱心な宣教活動行った。

 宣教するために辞書が必要であることを痛感した彼は自ら英和辞書(ヘボン式ローマ字)を編纂し、現在も使われている。

 晩年には明治学院の設立に尽力し初代学院長になっている。 

 

チャールズ・ヘンリー・ダラス
  (Charles Henry Dallas 1841~1894)

 明治4(1871)年10月、洋学舎米沢興譲館(現在の県立米沢興譲館高校)に当地初の外国人教師として就任。

1875(明治8年3月)年ま3年余り教鞭を執り、英語、仏語、数学、経済学、地理を教える傍ら、サッカーや陸上競技等も紹介した。
 一方で、住民に牛肉の食べ方を広めたり、英国の風俗慣習、生活様式の数々を教えたり、米沢の街を気軽に散歩し、通りすがりの子供達に米沢弁で話しかけたりする気さくな人柄であったといわれている。

米沢の牛を『米沢牛』と命名して売り出したところ、これが評判を呼び、米沢牛の名前がたちまち全国に広まったと伝えられている。兼ねてから米沢の牛の味に魅せられていたので、自分が雇っていたコック万吉を、親しくしていた女性ゆきと夫婦にし、家屋資金まで与えて牛肉屋を開かせ、店の名前を『牛万』と命名し、米沢の牛肉店の元祖ともいわれている。

 このことから、C・H・ダラス氏を、米沢牛業界では米沢牛の恩人と呼んでいる。

 
伊藤鶴吉(1857~1913)

 神奈川県三浦郡菊名村出身、後に「横浜通訳協志会」会長となり当時の通訳の第一人者として活躍。

 大正2年1月6日胃がんのため横浜の自宅で逝去、享年57歳。

イザベラ・バード紀行「日本奥地紀行」の謎を読む 伊藤孝博著 要約)

 『伊藤はその割におしゃれがえらく好きで、歯を白くしたり、鏡の前で丁寧に顔に粉をはたいたり、日に焼けるのをひどく嫌がったりするのです。手にも粉をはたいていますし、爪を磨き、外に出るときは必ず手袋をはめます。』

 旅の途中(藤原)では、『伊藤はとても頭がよく、いまでは料理人、洗濯人、一般的なお供、それにガイドと通訳をすべて兼ねるほど有能で(中略)彼は強烈に日本人的で、その愛国心には自分の虚栄という弱みと強みがしっかりとあり、外国のものは何でも劣ると思っています。』

伊藤は頭がよく、旅支度などは指示されなくとも手際よく整え、人との交渉においてもその能力を遺憾なく発揮している。

酒は飲まず言い付けに従わないことは一度もなく、同じことを二度言う必要は全くないとバードは記している。

伊藤という通訳者無しでは今回の旅は成し得なかったかもしれないし、バードの手紙も内容は乏しいものになったことが想像できる。また、週に一度長い手紙を母宛に送っているし、送金もしており親孝行な若者といえる。旅行中の唯一の楽しみは夜の按摩だったという。

バードは函館で伊藤と別れるときこう書いている。
『愉快な蝦夷の旅を終えるのがひどく心残りで、(中略)この若者と別れるのがとても残念だったのです。』
、『今日は大変残念に思いつつ、ついに伊藤と別れました。伊藤は私に忠実に仕えてくれ、(中略)わたしは既に彼を恋しく思っています。』

 

イザベラ・バード   
 
 

旅行の装備

 バードの荷物は110(約50㎏)ポンド、(新潟から函館まで、船便で1個荷物を送り、その後は約29㎏となる)伊藤は当初の量から12(約5㎏)ポンドに制限された荷物。

 バードは折りたたみ椅子、ゴム製浴槽、シーツ、折りたたみ式ベッド、ブラントン氏の大判日本地図、イギリスの「アジア協会紀要」数冊、お金(紙幣と銅貨)、通行証、防水紙の合羽や油紙など、他に食べ物少々。

 ハリー・パークス卿から、馬は買わないほうがいいとの助言があり、乗り物は全て現地調達をしているが、苦労は耐えなかった。

イザベラ・バードと特に関係した人たち   

 イザベラ・バードが難儀して越えた十三峠(越後・米沢街道)の足跡を辿り、130余年の昔に遡ってみました。文は「イザベラ・バードの日本紀行」時岡敬子訳、発行所㈱講談社より引用。『 』内で示す。
一部「日本奥地紀行」(平凡社)高梨健吉訳を併記した。

イザベラ・バード
(Isabella Lucy Bird1831~1904)
              
              イギリスのヨークシャー州
              で牧師である父エドワード
              と母ドロシーの間に長女
              として生まれ、3歳下には
              妹ヘンリエッタがおり、旅
              行記は妹に送った手紙を
              もとにしたものである。
              
              バードが初めて海外旅行
              にでたのは、は1854
              (安政元年)年、医師に転
              地医療を勧められカナダ
              やアメリカ合衆国を巡った
              22歳の時である。

1878(明治11)年、47歳の時初めて日本を訪れ脊椎の痛みに耐えながら北日本・蝦夷・関西を旅し、マレー半島やカイロ等を経て帰国し、1881(明治14年)年にジョン・ビショップ博士と結婚しビショップを名乗る。1904(明治37年)年エディンバラで死去、満72歳であった。

何故旅先に日本を選んだのか

  『わたしは母国を離れて前にも効果のあった方法で健康を回復するよう勧められ、日本を訪れることにした。気候のすばらしさよりも、日本には新奇なものがとびきり多くあり、興味がつきないはずだという確信に惹かれてのことである。』「日本アジア協会紀要」を今回の旅に持参しているが、この中にはチャールズ・H・ダラスの「置賜県収録」(日本アジア協会会報に発表して米沢を広く海外に紹介した論文)が掲載されており、この影響も大きい。また、母国ではチャールズ・ダーウィンはじめ、いろいろな方からの助言があり、最終的には、欧米人が未だ足を踏み入れていない未踏の地、アイヌを訪ねることが今回の旅の大目的であったと思われる。

イザベラ・バード 
バードと十三峠 
 
 イザベラ・バート
   in 十三峠゙
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ハイジアパーク南陽所蔵 
 (当時の服装例) 
北京での投獄経験を持ち、夫人を伴い富士山にも登っている。北京でマラリアのため57歳で没した。

バードはハリー・パークス卿から、馬は買わないほうがいいとの助言があり、乗り物は全て現地調達をしているが、苦労は耐えなかった。 
 バードは横浜で通訳兼従者を雇うためにヘプバーン博士(1815~1911)立会いの下で応募者と面談を行い、三人目の応募者と契約しそうになったところへ、四人目の応募者である伊藤がなんの推薦状も持たずに現れる。以前植物採集家のマリーズ氏と東北や北海道を旅したことがあるという。(後で伊藤の背信行為がばれる)

バードは伊藤を信用できず気に入りませんでしたが、伊藤にはバードの英語が分かりバードには伊藤の英語が分かる。早く旅に出たいこともあり伊藤を月12ドルで雇うことにし、伊藤の頼みで一カ月分の賃金を前払いした。

 伊藤は18歳(20歳という説もあり)で身長は150㎝足らず。『がに股ながら、よく均整のとれた頑丈そうな体軀の持ち主です。顔は丸顔で妙にのっぺりしており、きれいな歯と細い目をしています。それに重そうに垂れたまぶたはまるで日本人によくあるまぶたを戯曲化したようです。』