ペンシルバニア州出身の眼科医。一八五九年に訪日すると無料で目の診療を行うとともに熱心な宣教活動行った。
宣教するために辞書が必要であることを痛感した彼は自ら英和辞書(ヘボン式ローマ字)を編纂し、現在も使われている。
晩年には明治学院の設立に尽力し初代学院長になっている。
チャールズ・ヘンリー・ダラス
米沢の牛を『米沢牛』と命名して売り出したところ、これが評判を呼び、米沢牛の名前がたちまち全国に広まったと伝えられている。兼ねてから米沢の牛の味に魅せられていたので、自分が雇っていたコック万吉を、親しくしていた女性ゆきと夫婦にし、家屋資金まで与えて牛肉屋を開かせ、店の名前を『牛万』と命名し、米沢の牛肉店の元祖ともいわれている。
このことから、C・H・ダラス氏を、米沢牛業界では米沢牛の恩人と呼んでいる。
伊藤は頭がよく、旅支度などは指示されなくとも手際よく整え、人との交渉においてもその能力を遺憾なく発揮している。
酒は飲まず言い付けに従わないことは一度もなく、同じことを二度言う必要は全くないとバードは記している。
伊藤という通訳者無しでは今回の旅は成し得なかったかもしれないし、バードの手紙も内容は乏しいものになったことが想像できる。また、週に一度長い手紙を母宛に送っているし、送金もしており親孝行な若者といえる。旅行中の唯一の楽しみは夜の按摩だったという。
バードは函館で伊藤と別れるときこう書いている。
『愉快な蝦夷の旅を終えるのがひどく心残りで、(中略)この若者と別れるのがとても残念だったのです。』
、『今日は大変残念に思いつつ、ついに伊藤と別れました。伊藤は私に忠実に仕えてくれ、(中略)わたしは既に彼を恋しく思っています。』
旅行の装備
バードの荷物は110(約50㎏)ポンド、(新潟から函館まで、船便で1個荷物を送り、その後は約29㎏となる)伊藤は当初の量から12(約5㎏)ポンドに制限された荷物。
バードは折りたたみ椅子、ゴム製浴槽、シーツ、折りたたみ式ベッド、ブラントン氏の大判日本地図、イギリスの「アジア協会紀要」数冊、お金(紙幣と銅貨)、通行証、防水紙の合羽や油紙など、他に食べ物少々。
ハリー・パークス卿から、馬は買わないほうがいいとの助言があり、乗り物は全て現地調達をしているが、苦労は耐えなかった。
イザベラ・バードが難儀して越えた十三峠(越後・米沢街道)の足跡を辿り、130余年の昔に遡ってみました。文は「イザベラ・バードの日本紀行」時岡敬子訳、発行所㈱講談社より引用。『 』内で示す。
一部「日本奥地紀行」(平凡社)高梨健吉訳を併記した。
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird1831~1904)
イギリスのヨークシャー州
で牧師である父エドワード
と母ドロシーの間に長女
として生まれ、3歳下には
妹ヘンリエッタがおり、旅
行記は妹に送った手紙を
もとにしたものである。
バードが初めて海外旅行
にでたのは、は1854
(安政元年)年、医師に転
地医療を勧められカナダ
やアメリカ合衆国を巡った
22歳の時である。
1878(明治11)年、47歳の時初めて日本を訪れ脊椎の痛みに耐えながら北日本・蝦夷・関西を旅し、マレー半島やカイロ等を経て帰国し、1881(明治14年)年にジョン・ビショップ博士と結婚しビショップを名乗る。1904(明治37年)年エディンバラで死去、満72歳であった。
何故旅先に日本を選んだのか
バードは伊藤を信用できず気に入りませんでしたが、伊藤にはバードの英語が分かりバードには伊藤の英語が分かる。早く旅に出たいこともあり伊藤を月12ドルで雇うことにし、伊藤の頼みで一カ月分の賃金を前払いした。
伊藤は18歳(20歳という説もあり)で身長は150㎝足らず。『がに股ながら、よく均整のとれた頑丈そうな体軀の持ち主です。顔は丸顔で妙にのっぺりしており、きれいな歯と細い目をしています。それに重そうに垂れたまぶたはまるで日本人によくあるまぶたを戯曲化したようです。』