沢庵和尚
@文禄4(1595)年 

豊臣秀次:.豊臣秀吉の甥、天正19年秀吉の長男鶴松の死後、その養子となり関白となった。しかし、文禄2年秀吉に次男秀頼が生まれると、高野山に追放され、自殺を命ぜられ、7月15日に切腹した。享年28歳。一緒に処刑された妾の1人は最上義光の娘といわれる。
旧道 

正保絵図【正保2(1645)年作成、市立米沢図書館所蔵】

「古屋敷の茶屋(助け)」 

 黒沢 伊藤平兵衛家の先祖平太郎が延亨3年(1746)にこの地に茶店を開いたと一書にある.。(小国の交通)
享和2(1802)年の絵図には「助け」と記載されており、茶を営みながら助けを兼ねていたものと思われる。
 明治17年小国新道の開通に伴い茶店を止めて黒沢に下山したようであるが、今でも当時の田形、土台石、沢から生活用水を引いた用水路跡などが解り、往時を偲ばせてくれる。

「清運海」の墓碑
 茶店の裏手の墓地に2基のお墓があり、その内の1基は「元治元年5月4日」に没した伊藤平次郎の碑で正面には「清運海塔」と刻まれている。
 このことから平次郎は海号を授けられていたことが解る。この清運海の修行については不詳であるが、熱心な湯殿山行者であったものと思われる。尚、この2基の墓石は昭和の末期に黒沢の共同墓地に埋められた。
12月11日 沢庵和尚死去。享年73歳。後水尾天皇から紫の衣を許された。紫衣事件(紫の法衣について幕府に抗弁書を提出した事件)で、幕府の怒りを買い、上山に流された。上山藩主、土岐頼行は草庵を寄進し禅師はこれを「春雨庵」と名付け、寛永9年までの3年間を過した。漬物の沢庵(たくあん)を考案したともいわれており、「無心の剣法」ということで知られる剣の達人でもあった
一里塚   
A文政10(1827)年

翌年の文政11年シーボルトのスパイ事件がおきた。シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外持出が禁じられていた日本地図などが見つかり、シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けた。
昭和中頃の黒沢集落中央部  

A元治元年(1864) 池田屋事件:6月5日京都三条木屋町の旅館 池田屋で新撰組が、潜伏していた長州藩の尊皇攘夷派を襲撃した。

新道(敷石道) 

享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

 

@享和2(1802)年当時の有名人
 雷電為衛門:総成績254勝10敗。それでも横綱になれなかった無敵の大関。当時35歳・遠山金四郎は9歳、千葉周作は8歳であった。


雷電
遠山金四郎
千葉周作
峠の歴史 
黒沢峠の案内 
 
 
宮本武蔵

「黒沢集落」

 村の発生は古く文禄4(1595)年には8戸(32人)、文政10(1827)年には18戸(104人)で2世紀前の戸数は現在とほぼ同じであるが、人口は倍近くと多かったようである。


 黒沢は小国〜市野々の間宿として利用されていたようであり、宿屋3(村上屋・川崎屋・小槌屋)、背負子宿2(最上屋、中通屋)、馬宿1(鎌倉屋)、茶屋2など交通関係の商売を営んでいた。因みに
明治8(1875)年に「旅籠屋鑑札」の交付を受けた家は6戸(伊藤平兵衛、伊藤藤吉、保科善助、保科奥治郎、保科伊与次、保科重兵衛)となっている。


 他に駄馬による駄賃取もしていたようであり、黒沢18戸で21疋飼育し輸送用として使われていた。

享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

茶屋(助け)跡   
「一里塚」 

 駅伝の賃銭計算上、距離を計り一里毎に街道の両側に土を盛った塚を造ったものを「一里塚」という。 米沢藩でも慶長の初期、宿駅の設置に伴い、領内主要街道の道の両側に標木を立て「杭場」が設けられた。

 黒沢峠のものは標木ではなく、1.5m程度の小さいものではあるが道の両側に塚があるので「一里塚」と表示している。

 米沢からの一里杭場は、下記のようであり黒沢峠の「一里塚」は起点から数えて12番目となる。@米沢城下大町 ⇒ A成島(川向) ⇒ B下小菅(からうと在家) ⇒ C下奥田(なつめ川) ⇒D上小松(観音堂下) ⇒ E松原(町端西) ⇒ F手ノ子(塩波) ⇒ G沼沢(炭釜) ⇒ H沼沢(杉橋原)⇒ I白子沢(かっこう) ⇒ J市野々(けんぽう梨下) ⇒ K黒沢峠下(楢の木平上) ⇒ L種沢(村ノ内)⇒ M小国(なめ沢) ⇒ N足ノ水頭 ⇒ O玉川(橋前) ⇒ P大里峠上

 尚、
正保2(1645)年の「正保の国絵図」には一里毎に印が記入されており、街道には慶長の相当以前から何らかの目印があったことが考えられる。
黒沢峠の歴史 
「荷替場」

 小国と市野々間は2里24町余りあるため此処で人馬は一服すると同時に
荷の左右を交換した。又、一駄分の駄賃は同じであるが一駄分の重量は品物によって異なることから不公平、不満を解消するため馬方同志の相互共助から「荷替場」が生まれたといわれており、荷替場で相互に荷物を交換し折り返すことで日帰りでの運搬が可能になるというメリツトもあったようである。
十三峠では「大里峠」の沼側にも荷替場が見られる。
 置賜と越後を結ぶ道は、
その時代、時代によって
色々なルートがあったが、
現在の「越後米沢街道」(十三峠)は、室町時代の大永元年(1521)に伊達稙宗(伊達政宗の曽祖父)が大里峠を開いたのが始まりとされ、その後東側の各峠が整備され十三峠が成立、黒沢峠の旧道もその内の一つである。



 旧道は黒沢集落から尾根伝いに通るルートで、新道(敷石道)の200〜300m北側を新道(敷石道)と並行し黒沢と市野々の集落を結んでいる。


 延享3(1746)年頃に峠頂上の西側に茶屋が開かれたといわれており、その時点では敷石道がメインルートになったものと考えられる。


 黒沢峠の敷石工事は、天保10(1839)年、安政5(1858)年、慶応3(1867)年の3回に分けて行われ行われた(小国の交通)といわれており、今でも道脇の岩塊には鏨の跡が見られる。
黒沢集落から間もなくの所にある「荷替場」 

絵図【年代不明、高橋康氏所蔵】

新撰組局長  近藤勇

@正保2年(1645)  

5月19日 宮本武蔵死去。享年62歳。二刀用いることで有名な二天一流兵法の祖であり、水墨画・工芸家としても知られる。名字は宮本又は新免と言われているが本姓は藤原。慶長17年4月21日29歳の時佐々木小次郎を船島にて倒す。

B明治8(1875)年

明治政府は税制の整備に注力。酒税は明治8年、たばこ税も翌9年に始まった。明治初期に設けられた税金の中には、ウサギの税51円などがあり、「兎取締ノ儀」に基づき、ウサギの飼育にかけられた税金です。「ウサギを隠れ飼いした4人を逮捕」(東京)などの記事もある。

豊臣秀次

 江戸幕府が、諸大名に命じて国単位で作らせた正保2(1645)年の「正保の国絵図」には「めくらころばし」(現在は「座頭転び」と呼ぶ)の地名が記されていることから、この絵図は新道(敷石道)と考えられ、旧道の利用期間は100年弱だったと思われる。延亨3(1746)年に古屋敷に茶店を開いたことが正しければ、下記のような黒沢峠の歴史が考えられる。


@黒沢峠の旧道は大永元(1521)年から、宇津峠が開かれた天文(1532〜35)年間の間に開かれた。

A正保2(1645)年以前に新道(敷石道)が開かれ、延亨3年(1746)時 点では新道(敷石道・当時敷石は無かった)がメインルートとなった。

B天保10(1839)年から慶応3(1867)年の間に新道に敷石を敷いた。

C治17年(1884)に小国新道(県道山形-新潟線)が開通し、黒沢峠は利用されなくなり土砂に埋もれた。
 
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「黒沢峠の概要」  
黒沢峠の案内
  それから約100年近く経った昭和55年(1980)に黒沢集落全戸が会員となり「黒沢峠敷石道保存会」を設立し、大勢の学生や町民などにご協力をいただいて、埋もれていた敷石を約5年間かけて復元した。 

 現在残っている黒沢峠古道の全長は2.6kmであり、内1.8kmに敷石が敷かれており、その石の数は3600段といわれている。平成21(2009)年からは、黒沢集落以外からも会員を募り、黒沢峠の保存活動を行っている。