真っ赤に燃える炭窯の中はきれいでした


 部落で“弁慶の足跡”と親しまれている石塔

 弁慶の足跡

    (この話はまさじいのフィクションです)



50年以上も前のある日の事を今でもよく覚えている。
今はすっかり変わってしまった集落、当時は誰もが貧しい生活だった。
だとしてもそれが貧しいことだという認識はそれほど強くはなかったの
だと思う。みんなたいした変わりのない生活状態だったのだから。
それは、まさじいがまだ小学校にあがったばかりの頃のこと。親は毎日
暗くなるまで働いていたから、学校に上がれば当然のことのように子供
たちにも家事の役割が与えられた。そしてまさじいの役割は風呂を沸か
すこと。その日、ちょっとばかり遊びが楽しくてその役割の仕事をいつ
もの時間に終わすことができなかった。暗くなるまで外を駆け回って遊
んでしまったのだ。自分の仕事を思い出した頃は手遅れ、秋もだいぶ深
まりいつのまにかあたりは薄暗くなっていた。あわてて家に駆け込んでいけ
ば、そこで迎えたのは親父の大目玉。家を追い出されてしまった。
「ちくしょう、絶対に家に帰るもんか」
泣きながら家を飛び出して、さて行くところもないまま坂の上の我が家
から坂を下る。まだ舗装もされていない砂利道の頃で、街灯などあるはず
もない。クヌギ坂と呼ばれたその坂にはかつて大きなクヌギの木が道の
まん中にあったということなのだが、まさじいは見た記憶がなかった。
あるものといえば炭窯と、たぶん穀物を脱穀する集落の共同設備の小屋だけ。
家を飛び出してきたもののそこから先に行くことなど考えも及ばない。
泣きべそをかきながら道を下っていくと呼びかける人の声が聞こえた。
「どうした?何で泣いてんだ」
ギョッとして声のする方を見ると、炭焼きの貞さんが炭窯の前に座ってこ
ちらを見ていた。
「今頃どこへ行くんだ?」
「・・・」
「寒かんべ、こっちにきてあたれ」
行くあてもなく、結局貞さんの横に座って炭窯の火を見つめることになった。
「なんだ、父ちゃんに怒られたのか?」
「うん・・・」
炭窯の中は赤く火が燃えていた。炭焼きのどの段階だったのかなど認識の外、
その燃え盛る赤い火を泣きべそをかきながら眺めていた。貞さんもしばらく
黙ったまま時折小枝を炭窯の中に放り込んでいた。
それから思い出したように湯呑茶碗でなにか飲んでいたが、お酒だったのだ
と思う。やがて口を開くと、いいことを聞かせてやると言って話しはじめた。
横にちょこんと座って泣きべそをかく子供にどうしたものか考えて、やっと
思いついたというような話し方だった。今思えばということだが。
「そこに“弁慶の足跡”がある石、知ってっぺ? な、その話をしてやるよ」
いつも一人でいるところしか見たことがなく、自分でも面と向かって話をし
た記憶などなかった貞さん。無口な人だったのだろう。ただ住まいは近所
だったし顔はよく知っていた。それに、“弁慶の足跡”がある石もよく知って
いた。クヌギ坂を登り始めてすぐのところに立っている高さが2mほどの、
タイ焼きでいえば腹の部分が平らな石だ。その平たい部分に30cmはある
足形がある。いや、足形に似たくぼみがある。それがなぜ“弁慶の足跡”と
呼ばれているか、を、ぼそぼそとした口調で話し始めた。


「昔な、源の義経って言うお殿様がいたんだが、このお殿様は戦に出れば勝つと
いう強いお殿様だった。あまりに勝つもんだから、ま、兄ちゃんだな、兄ちゃん
の殿様に睨まれてしまった。」
そこまで言うとゆっくりした動作で茶碗をとり、中のものを少し飲んだ。それか
ら横に置いてある長い棒をとると、炭窯の入り口あたりに落ちている燃え掛けの
小枝を突っつきながら炭窯の中に押し入れた。
「それで兄ちゃんが住んでる鎌倉にいることができなくなって、家来を連れて北
の方に逃げて行った」
「知ってっか?義経には家来がいっぱいいたが、その中でも一番強いのが弁慶と
いう坊主だった」
ぼそぼそ、とした口調で話すので少し聞き取りにくくて、それでもだんだん面白
くなってきて泣くのも忘れて話に聞き入った。
「昔のこったから殿様以外は皆歩きだ。ぞろぞろ行列をつくって北に向かって歩いた。
で、殿様の一行がこのクヌギ坂に差し掛かり、歩いて行くと人だかりがしていてな」
ここまで話すのにもすんなり言葉が出てくるわけじゃないから結構時間がかかって
いるのだが、それが長い時間だったのか遅くてじれったかったのかとんと記憶にない。
「で、行列が進んでいくと何人もの男や女が集まってなにかやっている。そこで
弁慶が駆けだして行って
「こらー、行列の邪魔すんじゃねぇ」 そう怒鳴ると、集まっていた村人が初めて行列に気が付いたんだな」
貞さんはそこで話を切った。遠くを見るように炭窯の火をみていたが、それは
これからの話の筋を思い出しているようでもあった。それからまた話し始めた。
「弁慶が走っていくと集まっていた村人がひれ伏したので、それで初めて弁慶は
大きな石が道のまん中に立っているのに気がついたんだな。
「一体何しているんだ、貴様らは」って弁慶が言うわけよ」
「・・・」
そうして時々茶碗を取っては間を置きながらの話の筋書きは次のようなものだった。
ひれ伏した人の中の一人が言った。
「俺らは近くに住む者です。ゆうべ雨が降ってそこに立っている石が上から転げ
落ちてきたんです。道のまん中で邪魔になるんで皆でどかそうとしていたところ
です」と言って道の片側の山の斜面を指差した。
「それだけ頭数がそろってりゃさっさと片付くだろうが」
「そうですがお坊様、石が道に突き刺さっていて何とも動かないんです」
「たいした大きさでもないのに何で動かせないんだ、早くどかせ!」
「そう言われてもなかなか」
そんな押し問答をしているうちに行列の人々が追い着いてきて弁慶たちの会話が
聞こえるところまでやってきた。
すると行列の中から声が上がった。
「弁慶殿、貴殿ならば一人で動かせると言われるのではないのか?」
「こんなもの、造作もないことだ」
「造作もないと言われるならば是非にとも見てみたいものだ」
そう言うと、他の人たちも口々にはやし立てるように声をあげた。もう村人の問題
ではなくなっていた。
「それに、造作もないと言われるなら手など使わずともできるのでは?」
皆がはやし立てるので、最初に声をあげた武士がさらに追い打ちをかけるように
そう言った。
「む、無論だ!」
売り言葉を買うように、といったタイミングで弁慶が言った。
ということで弁慶が手を使わずに石を道からどかすという、とんでもない方向に
話が進んでいった。ところで、弁慶が大きな石を手を使わずに動かすということ
がお殿様の耳にも入り、それなら自分も見てみたいと言われて馬を下りて近くに
よって来られた。もう弁慶はやるしかなかった。改めて石の前に立って眺めると、
2m近い弁慶よりさらに50cmも高い大きな石だった。ゆっくり石の周りを歩
きながら眺めていたと思うと平らな面に向かって立ち止った。
まわりの人たちも始めはからかう気持ちではやし立てたものの、いざ弁慶が石の
周りを歩きながら何か思いを定めようとするのを見ると、まさかと言う思いでか
たずをのんで見守った。やがて、石との間合いをとると気合いもろとも弁慶が
右足で蹴りかかった。
「うりゃー・・・」
するとなんと、蹴りを入れた石が下から50cmほどのところでボッキリ折れ
て倒れてしまたのだ。その瞬間まわりからどよめきが起こった。
「うわー」
誰もが考えもしなかったような見事なけりだった。あまりにも強烈だったために
足が当たった部分が3cmほどへこんでしまった。こうして面目をほどこした弁慶は、
真っ赤な顔をして皆に向きなおった。如何に一瞬の中に力を込めたかがよくわかった。
とは言え、弁慶本人が本当に自信があってまわりの挑発を受けたかどうかは定かで
はなかったが。

その後、村人たちはこの蹴り倒されて弁慶の足型が残る石を道の横に立て、弁慶の
凄さを語り伝えてきた。近年になってこの石には「馬頭観世音」の文字も刻まれ、
村の人たちに大切にされてきた。
「それがな、そこに立っている石だよ」
そう言って、今はもう暗くて見えない石のある方向を指さした。そこで貞さんの
話は終わった。まさかね、などと思うにはあまりにも無知だった。今になってみ
ればかなり貞さんの脚本が入っているんじゃないかとも思う。ただ、昔からこの
界隈では“弁慶の足跡”と言われ、いまだに言い伝えられている。
夢中になって話を聞いていた幼いころのまさじいの目に、もう涙はなかった。
炭窯の火の照り返しで赤くなった貞さんとまさじい、話の余韻に浸るように黙って
座っていた。しばらくして母親が心配して探しに来てくれた。今はもうすっきりした
まさじい、母親の後についてとぼとぼ歩きで家路についた。
何度も何度も思い返したその時のことが、今では一枚の絵のようにまさじいの中に
はっきりした輪郭を持った記憶として残っている。


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