那珂川には渕がたくさんある。その一つ、黒羽の高岩神社の渕。

那須記 エピローグ



やっぱりいたのだ、八溝の怪物。那須記によれば

その正体は数千年を生きながらえている蟹のおばけ

だった。大きさと言ったらその高さは180センチ

にもなり、60センチほどの長さの角が生え、頭部

からは30センチほどの目が飛び出しているという。

10本の足は120センチほどもあるのだ。しかも

全身を覆う毛は白くて刀をもはね返すほどの硬さ

だったという。こんな怪物が真正面に向き合った

ら横は5メートル、高さは3メートルにもなって

しまうではないか。その名を岩獄丸と呼ばれた鬼神

であった。そんなやつが腹をすかしていたら、

やっぱり人間も餌食になってしまうだろうな。

だから事件は全国区になってしまった。何しろ

家畜はおろか人間までをもかっさらって食べて

しまうため近郷近在は恐怖のどん底にあったの

だった。


その頃、天治二年の年とはいったいいつ頃のこと

だろう?西暦では1125年に当たり崇徳天皇の

治世だというが、何ともぴんと来ない。

事件がテレビで放映される現代は重箱の隅もない。

だが、900年も前の我が那須は人家を見つける

のも大変、小勢力の豪族がまばらに点在する時代

だった。だが、意外と今の時代からそんなに遠く

はないのだ。確かに人口は少なくて原野、原生林

がたくさん残っていた時代ではあった。

さて、那須の起源をたどるというよりも我が那須

を知りたくて、那須記をもとにしばらく広大な

那須の野をさすらってみたいと思う。


まずは、先の鬼神の退治を宇都宮座主であった

藤原宋円が帝に直訴したのが始まりだった。

これには帝もびっくりして、さてどうしたものか

と家来たちを集めて会議を開いたのだが、その時

是非自分にやらせてくれと申し出たのが藤権守貞信

だった。武の道で世に知られた貞信は了解をとる

と手勢200名を引き連れて相模の国を出発した。

そして下野の国に入り地元の軍勢を募ったところ

須佐木、須賀川、蛇穴、磯上あたりから500名

ほどが集まった。その中でも地理に詳しい蛇穴の

大槻大蔵を道案内として鬼神が住むという八溝の

山に向かって歩を進めた。それから鬼神が住んで

いそうなところをあちこちさんざん探したが見つ

からない。もういい加減いやになっていたところ

一人の老人が現れて言うのだった。

「私がその鬼神が住んでいるところを知っておる。

そこはとにかく険しくて鳥や獣も近づけず、いつ

も黒い雲がかかっておる。笹獄というその中心から

は光さえ出ておる。」

と言うのだから半端じゃない。

老人は貞信に蟇目鏑を与え、氏子を食われて悔しい

思いをしているのでこれで岩獄丸を射なさいという。

そうすれば大巳貴神である自分が貞信の行く末を

守ろうと言って消えてしまった。貞信は喜んで

手勢30人ほどを連れて笹獄目指して踏み入った。

ところが言われた通り半端じゃない難所で岩穴が

見えない。仕方なく虚空を仰いで山王大権現に鬼神

を見せてくれと拝むと、黒雲が晴れてついに岩穴

から現したその姿は聞きしに勝るすさまじい化け

ものだった。口は耳元まで裂け、そこから飛び出

す舌は炎のように見えた。10本の足で手当たり

次第に、まさに雨あられのように石を投げつけてくる。

これを見て、貞信が弓を目一杯引き絞って鏑矢を

放つとそれは見事に頭に命中した。怒り狂った鬼神

が貞信めがけて飛びかかってくるのを駆け寄りながら

刀で切りかかった。そして家来の後藤次郎忠義が何度

も刀を突き刺した。こうして鬼神を打ち取った手柄

により貞信は下野の国那須の守護を任された。

名を那須藤権守貞信としたがその後那を略して

須藤権守貞信とした。鬼神を打ち取れたのも神の

おかげと山王権現と大巳貴神(日光権現)の社を

建てて祀った。貞信は現在那須烏山市となっている

小川に居城を構え、その名を神田城と言って広々

とした平城の城下町は大変賑わったということで

あった。

これが那須家としての始まりであり、那須記のスタート

でもある。貞信自身は14代前が藤原の鎌足の流れ

をくむ家系であり、その34代あとの資興の時に藩

籍が奉還されている。営々として続いた那須家の家系

をみると、そのひとつひとつがドラマを見るような

時の流れを感じさせる。その中でも圧巻は8代あとの

宗隆だろう。男兄弟12人の中の11男として生ま

れたが24ヶ月過ぎても生まれなかったいわくつきの

出生だった。11人のうち9人が平家に仕え、宗隆と

すぐ上の為隆の2人が源氏に仕えている。さてここま

で来るとピンと来るかな。そうなのだ。平家物語の

壇ノ浦で名をはせた那須与一宗隆だ。そして那須記には

不思議な話が出てくる。与一が扇の的を射た時に乗っ

ていた馬の事だ。鵜黒の駒といい、野馬と川鵜の間に

できたという、まさか、の馬だ。母は並はずれて足の

速い牝馬であり、父は那珂川の黒羽にある牛居渕とい

う深い渕のあたりを住みかにしていた川鵜の群れの

リーダーだ。飛びぬけて体が大きく真っ黒な羽毛に

覆われていた。生まれてきたその子は両親の良いと

ころを総取りした名馬になった。つまり、並はずれ

た足の速さと、川を渡るのも自在にできるというま

さに水陸両用の漆黒の馬として育ったのだ。

与一が扇の的を射ようと海に乗り入れても難なくこな

せたはずだ。話はひょっとしたら大役を果たした鵜黒

に後から付いた伝説なのかもしれないのだが。

それからこの扇の的を射るにあたってはもう一つ、

那須記の中に記述がある。的となった扇から光が立ち

上り、それを見た与一が不思議に思っていると鵜黒の

頭に子供が現れ

「我は温泉大明神である。扇の日輪から蜘蛛の糸を引

いたからそれに沿って弓を射なさい。」

と言ったというのだ。別の記述では、波があって小船

が揺れるので温泉神社に波穏やかにと祈ったとある。

どちらにしても温泉神社が関係している。


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