第59回びわ湖毎日マラソン 3月7日(日) 2時間32分09秒=112位

  びわ湖毎日マラソンのイメージ。東京に比べると実業団ランナーが多く市民ランナーが少なくてどことなく敷居が高そう。コースもびわ湖沿いということになっているが単調そう。そしてこの時期特有の安定しない気候で1回目は雨、2回目は大会当日だけは晴れで前後の日は大雨でした。そして出場する理由もあくまでも東京のあとのついでの感じが否めないず消極的なイメージだけど、相性はいい大会で過去2回とも2時間30分を切っているゲンのいい大会なのでした。
 東京国際は20kmでタイムアウトになっているだけに今回は20km関門を突破して完走するのがまず最低の目標。次に2時間30分を切って東京やびわ湖の参加資格を2年後まで延長することが次の目標でした。最低の目標を突破するためにつどーむで5000mを4本とかトレッドミルに初挑戦してスタミナ型の練習よりはスピード持久力に重きを置く練習を心がけました。
  金曜の夜に大津入りしたものの、翌朝から寒気が入って寒くなっており、大会当日は雪で気温4度になるだろうとの予報であわてて京都まで行ってアームウォーマーを買ったり、塗るカイロというべき保湿剤を購入するなど防寒対策に慌てはじめました。大会当日もスペシャルドリンクを預けに7時30分過ぎにオフィシャルホテルに行く道のりも雪景色。なんか先行き不安な状態でした。
 11時までに1次点呼ということで10時45分に競技場に入りチップ入りのゼッケンを持ってセンサーを通過するだけの点呼を済ませて狭い控室でアップまでの時間を過ごす。気温も低く雪ということでアップはいつもよりゆっくりと念入り、距離も時間もいつもの倍近く、しかもホットカイロを腰や膝に貼ったまま行うと体がじわっと温まってきました。12時15分に集合場所に行くと横殴りの雪で、気分はとっくに北海道。どうせ降るんなら路面を積雪状態にするくらい降ってしまえと開き直ってました(^^。ランシャツランパンだけの選手は見るからに寒そうです。今回のソンスの防寒対策はつば付きの帽子着用、アームウォーマー、汗が出るのか心配なくらい保湿剤べた塗り、前のゼッケンと同じサイズにビニール袋を切り抜いて腹冷え防止とできる限りのことはしました。北海道だから寒さは大丈夫とみんなから言われますが、数年前に寒さをなめて雨天のレースに出たら全身が痙攣したことがあったので過信はいけません。
 いつもより長く感じたスタートまでの時間。ようやく12時30分にピストルが鳴ってレース開始です。グランドを2周半してロードに出るのでちょうど競技場を出たところが1km、3分25秒と低温でゆっくりめの感覚だったのでまずまずのペース。2回右折してびわ湖湖岸の道路に出ます。この辺はまだ集団が形成されず縦長の状態。後ろはすぐ収容車が迫っていると思われ怖くて振り返ることはできません。東京に比べてびわ湖は市民ランナーが少ないのですぐ後ろに収容車が来る感覚なんです。(そんな余裕もないけど)3kmを過ぎて集団が形成されつつあり、自分も無理のないペースで行ける集団の前のほうに位置する。沿道の窓の反射で確認すると7〜8名の集団の感じ。まだ13kmくらいまでは追い風なので集団の前にいても風の影響は受けないけど、それからの向かい風が辛いかもしれません。5kmは17分17秒で追い風を受けている割にはペースは伸びておらずちょっと心配になり、自分が少し引っ張ったりと落ち着かないレースとなりつつありました。ただこの頃は体もずいぶん温まってきており動き自体は悪くはなかったのです。でも前も集団とはだんだん離れつつあり、私だけでなく選手は皆、体が温まって動きが良くなっていたのでしょう。応援の多い瀬田の唐橋付近を通り10kmは34分45秒(17分28秒)。追い風にもかかわらずすでにキロ3分30秒のペースに落ち着いていました。これからの区間はコース随一のアップダウンと13kmから7kmの向かい風のマイナスを考慮するとここでまた少しペースを上げて貯金しておきたいところ、石山あたりで意識的に前に出てみたりもしましたが、キロあたりのペースはあまり上がっていない様子。11kmでレース初のスペシャルをとる。東京の給水の失敗を踏まえて、目立つ旗、黄色い粘着テープを折り曲げて輪を作る。室内装飾用の派手なパーティセットの光物も目印にして万全でした。13km過ぎの南郷洗堰で瀬田川を渡ると南下していたコースは一転北へ向かいます。冬型なので当然向かい風。15kmは52分26秒(17分41秒)、うーんキロ3分30秒をオーバーしてきている。仮に残りキロ3分30秒で5kmを走破しても20km70分の関門にわずか4秒差と万全とはいえません。ましてや向かい風なのですから。
  そこに救世主登場、ハートブレイクのA木さんが集団を引っ張っぱりペースが速くなりはじめました。お陰で自分が関門を通過できたと言っても過言じゃありません。5〜6人が引っ張られて前の集団がだんだん近づいてきました。明らかにペースは上がっていますが、東京国際の時はスピードの反応は全然できなかったのに比べれば、集団のスピードに反応できたのが嬉しかったです。19kmは手元の時計で1時間6分18秒、あと3分42秒で行ければ関門通過なので、後のことを考えて集団から意識的に距離を置きました。これが良かったのか悪かったのか?今となってはわかりませんが。。。とにもかくにも20kmは1時間9分53秒(17分27秒)とわずか7秒で通過。係員が関門封鎖の縄?を持っていたのが印象的でした。中間点は1時間13分49秒、まだ2時間30分までは残り半分を1時間16分11秒で行ければいい、中間点で「もう半分」なのと「まだ半分」ではずいぶん記録が違ってきます。もちろん前者のほうがいい記録が出ると思いますが、そのときの心境は「もう半分」でした。ウルトラマラソンを間借りなりにもやった経験が生きてたのかもしれませんが、意外と短く感じられていたのです。ただし、脚の動き的には一時的に辛さがありました。20kmの関門までに脚を使っちゃったかなって感じです。できればこの脚は30km以降にとっておきたかったのですが、ここで脚を使わなければ関門通過はできなかったでしょう。
  さてびわ湖マラソンは20km関門だけでは安心はできません。25kmにも1時間28分という関門があるのです。つまりソンスの場合だと20〜25kmの5kmを18分7秒で走破しないといけません。安心してペースダウンをすると25kmでアウトということにもなりかねないのです。幸いにも22kmを過ぎる29kmくらいまでは追い風になります。ここで力を少し抜いてピッチ走法を意識するといままで追いつかなかった前の集団から一人二人と拾っていけるようになりました。ほとんど単独走に近い感じですけど、自分のペースで抜いていけました。25kmは1時間27分34秒(17分41秒)と関門閉鎖まで26秒の余裕がありました。30km関門は1時間48分ですからキロ4分さえきれればいいので関門の恐怖からはひとまず解放されました。湖 岸沿いというか瀬田川沿いのコースは道幅は狭い分、沿道の応援が近くから聞こえて力が湧いてきます。知り合いのネットラ ンナーから声をかけてもらったり、名前、「北海道頑張れ」とか。湖岸沿いの狭いコースというと地元洞爺湖マラソンの30km 過ぎの地点を思い出します(でもその区間は応援がほとんどないけど)。29kmでまた南郷洗堰を渡ると再び北上して向かい 風との闘いになります。頭の中は辛うじて2時間半をカットした昨年をイメージしてました。「このままいけば2時間半は切れそ う、脚だって充分動いている」。30kmは1時間45分24秒(17分50秒)と昨年の通過タイムとほぼ同じくらい。こうなると気 持ちはイケイケモードです。キロ3分40秒を少し切るくらいでいければ良いわけですから。このコース一番のタフな区間である アップダウンも前のランナーを目標にまた一人一人抜いていくことができました。ところが、石山寺を過ぎたあたりなのでたぶ ん32km地点くらいだと思いますが、中間点過ぎから好調だと思っていた走りに陰りが。。。前のランナーは見えるのだけれ ど、中々差が詰まらなくなってきた。力みが出て膝や腕の運びが悪くなってきた。そして気持ちのうえでも守りの姿勢というか 少しペースを落としたい。そう思うようになってきました。向かい風がきついとか寒いとかスタミナ切れとかはあまり感じないの ですが、脚や腕振りが明らかに緩慢になっており、それがペースダウンにつながり、1キロ当たりのタイムも3分40秒を超え るようになってきました。35kmは2時間03分53秒(18分29秒)。スタミナ切れのない頭の中でははっきりゴールまでのタイ ムを計算することができます。最低限でもこの区間は18分ヒト桁で上がり、残りは競技場まで必死に走ること。このあたりか ら大津中心街というかプリンスホテルの高い建物、西武とか見慣れた景色、いや昨日もここは苦しいだろうと予め試走してい た区間。「ここでまできて2時間半が切れなかったら、また1年間苦労するぞ」と自分に言い聞かせながら走ります。というのも ここで2時間半を切れれば2006年のびわ湖まで参加資格延長ですけど、切れなければ2005年までの有効期間。また今 年の秋くらいから目の色を変えて本州のレースに参戦して記録狙いにいかなければなりません。気持ち的にも経済的にも辛いものがありますので。
そうこうしているうちに残り3km、オフィシャルホテルの琵琶湖ホテルを通り、浜大津に入ると強烈な向かい風が。。。もう走 りはジョギングモードになってました。40km2時間23分22秒(19分29秒)、2時間半突破は完全に白旗状態でした。あと は最低目標でもある完走に向けて競技場まで一直線。スタートの時はあれだけ降っていた雪も上がり、また皇子山陸上競技 場に戻ってきました。スタミナ切れでフラフラにならない限り、ラスト100mは力を出し切るのがポリシー?なのでラスト100m だけは切り替えてゴールしました。2時間30分は切れなかったけど、2回連続の途中棄権にならなくて良かったとホッとしたのが本音です。
 
 レースが終わってその夜はフェアウェルパーティもありました。前夜祭とは違い着席のパーティは珍しく、堅苦しいセレモニーもなく仲間でゆっくり歓談できる楽しいパーティでした。パーティが終わってからも自分も含めて飲み足りない4人衆(熊本のF島さん、長野のさっしゃさん、東京のT木さん)で大津駅前の飲み屋を探すも、一軒は貸切で残りは日曜日で休業。県庁所在地で飲み屋捜しにこんなに苦労するとは。。。結局、居酒屋難民となり電車10分かけて京都駅前の居酒屋まで遠征しました。いろいろその土地土地の話、走り以外の話で閉店まで盛り上がりました。

大会前日、大津港から比叡山方向へ 大会当日の大津駅前は雪模様 スタート直後(kyokoさん提供)

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