北海道旅行記
 (三浦綾子作品めぐりの旅)

6月7日(土)
 YOSAKOIソーラン祭りと北海道音楽大行進を見る
1 ぎりぎりの搭乗
 札幌行きの飛行機は7時半なので、前日は都内で泊まることも考えたが、節約のために、一番電車で出発をすることに決めた。4時過ぎに起き、4時45分頃に自宅を出発。夏至間近で外は既に明るい。寝坊をしなかっただけでも運がよい。
 5時13分発の電車で熊谷を出発。大宮に近づくにつれて、乗客が増えてきて土曜の朝にしてはラッシュアワー並みの混み方だった。こんな朝早くからどこへ行くのだろう。大宮で降りる人が多く、大宮から上野はゆったりした感じだった。
 上野、新橋で乗り換えて、新橋から地下鉄、京浜急行経由で羽田空港へ向かった。約30分揺られて、羽田空港に着いたが、時刻は7時10分。急ぎ足で2階へ駆け上がり、ぎりぎりでチェックインと荷物預けを済ませた。荷物検査を済ませると、南端の搭乗口までひたすら走るのみ。こうして出発5分前に飛行機に乗ることができた。浜松町からモノレールで行けば、もう少し余裕があったかな。
2 空の旅を楽しむ
 搭乗した日航503便は、7時半の出発だが、出発便が多いのか、5分以上経ってから搭乗口を離れ、滑走路をトコトコ3,4キロ走って、南に向かって離陸をしたのが7時50分近くだった。離陸後すぐに左旋回をすると、羽田空港が箱庭のように小さくなっていた。
 間もなく、新木場、浦安などの東京湾岸地帯が見え、窓越しから下界の景色をカメラに撮った。普段は見ることのできない、空から見た東京の風景。家や高層ビルが点の集まりのようである。大島、船堀、金町、三郷を通過したら、雲に覆われて下界の世界とはしばしお別れ。
 この便には、男性客室乗務員が1名いて、白一点で目立っていた(初めての飛行機にも男性客室乗務員がいて、空の世界も男女平等なのだと感じた)。高度が安定してくると、飲み物が配られ、ジュース系を2,3杯おかわりをした。
 8時15分を過ぎると、仙台付近を通過し、雲間から水田が見えた。遠くに目をやると、残雪の蔵王連峰が見えた。その後は栗駒岳(残雪あり)、秋田の湯沢・横手(親戚宅のそばを通過して感激)、田沢湖、駒ヶ岳、鹿角、十和田湖をあっという間に通過していった。この間約15分。車だったら数時間はかかるだろう。上を見ると澄んだ水色の空が広がっていた。
8時40分を過ぎたら高度が下がり始め、雲間に埋もれていった。どこを飛んでいるのだろうと思ったら、苫小牧付近だとモニターで確認。8時50分には北海道に入り(わずか1時間で)、右に左に旋回しながら空港に近づいていった。下界は緑や茶色の畑、まっすぐな道、点在する家々が広がり、その光景がどこまでも続くようであった。最後に森林を見ながら、9時過ぎに北から進入して新千歳空港に着陸をした。
 飛行機から降りるときに忘れ物がないか確認をしていたら、客室乗務員が「お金だったら置いていってくださいね」と冗談を言った。初めは失礼なことをいうなと思ったが、後になって冗談を言うくらいの余裕で、リラックスさせようと配慮をしたのではと思った。
3 バスで札幌へ
 空港を降りたら、気温が10度くらいで半袖では肌寒かった。でも、動いているうちに暖かくなってきたのでそのままでいることにした。
 売店では、姉から頼まれたアイスを確認し、中央広場では北海道のお菓子を販売するミニ博覧会みたいなことをやっていた。シンボルであるシュガーアートは目を引かれ、砂糖で作られたデコレーションケーキは生クリームと見間違うくらい精巧に作られていた。ここでは、福祉施設で作られたクッキーを買った。アンケートにも答えたが、よく見てなくて実はいい加減に答えていた。
 展望デッキで離発着する飛行機を見てから、バス乗り場へ。地下経由で行ったのだが、出口だけでなく乗り場も間違えて、遠回りをする羽目に。それでも、札幌行きのバスに乗ることができた。
 バスは千歳市街を経由して高速道路に入った。黄緑色が目立つ森林は春が終わって間もないことを感じた。どこまでも続く森と草原、畑だけの光景は本州ではあまり見られない。帯広まで180キロの看板を見たときは、帯広はけっこう近いと思った。
 うたた寝をして目が覚めると、高速道路を既に降り、札幌市内を走っていた。福住、月寒などあまり聞き慣れない地名を通過。○○条のわりには店や住宅がひしめき合っていて、地元と似たような光景であった。札幌ドームの前も通過して、今年の年賀状で絵のネタにしたことを思い出した。
 空港から1時間近くかけて都心に入り、豊平川、藻岩山を見た。大通公園のYOSAKOIソーラン祭りを早く見たいのに、道は渋滞していて大通公園になかなか近くならないので、まだかまだかと思った。すすきのはゴミゴミしているかと思ったら、大通りに面し、高層ビルが多く、開放的な感じで、想像と違っていた。

4 意外だったYOSAKOIソーラン祭り
 大通公園に着いて目に飛び込んできたのは、祭りに参加している若者の集団だった。どちらかというと女性が多く、違う世界に飛び込んだようだった。チームによって格好やメークが違うので、チーム毎に特色が出ているようだった。しかし、くつろごうにもくつろぐ場所がなく、とりあえずはYOSAKOIの踊りを見ることにした。
 しばらく大通公園北側会場で踊りを見た。大通公園に着くまでは、チームでよさこいソーラン節を踊るかと思ったが、実際は各チーム毎に創作ダンスを披露するものだった。祭り用に装飾した大型ダンプ(またはトラック)を先頭に、30〜100人くらいチームが、力強く元気なダンスを披露した。最初に見たのが、子供中心のチームで、息がぴったり合っていた。次は販売店のチームで白装束になったり、全身白タイツになたっりして、集団で1つの芸術作品を作っているようだった。地元札幌テレビの実況中継もあって、どこのチームも気合いが入っていた。見ている方は、20度くらいの爽やかな風に吹かれ、気持ちよく見ることができたが、観客が多くなかなかいい位置で見ることができなかった。
 チーム名を見ると、北海道内だけでなく、よさこいのふるさと高知県をはじめとする他県からの参加もあった。上位に入るチームは常連で、ダンスのレベルはもちろん、衣装も凝っているものだった。祭りは秘かに北海道の経済に貢献しているかもしれない。
 若者中心、大学生、地元住民、北海道と高知の合同チーム、職場の仲間など1時間くらいの間で、様々なチーム、踊りを見ることができた。本当は他会場にも行って、もっと見たいのだけれど、旭川に行く時間が間近になり、後ろ髪を引かれる思いで大通公園を後にした。祭りと並行して、北海道の食材を題材にした催し物をやっていて、仮設飲食店が所狭しと並んでいて、こちらもたくさんの人で賑わっていた。
5 キリスト村計画地(江別)を見ながら旭川へ
 初めて乗った札幌の地下鉄は南北線で、銀座線のように第三軌条方式(パンタグラフがなく、横から電気をとる)で、駅の天井が低い。土曜の昼間だが、YOSAKOI祭りの観客でけっこう混んでいた。
 さっぽろ駅で降りて、ここからJR札幌駅に乗り換え。急いで切符を買って、特急ホワイトアロー号に乗車。13時に札幌駅を発車した。立ち席があるかと思いきや、少し空席がある程度であった。
 札幌の住宅街を過ぎると、江別にはいり、森林が目立つようになった。南側に目をやって江別キリスト村建設跡地一帯を見た。
※「愛の鬼才(西村久蔵が歩んだ道)」によるとキリスト村は、太平洋戦争後、札幌北一条教会の西村久蔵氏が掲げたもので、キリスト教精神による文化農村3000haの開拓を目指し、泥炭地という過酷な土地条件の中、入植許可をめざして、江別太にはいった。しかし、北海道からなかなか許可が下りず、そのうち西村氏が死去する事態となった。その後許可が下りたものの、ドッジラインによる財政緊縮による予算かが阻まれてしまい、キリスト村の建設は幻となった。
 家や酪農学園大学のある、大麻や江別を過ぎ、豊幌にさしかかると、南に牧場らしき光景が広がっていた。かつて西村氏が雪降る夜に、江別から原野に建てた自宅まで数キロの道のりを歩いて入植者の家を訪ねたり、自宅に帰ったことを思うと、今の光景からは想像がつかなかった。50年あまり経って、牧草と森林が広がる酪農地帯にになって、西村氏はどう思っているだろう。
 江別を過ぎると、広々とした水田や畑の光景になった。水田は田植えを終えたばかりの稲が、畑には草丈が伸び盛りの小麦の緑と、これから芽が出てくるだろうと思う畝の茶色が切り絵のように織りなしていた。本州の5月はじめの光景みたいだった。
 電車は岩見沢、美唄、砂川、滝川、深川の順に停車し、神居古潭(かむいこたん)の流れを見て、トンネルをくぐったら、旭川の町と遠くに残雪が輝く大雪連峰が視界に飛び込んだ。そして14時20分に旭川に到着した。
6 北海道音楽大行進
 旭川駅で北海道音楽大行進を行っている場所を聞いて、急いでその会場へ向かった。歩いて2,3分にあるゴールの広場には既に演奏が終わったチームが集まっていた。
 旭川の知人から、事前に13時からと聞いていたので、間に合わないと思ったが、残り30分は見られそうだった。大行進のコースとなっている通りは観客が2,3層になっていて、前に陣取るのは大変だった。
 その通りをめいっぱい使って、高校生のチームが演奏しながら行進をしていた。チームによって色とりどりのTシャツとジーパンだったり、手作りの服装とラフな格好、楽器や頭には花やマスコットを飾って、お祭りの雰囲気とチームの一致団結が感じられた。
 目を引いたのは、旭川凌雲高のソーラン節で、前のグループはソーラン節を踊り、後ろのグループが吹奏楽でソーラン節を演奏するもので、札幌でYOSAKOIソーラン祭りを見たばかりだったこともあり、ユニークな演出に引かれた。その後の旭川商業高(だったかな)は、前のグループがサンバの服装で音色に合わせて、踊っていた。高校の後は一般で、企業や市民グループ(ピンクレディーのメドレーを演奏していた)、最後は重厚な曲を演奏した自衛隊の合同チームで、15時過ぎに音楽大行進は終了した。
 終了後に近くの店で大行進のチラシをもらったら、旭川を中心に富良野や留萌など近隣の地域を含めて、小中高と一般で85チーム約3,500人が参加していた。「積木の箱」では、北海道護国神社の慰霊音楽行進として、北海道護国神社から緑橋を経由して行進し、100チーム約8,000人が行進したという記述がある。しかし、これは1960年代半ば頃のことで、今は純粋な音楽大行進として、お祭りの雰囲気はそのままで、位置づけが変わったように感じた。
 この後は、一部の中学校・高校が会場を移して3カ所でミニコンサートを行うというので、西武デパート前の会場へ移動したら、通りを埋め尽くすくらいに観客が集まり、背伸びをしても見ることができなかった。最初は市内の永山南中、その次がソーラン節を演技+演奏した旭川凌雲高だった。旭川凌雲高は服装はそのままで、演奏会の配置になり、若い顧問の指揮で、3曲演奏した。、最後の曲が「鉄腕アトムで」、オリジナルと違って、優しく丸みの帯びた演奏であった。吹奏楽演奏を聴くのが好きな身としては、美味しいミニ演奏会であった。

7 いよいよ美瑛へ
 16時半の列車で、今日の宿泊地美瑛町美馬牛に向かった。白地に紫色のラインの富良野線の列車は、ラベンダーを連想させるものであった。初めての北海道はこの富良野線を使っているので、約1?年ぶりの乗車であった。すぐに田んぼと小高い山々を見ながら、右へ左へカーブしながら美瑛に入った。美瑛からは、一気に上り坂にさしかかり、新緑が目立つ森林の中を走っていった。
 坂を上りきると美馬牛で、反対のホームにはノロッコ号というカラフルな塗装をした気動車が待機していた。先頭はどっしりした機関車が煙を吐いていて、どちらも珍しい特別列車に、急いでカメラで撮った。

8 美馬牛のユースホステルでトラブルが
 美馬牛を降りて、歩いて1分のところにある美馬牛ユースホステルが今日の宿泊地であった。受付を済ませて、夕食まで時間があるので、ベッドで横になったら旅の疲れが一気に出たのか、1時間くらい眠ってしまった。これで、ジョギングをする予定は流れてしまった。
 夕食前に外を出たら、日中とはうって変わって肌寒かった。寒さを我慢して十勝岳を見た。ここからは20キロくらい離れているので、小さく見える。「泥流地帯」、「続泥流地帯」では、隣の上富良野町の山側が十勝岳噴火で一瞬にして泥流に飲み込まれた場面があり、十勝岳を見て、遠くても泥流がここまで一気に飲み込まれたこと思うと、自然災害の恐ろしさを感じた。そして、噴火にも負けず、根を下ろして生活する人々の力強さも。
 夕食は食べきれないほどの量で、同席だった女性3人も同じことを口にした。1人は旭川から、2人は東京からやってきて、そのうちの1人は長期滞在で北海道を旅行していると言うことであった。夕食、入浴を挟んで、ユースホステルの主人が中心となって、ミーティングが行われ、美瑛の観光案内や明日の美瑛マラソンのことが話題に上がった。コーヒーやケーキをいただきながら、一緒に泊まった人と鉄道の話等で、飽きなかった。
 その後、談話室で手紙を書いて、ベッドに入って寝ようと思ったら、下の人がかくいびきがものすごく大きく、寝ようにも眠れなかった。1時間くらい奮闘したがそれでも眠れず、いびき対策をしてくれよなと思いつつ、1時過ぎに談話室へ降りた。談話室にいた人たちは、以前から彼のことを知っていて、自分がここで寝ることを承知した。
 寝具を持ち込み横になったら、郵便局の貯金巡りの話をしていて、うとうとしながら話題に加わった。鉄道会社に勤めている人は全国の4分の1にあたる郵便局をまわっていて、リストまで作っている強者であった。一緒にいた女性もけっこう貯金巡りをしているようだし、JR北海道の車掌という青年はこの人たちと美瑛マラソンで知り合った仲だという。いびきでとんだ思いをしたが、談話室でいい話が聞けたので五分五分かもしれない。そして2時半に消灯。窓を開けたら、冬かと思うくらいの冷たい夜風が入ってきた。


6月8日(日)
 美瑛ヘルシーマラソンに参加、北海道の走友との出会い
1 会場に向かうまで
 寝不足の状態で、6時半頃に起床。それでなくても、4時頃には空が明るくなって、うとうとしながら眠っていた。目覚め代わりに、近くの畑に行って、昨日見た十勝連峰の絵を描いた。
 7時過ぎに朝食をとり、急いで荷物整理をして、8時にユースホステルを出発。ユースホステルのペアレントさんの車に同乗して美瑛ヘルシーマラソン会場に向かった。
 会場までの道は裏道を使っていった。カーブや坂が続き、道沿いにの畑は穂をつける前の小麦畑と、植え付け前の畑の2種類があった。ここには何を植えるのかとペアレントさんに聞いたら、春小麦だそうで、今育っている冬小麦は7月頃に収穫するとのこと。北海道の厳しい気候が伺える栽培のサイクルだと思った。
 途中、家をほとんど見ることがなかった。美瑛川を渡ると、市街地に入り、高い塔が目印の役場を左手に見ながら右折をして、北へ進んだら、美瑛ヘルシーマラソン大会場の円山運動公園に到着。

2 レース前
 会場について真っ先にしたことは、受付でゼッケンカードを再発行してもらったことだった。ゼッケンカードは自宅に置き忘れてしまったのだった。簡単な手続きで再発行をしてもらい、参加賞を受け取った。やたらに大きい黄緑の袋は何に使うのかわからなかった。
 競技場に入り、遠くにFRUNののぼりを見つけて、まっすぐに向かった。NAOJIさんと昨年のつくばマラソン以来の再会となった。しかし、周りを見ると知らない人ばかり。後で聞いたらNAOJIさんが作っているホームページの掲示板に書き込みをしている人たちだとのこと。そうするうちにこうめさんやたかさんがやってきて、地元美瑛のOgaman(おがまん)さんがベンチに戻って、いざスタート地点である白金温泉へ出発。
※今回のゲストは、増田明美さんと安部友恵さん、そして直前に明らかになったが、清水圭さんも参加するとのこと。遠くで見た安部さんは高校生か中学生に見間違うほど小柄であった。市民レースで見るのは初めてかも。
 ハーフのスタート地点である白金温泉は会場から20キロくらい離れているため、バスで移動になる。先ほどの黄緑の袋は荷物を入れる袋だったことがたかさんの話から判明。どおりで、大きいわけだ。バスではたかさんの隣りになり、美瑛マラソンに5回以上連続出場している理由を聞き、景色の良さや雰囲気がいいから、毎年参加をしているとのことで、お気に入りのレースに毎年参加している姿勢に感心した。自分にとっては、美瑛はお気に入りのレースになるだろうか。
 平坦な畑作地帯から山側に近づくにつれて、大雪連峰がどんどん大きくなった。約30分で、国立大雪青年の家に着いた。1?年前に初めて行った北海道で、スキー合宿の時に泊まった思い出の地にこうして再び行けたことに感謝。市街地と違って森に囲まれていて、高原の涼しい空気が心地よかった。ここでは、京都のシューさんと再会。数年ぶりに、しかも北海道で再会できるとは予期せぬことだった。元気そうな姿に会えて、どうしていたんだろうという不安は消えた。
 準備運動をして、今日も半分受けねらいで手製のカエル帽子をかぶって、ファンラン(楽しみランニング)をすることにした。

3 レース前半(0〜10キロ)
 美瑛ヘルシーマラソンハーフの部は、国立大雪青年の家前を10時半にスタート。ガス(噴煙でない)が吹き出している十勝岳を背にしながら、まずは白金温泉街を下っていった。左の沢には割石で化粧している砂防堰堤があって、かつて平成の十勝岳噴火の後で、砂防工事をしたのかと思った。大正末期の十勝岳噴火と違って、噴火対策は工事やセンサーによる24時間監視体制の観測で事前に防げるようになって、「泥流地帯」「続泥流地帯」で描かれている当時の人たちにもそのような環境が整っていれば、被害を食い止められたのではと思った。
 ホテル等の従業員の応援を受けながら、温泉街を過ぎると、広葉樹の森が道沿いにずっと続いた。葉の色がまだ黄緑色で、春が来て間もないことを感じた。そして、ひぐらし(だと思う)の鳴き声が森から聞こえてきて、耳に心地よい響きが伝わった。もう、春を通り越して、一気に夏がやってきた感じがした。
 噂ではスタート後は急な下りと聞いていたけど、実際はそれほどでもなく、少し下っているなあという感じだった。昨年参加した千歳日航マラソンの故障をふまえ、下りではブレーキをかけて走った。
「ひぐらしで 残雪さえ 忘れそう」
 
 6キロ付近の給水所を過ぎると、それまでの森林から畑に変わった。気温がぐっと上がり日射しが肌に焼き付きそうだった。コースの道はまっすぐで、こたえるかなと思ったがが、見慣れない光景がかえって新鮮で、横に目をやりながら、気分転換をしていた。途中で乳母車を押して走っていた海外選手はずっと前にいた(乳母車には赤ちゃんがいる)。乳母車で走る人は珍しいし、中にいる赤ちゃんはびっくりしないかな。
 畑には穂をつける前の小麦をはじめ、植え付け間もない作物、また土だけのところなど、区画によってまちまちだった。天気がいいので、スプリンクラーで散水している畑もあった(もちろん雪解け水)。家はまばらで、時々手作りソーセージ・ハムの店やペンションがあるくらいだった。
 8キロ過ぎで左−右の順でクランク。そのときに左に見えた十勝連峰の残雪は見事で、春と夏の2つの季節を味わっているようだった。再び直線道に入って、ずっと先に見える道を見て、今度も先を見るのはやめようと思った。気が付くと中間点を約45分で通過。
「青空に 残雪十勝 くっきり映る」


4 レース後半
 直線の道と暑さと戦いながら、左右に見える山や畑を見ては、美瑛の景色にあらためて感心していた。右には遠く大雪連峰が見えるコースを走っていた。
 距離を踏むにつれて、看板の美沢○線の数字が減っていった。一つの地区で基線数がたくさんあって、その長さもただものではない。
 14キロ付近で左−右へクランクし、いよいよ上りにさしかかった。大したことはないだろうと思ったのが大間違いで、ヒーヒー言いながらやっとの思いで坂を上っていった。その代わり、上りきったとき、目の前に緑や茶色のパッチワークのような畑が広がり、疲れが吹っ飛びそうだった。斜面の畑は小麦畑や植え付け間もないもしくは直前だった。斜面全体がはたけになっていたので、農地の大きさにもびっくり。これで、走りながらパッチワークの丘を観光したことになるか。
 残りは小さな谷間を右に左に走りながらのコースで、こちらの方が変化があって走りやすかった。道脇にはレンゲツツジ・ルピナス・マーガレットなど、高原地帯で咲くような花が咲いていて、ここは高原地帯かと思うほどだった。
 どうやってゴールにたどり着くのかと思ったら、20キロ過ぎに橋を渡って、すぐに会場の公園に入り、約500mくらい走ってゴール。1時間32分台で、長旅の移動や前日の寝不足を考えれば、これでいいかなと思った。
「はっとして 畑が織りなす パッチワーク」
「あと6キロ 悪魔が潜む 上り坂」

5 レース後
 コースを1キロ強逆走して、応援がてら十勝岳やコースの写真を撮った。カメラを携帯しながら走ったけど、レース中は写真撮影どころではなかった。足がパンパンに張っていて、体が走りたがらないようなので、無理をしないで後半は歩いて競技場に向った。公園の入り口には馬の像が建っていて、美瑛の開拓に馬が貢献していたことを物語っている。「泥流地帯」「続泥流地帯」でも、開拓や噴火後の農地再生において、馬は欠かせないパートナーだったということを思い出すと、馬抜きでは今の美瑛や富良野方面の広大な農地はなかったのだと思う。
 ベンチに戻って、木陰に涼みながら、兵庫のモックン1,2号さんが持ってきたお菓子を食べて、栄養補給。それ以外にも売店でつまみを買って、Ogamanさんからビールをいただいて、水分補給。ここでは初めてザンギ(鳥の唐揚げみたいなもので)を食べた。ベンチはFRUN以外のメンバーが多かったこともあって、いつもと違う雰囲気に戸惑いがちだった(そういいつつも集合写真はきちんと撮影)。安部友恵さんや清水圭さんのサインをもらうことはすっかり忘れていた。本当は欲しかったのに。

6 打ち上げ会(オフ会)
 そんな状況も、レース後のオフ会で解消。オフ会の前に、宿にキャスターを置き忘れてしまい、Ogamanさんの奥さんにお願いして、ユースホステルまで行ってキャスターと取りに行き(ありがとうございます)、再び戻って会場に近い、「木のいい仲間たち」というレストランでオフ会に合流。NAOJIさんの掲示板に書き込むメンバーが集まっていた。初対面だったけど、気がつくと自然と話の輪に加わっていた。隣は帯広近郊在住のndaicha(んだいちゃ)さんで、何がなんだかわからないけど色々と話をしていた。また、0gamanさんの長男もいて、陸上に関心があるようだった。自分は、周囲の人たちの実体験を元に、中高生で燃え尽きないで、楽しみながらでもいいから気長に続けてほしいと言った。
 店の中は2階からかけてある大きなパッチワークやたくさんのドライフラワー、手の凝った木工クラフトなどがあって、落ち着いた雰囲気で、みんな食事(自分はパフェ)をとっていた。外は田んぼが広がり(美瑛で初めて見た田んぼだったりして)、心地よい風が窓から入ってきて気持ちいい。
 食事後は、玄関前で集合写真を撮り、16時頃に解散となった。んだいちゃさんに美瑛駅まで送っていただき、ここで美瑛ヘルシーマラソンはおしまい。
(後になって)
 終わった後は、コースのハードさにこたえて、もう出るもんかと思ったが、壮大な自然の中で走るレースは内地と違って、のびのびとしているし、北海道のパソコン通信によるランニング仲間と会うことができたので、機会があればまた参加してみたい。

7 旭川で飲んだくれ?
 16時半頃の列車に駆け込み乗車をして、旭川に向かった。大会帰りの人はほとんどいなくて、車内は思ったよりもすいていた。途中で熟睡をしてしまい、気がつくと旭川に到着。
 旭川のソンスさん(ソンス:韓国語で選手という意味)は仕事のため、6時に駅で待ち合わせることになっていた。それまでは近くの西武デパートに行き、ロフトやペットショップでセキセイインコを見て、いつもの寄り道気分で時間をつぶしていた。
 再び旭川駅に戻ると、レースで一緒だったたかさんと合流。実は大会会場で旭川に泊まると聞き、もし良ければ一緒に飲みませんかと誘っていたのだった。だめかもしれないと言っていたが、こうして来たので、ソンスさんは驚くだろうともくろんだ。
 18時前に連絡を入れたが、仕事が終わらないようで、30分ほど待つことに。待合室に移動して新聞を読んだり、大河ドラマ「武蔵」を見ながら、ソンスさんが来るのを待った。夕方なのに、駅を利用する人が少なく昼と同じく閑散としているところが、地元の駅と対照的だった。人口が多いのに、意外な光景に感じた。
  18時半に真っ青なワイシャツ姿でソンスさんがやってきた。たかさんを見て、やはり驚いた様子で、昨年の北海道マラソン以来の再会で互いに喜んでいるようだった。早速、さんろく街(3条6丁目通りにある飲食店街で、札幌でいうすすきのみたいなところ)の近くの居酒屋に入った。
 この居酒屋では飲み放題のコースを選び、食べ物は出来高払いを選んだ。やはり食べ物は北海道でしか味わえないものを選んだ。普段会えない人と会ったのだから、あれもこれも話したいのが本心で、走る話を中心に、走友のことや旭川ラーメンの話し等々、尽きることがなかった。ソンスさんとの話は、たかさんが引っ張っていたので、自分はどちらかというと、聞き役にまわっている感じであった。テンポが速くなるとついていけなくなる状況になると、こうなってしまうので、焦らないようにした。
 2時間の飲み放題でも、話が盛り上がっていて、引き続き飲み続けることに。走り終わった後で、気分も開放的になっているので、どんどん飲んでいった。ジョッキで5杯くらいいっているかも。結局は4時間くらい飲み食いしていた。脱帽。。。お財布の方は大丈夫だった。

 たかさんとはここで別れて、今度はソンスさんとラーメン屋へ行くことにした。しかし、お薦めの店が休業日だったらしく、少し歩き回って旭川ラーメンの店へ。やはり酔いさましには、ラーメンでしょう。ここでは、明日の塩狩峠LSD(三浦綾子作品を巡りながらのランニング)の打ち合わせをしたと思う。
 さんろく街は、飲食店をはじめとするビルが建ち並ぶ大きな繁華街であるが、日曜の夜のせいか、人通りが少ない。近くの店はほとんどがシャッターが閉まっていて、地方都市の悲しいところか。「積木の箱」では、主人公杉浦がさんろく街のアパートに住む下りがある。実際に歩いたところでは、アパートは見あたらず、これも時代の流れで飲食店オンリーになったのかと思う。
 今晩はソンスさんの厚意により、自宅に泊めてもらうこととなった。タクシーで移動し、川沿いのアパートが自宅。カルチャーショックを受けたのは、玄関が外から見えないように覆われていることと、部屋の窓が二重窓とベランダがないことだった。どれも冬の寒さ対策を考えてのことであろう。雪国だと、家の玄関におおいをしているが、アパートも似たような作りをしている。外干しはもちろんできない(これは余談)。
 さぞかし住みにくいと思いきや、これでも住み慣れているから大丈夫だとこと。ここではシャワーを借りて、12時過ぎには床に入った。明日になれば、足の疲れはとれるかなあ。


6月9日(月)
 旭川〜塩狩峠LSDで三浦作品めぐりランニング
 三浦綾子作品めぐりLSDをソンスさんと挑戦した。
 7時過ぎに荷物をいったん旭川駅のコインロッカーに預けて、アパートに戻って朝食、身支度をして9時過ぎに出発。昨日の美瑛ヘルシーマラソンで太ももの筋肉痛が、しっかり残っていて、走りに影響しなければよいが。

1 市街地(0〜10km)
 走り出してすぐに、石狩川の堤防上を通った。緑が豊かで川の流れは穏やかであった。下を見ると緊急車両が通れるくらいの道路があって、この道がどこまでも続いているとのこと。旭川マラソンのコースにもなっているそうだ。
 新橋を渡るときに、リベライン旭川パークを下に見たが、ここにあったスケート場は既になくなったとらしい(「積木の箱」に川端町のスケート場の記述あり)。新橋を渡って左折して、右に常磐公園が見えたので、堤防から下りていく。 常磐公園では公園散策と準備運動をした。広場に沿って遊歩道があり、そこには若葉をつけたポプラ並木が続いていた。綿毛がふわふわ舞っていて、何の綿毛かなあと思った。公園の中央にある千鳥ヶ池には小さな東屋があったり、向こう岸にはプラネタリウムがあった。5月には桜が咲いていたとは思えなくらい、短い期間で季節の変化が進んでいるように感じた。「続泥流地帯」、「積木の箱」のどちらも常磐公園の場面があり、旭川を代表する名所なのだと、作品を思い出しながら感じた。
 常磐公園を出ると、旭橋が見えた。深緑色のどっしりとしたアーチを描いている橋で、ここも旭川を代表する名所である。走っているところは冬になると除雪の雪を集積するところで、4月頃までは雪が残っていたらしい。再びリベラインパークに入り、土手下から大きな病院がいくつかみえた。ソンスさんいわく、旭川は病院が多いので、老後を暮らすにはいいところだという。冬の寒さを考えると、寒さに弱い自分には耐えられるかどうか疑問が残るところであった。
 次の橋で北側に進み、旭川の市街地を走っていった。北海道護国神社(護国神社際の慰霊音楽大行進のかつてのスタート地点)を通って、春光台の近くまで進んだ。ここで、FRUNメンバーのひろぴょんさんが経営している歯科医院があるので、寄り道をした。声をかけようとしたけど、2階の窓越しから、治療をしている真剣な姿のひろぴょんさんが見えたので、姿だけ見て下りていった。ホームページで見ているナナカマドのマークは確認できたので、いちおう見ることはできた。
 
2 旭川郊外(10〜20km)
 コースはかつて陸軍の演習場であった春光台に入った。「積木の箱」の舞台は、ここ春光台である。北海道教育大付属中学校を過ぎて、井上靖の小径があったので、そこに立ち寄った。井上靖というと静岡・沼津を連想するが、生まれたところが春光台だったということで、縁のあるところなのだった。これは意外な発見。ここでふと、沼津の走友りかちゃんを思い出した。
 再び、三浦綾子作品めぐりに戻ろう。鷹栖町方面へ抜ける坂を上ると、目の前に濃緑の森林が広がった。上りきる手前で右折して、住宅街に入った。1軒あたりの敷地が広いせいか、密集した感じがしなくて、北海道らしい光景だとと思った。春光台郵便局で100円貯金をして(これはLSDの裏企画だった)、アップダウンの続く住宅街を北上した。「積木の箱」では何もないところに学校がぽつんと建っていたり、鷹栖の田園風景が見えたという記述があるが、コースを通った限りはそのイメージとは異なり、ニュータウンの色が強いように感じられた。もう少し標高を上れば、鷹栖の田園風景が見られたかもしれない。
 春光台の地区を出ると、旭川新道を経由して、比布方面に進路を変えた。国道40号は交通量が多いので、ソンスさんの配慮で2,3本西よりの基幹道を北上した。郊外になると、家はないに等しく、周りは田植えを終えて間もない田んぼだけで、遮るものがなかった。天気がいいので、日射しが体にこたええてきた。
 右の彼方に男山自然公園を見ながら、どこか休むところはないかと探していたら、小学校があったので、寄り道をして、水分と塩分補給を行った。この小学校、プールがビニールハウスのみたいになっていて、夏も寒いのだろうかと思った。この時点で1時間半以上走っている。
 気持ち生き返って、再び走り出してまもなく、右折をして国道40号に向かった。道端には、芝桜、マーガレット、ルピナス、芍薬など、本州で4,5月に咲く花が咲いていて、春の花がまとまって咲いていた。かと思うと菖蒲やアヤメも咲いていて、旬の花も咲いていることもわかり、春〜初夏の花が一気に咲くのだと気がつく。
 左折して国道40号に入ると、交通量の多さよりも、ダンプやバスなどの大型車が多いのに驚いた。排ガスが気になってしまう。男山自然公園の入り口が見えて、ソンスさんから行くかどうか勧められたが、今の調子だと塩狩を出るの列車に間に合わないと判断し、行くのを断念した。この時点で11時半をまわっていた。
 
3 比布〜蘭留(らんる)(20〜35km) 
 比布トンネルをぬけると、比布町に入った。比布町というと、かの有名なピップエレキバンのCMを思い出すが、町の案内板はスキーと苺だった。苺の看板はこの後、数カ所で見ることになる。山に囲まれ、田んぼが広がる盆地の町であった。
 トンネルを抜けてまもなくひろみさん(ソンスさんの奥さん)の実家をソンスさんから教わった。水田の中にぽつんと建っている屋敷林に囲まれ一軒家で、高校や大学はどうやって通っていたのか気になった。ちなみにひろみさんは地元北海道のホク○○の実業団選手である。 
 2,3キロ走って比布の市街地に入った。市街地といっても、住宅街で人通りや車の往来はゼロに等しい。野球場でトイレ休憩をして、比布駅に到着。筋肉痛がある中で、ここまで走り抜くことができた。といっても折り返し地点を過ぎたばかり。これからが勝負所である。比布駅ではホームに入り、写真を撮ったり、ミニ散策をした。ピンク色に塗られたパステルの駅舎にはピップエレキバンの貼り紙があり、かつて流れたCMの跡を残している。列車のが来る時間帯ではなかったので、駅は誰もいなくてひっそりとしていた。
 比布駅を出て、ひっそりとした商店街を抜け、比布郵便局で貯金をして、国道沿いのセブンイレブンで休憩をした。ここから塩狩までの15キロはコンビニがないので、飲み物や食べ物を買っておいた。自分はかなり体にこたえているが、ソンスさんはどちらかというと余裕があるように感じた。さすがだなあ。
 セブンイレブンを出ると、右手に残雪の大雪連峰が見え、思わずカメラを取り出した。しかし、そんな楽しみはすぐに消え、どこまでも続く直線道と強い日射しに悩まされた。2,3キロ先まで見える道は走り慣れていないからだったと思う。後半はほとんど話をしないで、黙々と走っていく格好となった。たかが15キロ、されど15キロであった。
 大きく左に方向が変わっても、直線道は変わりなく、さらに緩い上り勾配が加わった。下り線にある距離表示は確実に進んでいるのだが、暑さも加わって気持ちが前に進まなかった。そのため、蘭留の手前で1回休憩を取ることにした。このときはここでやめてしまおうかと思った。でも、ここでやめたら憧れの塩狩峠へ行こうとした意味もないし、楽しめなくなるのではと思い、勇気を出して走りはじめた。
 約1時間近くかけて蘭留に到着。ちょうど旭川行きの快速列車が通過したところであった。蘭留は塩狩峠にさしかかるところ位置していて、今までの田園風景から一変して、山が急に迫ってきた。周りは家が数軒あるだけのひっそりとしたところだった。蘭留郵便局で貯金、自販機のジュースで給水をして、あと5キロあまりの道のりを走り抜きたいと思った。この時点で14時近かった。

4 念願の塩狩峠へ(35〜40km)
 蘭留を出発すると緩やかな上り坂にさしかかった。峠だからもっと急なところかと思ったが、それほどでもなかった。右手には緩やかに上っていくJR宗谷本線が見えた。道沿いの森や山々が我々を静かに応援しているようで、幻想的な感じだった。森や山々の木々も黄緑色で、春まだ間もないのだと思った。ここも冬になると、豪雪に覆われて厳しい寒さに見舞われるのだと思うと、今日のピーカン陽気の天候からは想像がつかなかった。
 大きなアップダウンの道が2キロくらい続き、急だろうなと思ったが、実際はそれほどではなかった。昨日の美瑛ヘルシーマラソンをこなしながらここまで走れている自分に、我ながら感心をしていた。国道の温度表示を見たら25度で、路面は32度と表示されていた。どおりで暑いわけだ。半分意識朦朧とした状態で、とにかく塩狩峠を目指すことだけ考えていた。
 ソンスさんが走っているころをデジタルカメラに撮りながら、応援をしてくれた。こちらは笑顔でこたえた。ありがとう。坂を上りきると塩狩峠の石碑が建っていた。ついに石狩と天塩の境にきたんだという喜びもつかの間で、急に気分が悪くなって、トイレで吐き気を催した。蘭留で飲んだジュースが原因で、水分を余計に取りすぎたみたいだった。
 塩狩峠でやったあという気分はおいて、メインは「塩狩峠」の舞台になったところなので、あと1キロ近く走った。比布町から和寒町に入って、一気に下っていくと右に塩狩駅の看板が見えたので、右折をして、14時半過ぎに念願の「塩狩峠」舞台の地にたどり着いた。長くてしんどかったけど、約5時間かけて40キロくらいの道を走り抜いくことができたので感無量だった。
 小高い丘の上に三浦綾子氏の生家を移築したは塩狩記念館があった。しかし今日は休館日ということで、これは次回以降に持ち越しとなった。入り口の横に夫の光世氏直筆の聖書の御言葉が書かれてあったので、スケッチブックにしたためた。丘を下ると、塩狩峠の標柱と、「塩狩峠」のモデルとなった長野政雄殉職の地という記念碑が建っていた。そこでしばらく「塩狩峠」のことを思い出し、鉄道事故があったときのことを想像していた。観光客は誰もおらず、森の静けさとヒグラシの鳴き声が、集中できた。それから、記念碑に向かって旭川から塩狩峠までの40キロあまりの道のりを走り抜いたこと、細かいリクエストに快くこたえてもらい、一緒に走ってもらったソンスさんに感謝をした(あと1つは内緒)。
 塩狩駅はすぐそばにあり、名寄方面を見ると緩やかな下り勾配になっていた。緩勾配とはいえ、事故が起きたときはブレーキが利かない状況だったのだと思った。 
5 走り終えたら温泉、そして旭川へ
「塩狩峠」の世界を味わった後は、すぐそばの塩狩ユースホステルに行き、日帰り入浴で、ランニングの汗を流した。これだけ長く走ったので、お風呂に入ったときの喜びは大きかった。浴場は年輩の人が2,3人だけで、ほぼ貸し切り状態だった。程良い湯加減で、体全体を湯船に浸かって、極楽気分だった。浴室は年期が入っていて、それがかえっていい味を出しているように感じた。
 ソンスさんよりも早くお風呂から出て、フロントにつながる廊下の壁に、2月28日に行われる長野政雄氏を追悼するアイスキャンドルの集いのポスターが10年分ぐらい掲示してあった。長野氏が殉職した日が2月28日なので、それに合わせて行っている催し物だった。真冬の凍てつくような寒さの中で行われるけど、それは幻想的なものなのだろう。機会があったらいってみたいなと思った。
 バスが来るまで(列車は見送った)、アイスを食べたり、走友に旅先の便りをソンスさんと連名で書いたりした。身も心もすっきりした状態で、ユースホステルを後にした。このユースホステルは16泊で1泊無料になる企画をやっていて、それを達成した人たちのコメントが食堂の壁に貼られていた。
 バスはすぐにきて、旭川駅に向かって南下した。暑い中時間をかけて走った道も、バスはあっという間に走っていくので、自分の足で道をたどっていったことは、それだけ印象に残るものではと思った。車内は高校生がほとんどで、しかも士別や名寄方面から乗っているので、ずいぶん遠距離の通学をしているなと思った。また、ICカード対応のバスで、定期もセンサーにふれるだけの進んだシステムが入っていた。
 途中でうとうとしていたら、旭川の市街地を走っていて、この辺から走ったんだなあと振り返った。4時半過ぎにバスは旭川駅に到着し、ここでソンスさんとはさようならとなった。今日は1日、同行してもらいありがとう。ゆっくりペースだったから、物足りなかったかもしれないけど、勘弁してね。

6 旭川から札幌へ
 旭川駅では列車の待ち時間を使って、お土産やパンを買ったりした。ワインを買ったときに包装で時間がかかり、17時12分発の特急オホーツクにぎりぎりで飛び乗った。
 オホーツクはディーゼル特急だが、電車特急のライラックと同じくらいのスピード乗り心地で、ずいぶん速い列車だと思った。近文、神居古潭を過ぎると、旭川とはおさらば。日中の暑さもだんだん和らいできて、雲の多い空に変わっていた。江別に入って、もう1回キリスト村建設計画跡地を遠くから見て、今度はぜひ行こうと心に決めた。
 江別から先は、夕方の帰宅時間と重なり、通過する駅では電車を待つ人たちたくさんホームに並んでいた。江別は札幌の近郊地帯でもあった。約1時間半で札幌駅に到着し、改札出口の広場でしばらく待っていた。

7 札幌の走友と再会
 札幌では、昨年の千歳日航マラソンで知り合った、市内在住のげんたくさんと会うことになっていて、駅で10分ほど待っていたら、会うことができた。早春を思わせる厚着の服装を見て、おとといに続き夜の冷え込みが強いことを実感。
駅の北口に出て、5分ほど歩いた居酒屋で乾杯!この居酒屋は「北海道walker」掲載された一押しの店であった。こぢんまりとしていて、どこか家庭的な感じがする。1対1で、ランニングの話を中心に、あれこれ話が弾んだ。お酒は、日中のランニングでは飲んでいなかった分、 取り返すつもりで飲んでいた。
 1時間半ほどしっかり飲んでから、コンビニで買い物をしてから、げんたくさんの厚意で、自宅に泊めてもらうことになった。札幌駅から近いマンションだが、こんな静かなところがなのだと、意外な事実に驚いた。札幌にいるように気分ではなかった。
 家では、もう1回飲み直しをして、さらにくつろいだ気分になった。 アルコール以外にも、北海道限定の乳酸菌飲料があって、飲んでみるとのどごしがよかった。これは病みつきになりそう。 ここでも、雑談をしながら、時計の針が0時をまわっていた。
 明日は早く起きたら、げんたくさんが所属するトライアスロン同好会の練習に行くので、よかったら一緒に走らないかと勧められた。北海道大学の構内を走るというので、2日連続でパンパンに張っている足を気にせずに、ぜったいに行こうと思った。涼しい夜風に吹かれながら、お休みなさい。


6月10日(火)
 初めての札幌市内観光
1 北海道大構内のランニング
 6時半頃に目が覚めたら、からっとした空気を深呼吸。埼玉とは違って湿気がないのがうらやましい。Tシャツ、ハーフパンツに着替えて、げんたくさんと早朝ランニングに出かけた。北海道大学までは走って5分もかからない距離である。
 トライアスロン同好会の学生と合流をして、簡単な打ち合わせをしたら、げんたくさんの案内で大学構内を走り回った。初めは南北のメインストリートを往復して、それから西脇の道を走っていった。片道で1キロ半くらいのきょりでありながら、すべての学部が集まっている。並木をはじめとする木々が多くて、勉強に運動に、大学生活を満喫できそうな環境であった。平坦なキャンパスは、自分が通った大学とは対照的だった。
 歴史のある校舎もあれば、最近建築された校舎もあって、新旧混合している感じだった。初めて走る北大を見なら、気分は北大生。ふるさと切手の題材になったポプラ並木は、農学部の圃場にあって、南から北に向かって見ると絵になる。北から見ると、ビルが背景になって絵にならないことが分かった。げんたくさんと話をしていて、高校の同級生が、自分が通っていた大学の学生寮にいた先輩だったことがわかり、世間は広いようで狭いことを感じた。それから、獣医学部は漫画「動物のお医者さん」のモデルになったところだという。漫画のおかげで女子学生が増えたとか。
 1時間ほど走ると、大学の周りの道は、通勤や通学する人が目立ってきた。そう、今日は平日だったのだ。

2 札幌市内観光(その1)
 げんたくさんは午前中用事があって観光案内はできないが、昼食は一緒にとってもいいということで、札幌駅でいったん別々になった。背広姿で用事先に向かうげんたくさんは、大学生ではなく社会人を感じさせるような風貌があった(昨年大会であったときと雰囲気が違った)。
 コインロッカーに荷物を預け、身軽になったところで、北海道庁と札幌北一条教会をまわった。旭川と札幌に行って、○条○丁目が目標物を探すのに大変わかりやすい表示あることに気がついた。札幌は創成川を基準にして西と東に丁目を振っているという。

(1)北海道庁
 実務部門は10階以上ある高層庁舎だが、目当ては観光客に開放されている旧庁舎。道庁の敷地に入ったとき、庭園から綿毛のようなものがふわふわ舞っていた。通りがかりの人が、これはライラックの綿毛だといったのを聞き、タンポポみたいな花だと思った。そのライラックは見頃を少し過ぎていて、薄紫色の花がしおれはじめていた。
 旧庁舎には入らずに、正面入り口付近に腰を据えて、絵を描いていた。旧庁舎前で写真を撮る観光客や近所の幼稚園児がいて、邪魔だなあと思いつつ、せっせとペンを走らせていた。絵が段々できてくると、通りがかりの人が見てきて、二言三言批評をしていく。自分としては大したことはないが、見る人にとっては、上手く描けているみたいだった(これって自画自賛?)。

(2)日本キリスト教会札幌北一条教会
 北海道庁から西へ10分ほど歩くと、札幌北一条教会があった。この教会は、三浦綾子氏が病床受洗した時の小野寺林蔵牧師がここの教会だったのと、ニシムラ洋菓子店創業者である西村久蔵氏が所属していた教会であった。「愛の鬼才〜西村久蔵の歩んだ道」、「道ありき」を読んで、札幌北一条教会のことを知り、札幌へ行ったときはぜひ行ってみようと思っていたところで、今回の旅の目的を果たすことができた。
 会堂は2階建ての鉄筋の作りで、西側から見ると2階に雪の結晶をかたどった窓があった。規模は大きい方で、公民館くらいの大きさだった。会堂の周りはエゾマツやナナカマドをはじめとする北海道産の樹木や草木が植えられていた。
 北海道文化放送(フジテレビ系)の入り口側から西側の会堂をスケッチにおさめた。旅の思い出と、三浦綾子作品めぐりの締めくくりとして。
 スケッチ後は会堂内に入ろうとしたが、この日は全国婦人連合修養会が行われていて、教会員が出入りしていたため、中に入れるような状況ではなかった。その代わりに、入り口においてあった、チラシや週報(日曜礼拝で配るしおり)を頂戴した。週報を見て、日曜礼拝に250人以上出席していることにびっくりした。そういえば、西村久蔵氏のお別れ会では定員400人の会堂がいっぱいになったそうで、西村氏が札幌地域の人々に与えた影響力が大きかったことと、札幌北一条教会の地域における役割が大きいことを感じた。
 スケッチを終わって、急いで地下鉄に乗って札幌駅に向かった。

3 ラーメンとお土産
 札幌駅でげんたくさんと再会し、北海道大学近くにあるラーメン店でラーメンを食べた。湯気の熱気で、暑さによる汗がさらに出てきた。出来立てのラーメンをふーふー言いながら、黙々とすすっていた。
 ラーメンを食べ終えて、最寄りの地下鉄の駅まで見送ってもらい、そこから真駒内駐屯地に近い澄川まで移動した。なぜ澄川まで行ったかというと、この駅のそばにある札幌フードセンター澄川店にニシムラ洋菓子店があるという情報を得たからであった。事前情報では今年になって自己破産したという噂で、噂がどうか嘘であってほしいと願いながら店内に入った。
 テナントを2,3周したがニシムラ洋菓子店は見あたらず、サービスカウンターに聞いたところ、倒産による店の撤退ということで、自己破産は本当だったことがわかった。創業者の西村久蔵氏にとっては、いたたまれない気持ちだっただろう。これで、ニシムラの洋菓子を買う夢は絶たれた。
 その代わりに、帯広の六花亭のお菓子と、昨日飲んだ北海道限定の乳酸菌飲料(カツゲン)を買った。お土産に飲料は変かもしれない。店内は昭和40年代後半のメロディーを思わせるような札幌フードセンターの歌が流れていて、懐かしさとタイムスリップしたような気分だった。

4 札幌市内観光(その2)
(1)時計台
 高層ビルに囲まれたところにあって、以外に目立たないと思った。撮影スポットは時計台正面玄関だけでなく、道を挟んだビルの2階踊り場にもあり、時計の文字盤をバックにしながら撮影できる。ここで撮影する人はけっこう多かった。自分もここで写真を撮った。
 時計台の中にはいると、資料館になっていて、時計台の歴史や時計が動く仕組み、時計台を題材にした歌謡曲紹介など、じっくり見れば時計台のことに詳しくなるような仕掛けになっていた。
 時計台は農学校の施設として建築され、その後市立図書館など色々な目的に利用されてから、今のように資料館みたいな形で公開されている。数年前に改修をしたばかりである。時計は自動ではなく、振り子で動く方式で、先代の地元時計店主人が2,3日おきに通い続け、正確な時刻を刻むように調整をしているそうで、新聞にも紹介された。いまは後継者が先代と同じく、正確なと期を刻む裏方として活躍をしている。
 資料をさっと見て、近くのビルで絵を描いている高齢者の絵画クラブに混じって、南側から時計台をスケッチした。

(2)大通公園
 3日前のYOSAKOIソーラン祭りの時は、踊り子で賑わっていたが、今日はいつもの光景に戻って、老若男女問わずに公園でくつろいでいた。アイスやトウモロコシを売っている屋台もたくさん出ていた。晴天にしてはからりとしていて、過ごしやすい。ここでは、テレビ塔をスケッチした。頭を上げないと上が見えないくらい、テレビ塔は大きい。
 近くの郵便局で貯金と切手購入がてらテレビを見ていたら、NHKテレビの地元番組で、16時過ぎから大通公園で中継を行うと放送して、急いでテレビ塔へ行った。NHKのマスコットドーモ君がいて、若い女性や修学旅行生と一緒に写真を撮っていた。自分はスタッフにとってもらい、修学旅行で札幌にきていた中学生を撮影した。5個の簡易カメラを預かり、角度を変えて撮ってみた。いい思い出になったかな。

5 駆け込みセーフで飛行機に
 札幌駅前では、地元のテレビ局の中継準備をしていて、少し立ち寄った。ここまではよかったが、その後コインロッカーの鍵が見あたらず、列車を1本遅らせてしまった。幸いにも鍵は見つかり、搭乗ぎりぎりの快速列車に乗った。
焦らずに、飛行機に乗れることを願うのみ。
 17時30分に新千歳空港に着き、急いで荷物を預けようとしたら、受付は終了し、機内に直接持ち込むことになった。荷物検査場では、カッターが金属探知器に引っかかり、封筒に入れる羽目に。さらに搭乗口に着く前に名前を呼ばれて、早く搭乗口に来てくださいとの放送があり、早く機内に乗り込んだ人には申し訳ない思いでいっぱいだった。空港の放送で呼ばれたのは初めての経験だった。
 2階席に上がり、荷物を脇や椅子の下に置いたところで、17時50分ちょうどに飛行機が搭乗口から離れていった。乗り遅れずにすんでよかった。

6 そして帰宅の途へ
 10分後に新千歳空港を離陸し、あっという間に北海道から太平洋に入り、雲で下界が見えなくなった。飛行機に乗ると、北海道旅行のことを忘れてしまいそうだった。
 食事をとったり、手紙を書いたりして、ひとときの飛行時間を楽しみ、19時頃には眼下に霞ヶ浦が見え、いよいよ東京が近くなってきた。景色を見ながらどこを飛んでいるのか想像しながら、千葉市の中心を通ると思ったら市街地の灯りを見ることなく、畑や田んぼ、点々とした灯りを見る程度で、多分柏ー八千代−佐倉−千葉市郊外の上空を通って、市原に入ったようだった。東京湾を通過するころには、日がすっかり暮れて真っ暗になった。右に左に旋回しながら、最後は北から羽田空港に進入・着陸した。そして、19時20分過ぎに搭乗口に到着。
 機内を出るのは最後になったが、荷物待ちをすることなく、そのまま駅に向かうことができた。帰りは行きと同じルートをたどり、11時近くに自宅に着いた。何はともあれ、事故なく旅行ができたので、万歳!落ち着いたら、旅行記を早く書こう(といいつつ今になってしまった)。