ある論理学のパラドクス
A Logical Paradox
ルイス・キャロル Lewis Carroll
石波杏訳
「何です? することがない?」ジムおじさんが言った。「それなら、一緒にアレンのところに行きましょう。私がヒゲを剃ってもらう間、そのへんを散歩していればいいですよ。」
「そうしよう」ジョーおじさんが言った。「小僧も連れて行ったほうがいいだろうな?」
この「小僧」というのは、たぶん読者にも分かるだろうけど、ぼくのことだった。もう三ヶ月以上も前に、十五歳になったのに。でもそんなことをジョーおじさんに言ってもどうにもならない。「おい小僧、ひざ小僧みたいな顔してるな!」とか「小僧は子象の構造に詳しいのか?」とか、そんなひどいシャレを言われるだけだろう。昨日おじさんが、Aの命題(=全てのSはPである)の実例を挙げてみろと言うので、「全てのおじさんはひどいシャレを言う」と言ってやった。その答えをおじさんは気に入らなかったようだ。でもそれとこれとは話が別。ぼくは一緒に行けるのがとても嬉しかった。おじさんたちの言う「理屈をこねる」ってやつを、聞いているのが大好きなのだ。それにつけては必死になる人たちなんだから!
「それは私の意見からの論理的帰結ではありませんね」ジムおじさんが言った。
「そんなことは言っとらん」ジョーおじさんが言った。「こりゃ背理法だよ。」
「いえ、小概念の不当周延です!」ジムおじさんは一人で喜んでいる。
二人は、ぼくと一緒の時はいつでもこんな調子だ。まるでぼくを小概念扱いするのを楽しんでいるみたいに。
少し経って、ちょうど床屋が見えてきた頃、ジムおじさんがまた始めた。「店にカーがいてくれるといいんですが。」彼は言った。「ブラウンは不器用ですからね。アレンは、あの熱病以来、手が震えているし。」
「カーは間違いなくいるさ」ジョーおじさんが言った。
「いないほうに6ペンス賭ける!」ぼくは言った。
「やめといたほうがいい。かけがえのない金、賭けがいのない賭けだ」ジョーおじさんが言った。「いやつまり」――おじさんは、言わなきゃいいことを言ってぼくにニヤニヤされたのを見て、慌てて続けた――「それを証明できるんだ、論理的にな。これは偶然の問題ではない。」
「論理的に証明するですって?」ジムおじさんがバカにして言った。「やってみてください! できるものならね!」
「論証のために」ジョーおじさんは始めた。「カーはいないと仮定しよう。そして、その前提から何が導かれるかを考えよう。わしはこれを背理法で行う。」
「そりゃそうでしょう!」ジムおじさんが不満げに言った。「貴方の議論の結末はいつも『理に背く』んですからね!」
「お前の男らしくない挑発には乗らずに」ジョーおじさんは偉そうに言った。「進めることとしよう。カーは外出中だ。そうすると、もしアレンも外出中なら、ブラウンは店にいるに違いない。これは認めてもらえるだろうな?」
「彼がいたからって何の意味があるんですか?」ジムおじさんは言った。「ブラウンに剃らせるわけにはいきません。あいつは不器用すぎます。」
「忍耐は、例の『計り知れぬ特質』の一つで――」ジョーおじさんが語り始めたけど、ジムおじさんがすぐに止めた。
「論証です!」彼は言った。「お説教は要りません!」
「いいだろう。で、認めるのかね?」ジョーおじさんはこだわった。「もしカーが外出中なら、『もしアレンが外出中であるならブラウンは店にいるのでなければならない』と言える。そう認めるのかね?」
「もちろんですよ」ジムおじさんは言った。「さもなくば、店がもぬけのからになりますからね。」
「ということは、だ。カーがいないことで、ある仮言命題(=仮定を含んだ命題)が得られる。どんな仮言命題かというと、仮定部分は『アレンは外出中である』、帰結部分は『ブラウンは店にいる』。そして、カーが外出している限り、この仮言命題は有効だ。そうだろう?」
「ええ、そういうことで構いません。それで?」ジムおじさんが言った。
「このことも認めてもらえるだろう。ある仮言命題が真であるかどうかは、つまりその論理的推論の道すじ自体が妥当であるかどうかは、その仮定部分が現実に真であるかどうかには一切関係がないし、それが可能であるかどうかにさえ関係がない。例えば『もしお前がここからロンドンまで五分で走るならば、人々は驚くだろう』という仮言命題は、お前がそれをできようとできまいと、推論の道すじとして正しい。」
「私にはできませんね」ジムおじさんは言った。
「ここでもう一つ仮言命題を考えないといかん。お前は昨日、アレンについて何と言ってたっけな?」
「私が言ったのは」ジムおじさんが言った。「あの高熱を出して以来、彼は一人だと安心して外出できないと言って、いつもブラウンを連れて行くんだ、ってことです」
「そうだった」ジョーおじさんが言った。「じゃあ、『もしアレンが外出中なら、ブラウンは外出中だ』という仮言命題は常に有効だ。そうだな?」
「そうでしょう」ジムおじさんは言った。(いまやジムおじさん自身が、ちょっと安心できなくなってきた様子だった。)
「じゃあ、もしカーが外出中なら、我々は二つの仮言命題を手にするわけだ。『もしアレンが外出中ならブラウンは店にいる』、そして『もしアレンが外出中ならブラウンは外出中だ』、どちらも同時に有効ということになる。二つの、両立できない仮言命題だ! 一緒に真になることはありえない!」
「ありえませんか?」ジムおじさんが言った。
「どうしてありえるんだ?」ジョーおじさんが言った。「どうやって、一つの同じ仮定部分から、二つの矛盾する帰結部分が証明されると言うんだ? 二つの帰結部分『ブラウンは店にいる』と『ブラウンは外出中だ』は矛盾している、お前もそれを認めるだろう?」
「はい、それは認めます」ジムおじさんは言った。
「じゃあ整理しよう」ジョーおじさんが言った。「もしカーが外出中なら、これら二つの仮言命題は同時に真である。そして、それらは一緒に真にはなりえないと分かっている。それは不合理だ。したがって、カーは外出中ではありえない。素晴らしき背理法だ!」
ジムおじさんはすっかり困惑してしまった様子だった。でも少し経つと、勇気を奮ってまた話し始めた。「その、両立できないというのが分かりませんね。なぜその二つの仮言命題が一緒に真になってはいけないんです? それらが同時に真であるということは、単に、『アレンは店にいる』を証明するだけですよ。これは明らかです。もちろん、二つの仮言命題の帰結部分『ブラウンは店にいる』と『ブラウンは外出中だ』が両立できないのは明白です。しかし、こう言い換えてみてはどうですか。もしアレンが外出中ならブラウンは外出中だ。そして、もしカーとアレンが両方とも外出中なら、ブラウンは店にいる。これでは不合理です。したがって、カーとアレンが両方とも外出中ということはありえない。しかし、アレンが店にいる限りは、カーの外出を妨げるものは何もないでしょう。」
「やれやれ、非論理的だな、ブラザー!」ジョーおじさんが言った。(ジョーおじさんが「やれやれ」と言い始めたら、相手を窮地に追い込んだと判断したってことだ。間違いない!) 「お前は仮言命題の、前提部分と帰結部分の分け方を間違っているのが分からないのか? その前提部分は『カーは外出中である』だけだ。帰結部分は、『もしアレンが外出中ならブラウンは店にいる』であって、これは、仮言命題の一部分をなす仮言命題、つまりある種の部分命題だ。それこそが、全くもって不合理な帰結部分なのだ。なぜならそれは、常に正しいことが分かっている別の仮言命題『もしアレンが外出中ならブラウンは外出中だ』と、どうあがいても両立できないのだからな。そしてこの不合理を招いたのは、言うまでもなく、『カーは外出中だ』という仮定だ。ということは、可能な結論はたった一つ。カーは店にいる!」
この議論がどれほど長く続きそうなものだったか、想像もつかない。きっと六時間以上でも続けられたことだろう。でも、ちょうどその時、ぼくたちは床屋に着いた。そして、中に入ったぼくたちが見たのは――。
原注.
このパラドクスは、上記の文章では面白おかしく表現されているが、仮言命題の理論の大きな難問であると私は考えている。この問題は何人かのベテラン論理学者たちに議論されてきたものであり、私も意見を提出してきたのだ。彼らとの手紙のやりとりの中で、たくさんの対立する意見が出てきた。それらを目にして私が確信したのは、「仮言命題とは何なのか」「それらをどう扱うべきなのか」という問題について、論理学の教師や著述家たちが何らかの同意を得るためには、このテーマはさらに進んだ検討を必要とするということだ。
元々の論争は、一年以上前に論理学の学生二人の間に起こったものだ。記号では次のように表現できる。
二つの命題、AとBがある。
次の二つが正しいとする。
(一)もしCが真なら、もしAが真ならBは真でない。
(二)もしAが真なら、Bは真である。
このとき、Cは真でありうるのか、これが問題だ。
この二つの命題の、文字A・B・Cを、名前アレン・ブラウン・カーで置き換え、「真」と「真でない」を、「外出中」と「店にいる」で置き換えれば、次のようになると分かるだろう。
(一)もしカーが外出中なら、もしアレンが外出中ならブラウンは店にいる。
(二)もしアレンが外出中なら、ブラウンは外出中である。
これは「ジョーおじさん」が議論を組み立てるときに使った二つの命題そのものだ。
この点に関連して、いくつかのとても興味深い問いが浮上する。例えば次のようなものだ。
仮言命題は、その帰結部分が偽であっても、正当なものと見なされうるのか?
「もしAならばB」と「もしAならば、Bでない」という二つの仮言命題は両立可能なのか?
次の命題の間には、(もしあるとすれば)どういう意味上の違いがあるのか。
(一)A・B・Cは、全て同時に真とはなりえない。
(二)もしCとAが真なら、Bは真でない。
(三)もしCが真なら、もしAが真ならBは真でない。
(四)もしAが真なら、もしCが真ならBは真でない。
ちょうど今、このパラドクスが具体的な形を取って私のもとへ送られてきた。きっと、必然的真理の具体例として、問題に新たな光を投げかけるだろう。
三つの線分KL・LM・MNがあるとしよう。これらの線分は、LとMにおいて、LMの同じ側に、互いに等しい鋭角を形作っている。
「A」は「点Kと点Nが一致する。従って三つの線分は三角形を形作る」を意味するとしよう。
「B」は「この三角形は、互いに等しい底角を持つ」を意味するとしよう。
「C」は「線分KLと線分MNは、互いに等しくない」を意味するとしよう。
すると次の二つが得られる。
(一)もしCが真なら、もしAが真ならBは真でない。
(二)もしAが真ならBが真である。
二番目の命題は、証明を要しない。そして一番目のものはユークリッド原論の命題1−6において証明されている。もちろん、それがユークリッドの意図をきちんと表現しているかどうかには疑問の余地があるけれど。
私は、論理学に興味を持つ『マインド』誌の読者が、これらの興味深い問題の解決に助力してくれることを大いに期待している。
●訳者補遺
本作は、キャロル自身がかかわっていた論理学上の論争を、ストーリー仕立てにした文章です。一八九四年、哲学雑誌『マインド』に掲載されました。文中の「ジム」がキャロルの立場を表し、「ジョー」が論敵のジョン・クック・ウィルソンの立場を表しています。
ジムとジョーは、「PならばQ」のような形をした「仮言命題」(現在は条件文と呼ばれます)にまつわる議論をしています。彼らの時代には「パラドクス」と思われたのかもしれませんが、現代ではこの論争は完全に解決済みで、キャロルが正しいのは明らかです。ウィルソンも、後にキャロルの正しさを認めました。(ただし、「条件文とは何なのか」「それらをどう扱うべきなのか」にまつわる議論は現在でも活発に行われています。)
なお、論理についてキャロルの提示したパラドクスとして、もっと重要で有名な問題が、「亀がアキレスに言ったこと」で扱われています。