「通路から人がいなくなるまで、開場はいたしません!」
悲痛ともいえる女性の叫びが、会場内に響き渡った。ぼくの腕時計は、9時58分を指していた。開場まで、あと2分。
「開場時間になっても、行列がなくなるまで開場はいたしません!」
再び、胸を締めつけられるような呼びかけ。行列をつくっていたわけではないけれど、罪悪感を感じずにはいられない。
こうなることは、予想がついていた。ワンダーフェスティバルに先駆けること2週間、ホビージャパンが主催するイベント、JAF-CON8でも、同じことが行われていたからだ。これは、かねてからの懸案であった、いわゆる「ディーラー特権」を是正する措置であった。ディーラー特権とは、ディーラーであるが故、一般入場より先に目当てのブースへ行き、買い物できるという特典だ。イベントが回を重ねるごとに、この特権を乱用する者が増え、開場前に既にブース前に行列ができるという、珍妙な光景が見られるようになっていた。
もちろん、開場前に行列をつくれないとしても、一般入場に比べディーラー入場したほうが、目当ての商品を購入できる確率ははるかに高い。そう、確率の問題なのだ。開場前に行列ができなければ、それだけ一般入場者が意中の商品を手に入れられる確率が高まる。些細なことかも知れないが、一般入場者に与える心理的影響は大きい。
アメリカン・ドリームを掴むチャンスは、誰にでも公平に与えられている。確かにそうかも知れないが、その人が生まれ育った環境によって、その確率は大きく異なる。わずかでも確率を高めるため、人々は努力をする。その努力を、イベント主催側が行った結果が、いわゆる開場前の行列崩しである。一般入場者が強く感じていた不公平感は、わずかとはいえ、解消された。
しかし行列崩しによって、ちょっとした事件が発生した。開場のカウント・ダウンが始まっていないのに扉が開けられ、一般入場者が雪崩れ込んできてしまったのだ。人気ディーラーの前に、瞬く間に行列ができる。ディーラーたちは躊躇しがちに、しかし一般入場者が入ってきたことを戦いのゴングが鳴ったものと解釈し、商品の販売を始めた。と、その時だった。
「ワンダーフェスティバルはまだ始まっていません。まだ商品を販売してはいけません」
すっかりお馴染みになった女性の声が、ディーラーの頭上から降り注いだ。その時、ぼくはあるディーラーのブース内にいた。そのディーラーは今回のワンダーフェスティバルが初参加だった。イベントは突如として始まるものと思い、アナウンスが流れる直前、真っ先にブースに走り込んできた少年に、商品を販売してしまったのである。代金を受け取った瞬間に、「まだ商品を販売してはいけません」と警告されたのだ。
少年──そう、まだハイスクールに通っていそうな少年は、商品を受け取るとそれを大事に抱え、再び行列を崩された人々の間を縫って、どこかへ走り去ってしまった。
ぼくには、この少年のことをとやかくいう権利はない。けれど、はっきりいえることもある。まず、彼はブースを準備している時から明らかに商品に惹かれており、「雨の中、黒人の少年がショウウィンドゥに飾られたトランペットを見つめる」という構図を彷彿とさせるひたむきさで、飽きることなく商品を眺めていたということ。無論、だからといって彼がフライング・スタートを切ることができて良かった、というわけではない。
そしてもう一つは、このエピソードが、これから述べる「伝説」の彩りになっているということである。