ピラミッドの歴史と変遷   

 さて、エジプトの”ピラミッド”と言えば、どんなピラミッドを何基くらい思い浮かべるでしょう。

 すぐに連想されるのはギザの”3大ピラミッド”かと思います。興味を持っている方は建設当時のファラオと言われているクフ・カフラー・メンカウラーの名前が出ると思います。さらに第1ピラミッドは高さ約147b、第2ピラミッド約143b、第3ピラミッド約66b、まで同時に想像する人がいれば驚きです。(私、資料見ないとおぼろげにしかわかりません。)
 さらに第1ピラミッドの古代名が「日が昇り日が沈むところ」で第2ピラミッドは「輝ける、、、」なんて頭に浮かぶくらいなら、もうこのページは見ないほうがよろしいです。(笑) ここではそんなに詳しく書く予定はありません。
 このページは、簡単な歴史と変遷を知ってからピラミッドの前に立った方が、ガイドさんの説明や観光そのものが一段と充実して楽しくなると思い作っています。実際そのような質問が多いので作リ始めた経緯もあります。

 話がそれました。
 あ、さて、振り出しに戻ってギザの3大ピラミッドの他にどんなピラミッドが思い浮かぶでしょう。

→ご存知。ギザの3大ピラミッド。廻りのマスタバ墳も相当な数で圧巻の一言。



  ギザのピラミッドに関しては【特集ページ】も参照どうぞー。

 地名は別にしてサッカラの階段ピラミッドの名前は出るかも知れません。同じくダハシュールの屈折ピラミッドも出るかも知れません。赤ピラミッドも出るかも。さらにメイドゥムの崩れピラミッドまで出るかも知れません。
 ところで現地に行く前の私の知識はそこまでです。ウナス王のピラミッドのピラミッドテキストは有名だとは”ぼや〜”と聞いたことがあるような気がしますがそれ以上の知識はありません。エジプト国内に80基から100基のピラミッドがあるというのも聞いていましたが「うーん、でもなぁ、実際、素人が目で見えるのは6〜7基くらいだろうなぁ。そのうち実際に見て本当に感動するのは3〜4基くらいかな?」と思っていた記憶があります。さらに正直に申しますと「階段ピラミッドや屈折ピラミッドは名前は聞いたことはあるけど本当のピラミッドではないな、、、。本当のピラミッドとはピラミッドの形をしたクフ王のピラミッドとカフラー王のピラミッドだけだな、、、。メンカウラーのピラミッドになるともう感動しないだろうな、、、。まして崩れているピラミッドはもうピラミッドには見えないだろう、、、。」と思っていたからひどい話です。今考えるとピラミッドにもエジプトにも大変失礼な話ですね。(知識が乏しかったので、逆に衝撃的な感動になったという別の見方もありますが。)

 で、実際には現地に降り立った瞬間に感動、興奮、血圧上昇の嵐になったのはご承知の通りです。

 ピラミッドは、何もギザの3大ピラミッドだけではありません。ギザの第1ピラミッド(クフ王)だけが重要なわけでもありません。実際現地で複数のピラミッドを観光した人はギザだけに感動するのではないことを実感するでしょう。  

 結論から言うと、目に映るピラミッドには全て感動します。ピラミッドの見え方は、予想と違って砂漠の中に”ド〜ン”とありますから、それが崩れていようが破壊されていようが、その圧倒的な存在感に驚くと思います。
 砂漠の中に、決して自然にはできるはずのない石の芸術品に感動するはずです。

 さらに驚くのはその数。例えばギザにしても、3大ピラミッドに隠れて存在感が薄いですが素人目には充分大きなピラミッドがドーンドーンとあります。いわゆる王妃のピラミッド女王のピラミッドで、3大ピラミッドと合わせて9基ほど”ドドーン”と見えます。(なんでもかんでも感動する私は、第1ピラミッドに寄り添うように立っているヘテプヘレス(クフの母で前王スネフェルの王妃)のピラミッドを見るだけでもその存在感に感動。)
 サッカラには有名な階段ピラミッドがありますが、それ1基だけではなくすぐ南西にくっつきそうにウナス王のピラミッドがあり、北東にウセルカウ王のピラミッドも見え、ぐるーっと視界を一周させると未完成も含め9基は見えます。(未完成であってもその存在感は充分ピラミッドです。この未完成具合が古代の遺跡らしくてとてもいいんです。)
 ダハシュールに行くと巨大な赤ピラミッドと屈折ピラミッドはすぐ見えますがまわりに合計5基あります。
 アブシールは通常の観光では行かないようですが、アブシール複合体の中に未完成も含めて自動的に4基見えます。


 ↑ダハシュールのピラミッド群。右からアメンエムハト3世の黒ピラミッド。スネフェルの赤ピラミッド。同じくスネフェルの屈折ピラミッド。とこの写真では4基ほどのピラミッドが視界に入っている。


 ↑アブ・シール複合体のピラミッド群。アブ・シールはギザとサッカラの中間にある。

 
 ピラミッドだけ重点的に観光するつもりはなくても、ギザとサッカラとダハシュールとメイドゥム、アブシールと行ければ30基近くみえちゃいます。これは当初全く予想していない数です。
(話はそれますが持ち運べる余裕があるなら軽くて性能良い双眼鏡がお薦め。肉眼では見えにくくてもはっきり存在感を確かめられます。カメラビデオカメラもズームして撮影すると恐ろしいほどはっきりくっきり見えます。)

→サッカラからアブ・シール方向を望む。天気が良ければ見える見える。

→上記の画像の続き。カメラを引いて見ると・・・
 右にアブ・シール複合体。画面ほぼ中央にギザの3大ピラミッド(見にくいか?)
 ギザのピラミッドを指差す吉村作治教授。

 で、個人的には、(またお叱りを受けるのを承知で書きますが。)多くのツアーの場合、エジプト到着早々まずギザの観光から出発しますが、ピラミッドに関してだけ言えばギザを一番最後にした方が良いと思うんです。その理由は、ピラミッドの知識が希薄なまま日本からいきなり来てメインの3大ピラミッドを見てしまうのはもったいないこと。ただ”大きい大きい!”だけの感動はもったいない。(とにかくギザのピラミッドを見に来たんだからどうでも良いという人がいるかも知れませんが。)

 個人的には、まずエジプト最古のサッカラの階段ピラミッドから観光して、ダハシュールの屈折ピラミッドと赤のピラミッド、そしてできればメイドゥムの崩れピラミッドを観光して最後にギザに行った方が感動は10倍にも20倍にもなると思うんですけどなぁ。途中、他のピラミッドはできればたくさん見て、とにかくギザは最後にする。
 でも、ツアー会社の事情もあるからそうも行かないんですねきっと。ピラミッドだけで旅程を組むわけではないし。さらに、日程途中で体調を壊してホテルで休養。後半に予定していた最大の目的の第1ピラミッドが見られなかったー。なんてなったらそれこそもったいないですね。

 前置きが長くなりました。m(__)mペコリ  本題に入ります。
 話は、エジプト最古のピラミッドと言われる、古王国時代第3王朝2代ジョセル王の階段ピラミッドから始めます。製作者はかの有名な宰相イムホテプ。あ、さて、その前にピラミッド以前の歴史から。 

@ 【ピラミッド以前 それはマスタバ】 

 紀元前3000年より昔、エジプト王朝が誕生するはるか以前はエジプトの埋葬儀礼はごく単純。砂漠の中に竪穴を掘り、遺体を埋めてその上に”盛り砂”しただけ。ところがこの乾燥した暑い灼熱の砂漠地帯では遺体は消滅しない。逆にきれいに自然乾燥し、何の苦労もせずにミイラに。
 いつからかエジプトの死生感と結びつき、死後に”バー”とか”カー”とかの霊魂が戻れるように、意図的にミイラとして残すようになってきた。

 やがてエジプトに王朝が誕生し階級社会が到来。庶民より貴族の墓の方が当然大きく深く、さらに貴族より王族の墓がより一層大きく、より一層深く造られるようになってくる。最古の王族の墓と言われる第1王朝アハ(メネス)王の墓は地下の岩盤を掘りぬいてなんと5室の大墓所。さらに地上には22の小部屋と5つの大部屋があり日干しレンガで塀が張り巡らされ縦42b、横16bというから巨大も巨大。今から5000年前の昔でこの規模は凄いと思いませんか?

 で、このように地上に日干しレンガ等の建築物を持った地下墳墓の造りは近世になってマスタバと呼ばれるようになったらしい。(アラビア語の独得のベンチの形が語源らしいがアラビア語パッパラーの私にはよくわからない。)

 第1〜第2王朝にはさかんにマスタバは作られた。上・下エジプトもほぼ完全に統一され上・下の中間地点メンフィスに古都が移されたこともあり、メンフィス周辺から出土する豪華な王族のマスタバ墳は非常に多い。

 第2王朝後期にはマスタバ墳の近くに「太陽の船」(王が死後の世界の旅立ちに使う)も埋められるようになる。現在ではピラミッドは王墓ではないと言う意見が多いが、ピラミッドの近くからも「太陽の船」が出土しており、ピラミッドも王墓としてのマスタバ墳から発展した形になっていることの決定的な証拠になっている。

 ちなみに、ピラミッドが建設されるようになってからもマスタバ墳は貴族の墓で建造を続けており、ピラミッド衰退後も連綿と引き継がれエジプトにおける墓所の基本的な形態となっている。
(現に、ピラミッドで有名なギザの台地でも3大ピラミッドやスフィンクスに目を奪われるものの、ちょっと回りを見ると圧倒的なマスタバ墳の数である。)

 もうひとつちなみに、初期王朝時代の一般庶民のミイラは多数出土しているが、逆に王族・貴族のミイラは今のところ見つかっていないという変な結果になっているらしい。(暑い砂漠に遺体を埋めれば自然にミイラになっていたものが、ミイラを意図的に残すように人工的なマスタバ墳を造ったために、逆にミイラにならなくなってしまった。そのため、その後人工的にミイラを造る方法が確立し始め保存技術が発展したらしい。)

 そして、時代は第3王朝へ。

A 【巨大建造物 階段ピラミッド登場】

 カイロ市内から通称ピラミッド街道をギザ方向に進み、ギザの巨大ピラミッド群を横目に左に曲がってサッカラ街道に入る。少し走ると間もなく古都メンフィスがある(意外に近いのに驚く。)。メンフィスは上・下エジプトを統一した頃の初期の王朝の首都である。(そのころカイロはカイロという名前すらない。)アラビア語でミト・ラヒーナ村にはかつてのプタハ神殿跡、今のメンフィス遺跡もある。今はその繁栄の面影はないが確実に王族・貴族が権力を振るった巨大都市であったはずだ。近くにはサッカラ村もある。非常に簡素な街並みでバスから見る眺めはどこか妙に懐かしく落ちつくものがある。道行く人々ものんびりとして、これがかつての首都だとはとても思えない趣がある。

  さて、ピラミッドを見るにはサッカラ村やメンフィスまで行ってしまうと行き過ぎで、そのちょっと手前で右に曲がり砂漠地帯に入る。そこから2キロほど進むとチケット売り場、さらにそこから1.5キロほど進むと6段の独得の形のピラミッドが姿をあらわす。その一段一段には肉眼で見ても砂が大きく積まれているのがはっきりとわかる。エジプト最古のピラミッド。有名なサッカラの階段ピラミッドである。

 その階段ピラミッドを建造した王はジョセル王。第3王朝2代目ファラオのジョセル王の統治時期は紀元前2630年〜紀元前2611年。だから今から4600年以上も前の建造物というからすごい!

 ちなみにピラミッドのあるサッカラ地帯は当時の首都メンフィスの王族墓地。地名はあるもののとても人間の住めるような場所ではない。あたり一面は砂漠地帯である。(メンフィスが札幌市とすればサッカラは平岸霊園あたりか。ありゃ?誰も知らない。)

 さて、話は大きくずれてしまったが、この階段ピラミッドはもともとマスタバ墳。拡張工事を繰り返した結果このような巨大建造物になったらしい。(ちなみに古代エジプト人はピラミッドを誰もピラミッドとは言っていない。後世の人が命名。古代人はそれぞれのピラミッドに独得の名前をつけている。)

 ここでちょっと当時の時代背景。ジョセル王の頃のエジプトは上・下エジプトを統一してから3〜400年経っていたとは言え、国内の各勢力は完全に統一されたとは言いがたかった。その証拠にジョセルの前の第2王朝時代、あくまでも別個の神にこだわる勢力によって頻繁に衝突が起き、それまでのファラオの墓が敵対勢力にすべて荒らされたというからひどい。(こんなのを聞くとエジプトは本当に上・下統一されていたんだろうか?と思っちゃう。でも王朝もあるし、ファラオ名も残っているしなぁ。)

 そこで登場するのがジョセル王の第1宰相の天才イムホテプである。ただし、ジョセル王(或いは製作者イムホテプ)は最初からこのマスタバ墳を造ったわけではなく実は3個目(らしい)。最初は上エジプトのベイト・カッラフに(そこってどこ?)史上最大の縦91b、横66bの巨大マスタバ墳を造っている。なお、これは当時の慣習で上・下エジプトそれぞれに墳墓を造り、上・下公平に王権を及ぼすための政治的配慮だったらしい(なるほどー。)で、ここに遺体そのものを収めるつもりはなく、いわば空の記念墓。

 そして2個目は、なんと階段ピラミッド作成のため実験的に作った(らしい)。サッカラからほんの少し北のアブシールの丘の斜面を利用して、そこに階段ピラミッドと同じ石を使用し、階段部分の外壁傾斜角も72.3度という全く同一の角度で下段部分を忠実に作成している。その結果に満足して階段ピラミッドの作成に取りかかったのではないだろうか?(と吉村大先生は言っている。)考えてみれば72.3度という角度はかなり危険な角度。いかに6段に分割しているとは言え、通常のピラミッドでこの角度は危ない。
(ギザの第1ピラミッドで傾斜角51度52分。ま、約52度。屈折ピラミッドで約54度で途中から約43度。赤のピラミッドで43度。メイドゥムの崩れピラミッドで内装の階段部分は73度あるが外壁の斜面は52度にしようとして崩れた(らしい)。)

 で、階段ピラミッドの初期工事は一辺63bの正方形のマスタバ墳を造り、そこから深さ28bの竪穴を掘り抜いて墓室を、、、、というから凄い。その上に階段上に石が積まれ合計5回の増築工事の後、縦140b、横118b、高さ60bの6段の階段ピラミッドになったというから凄い。(さっきから凄いしか言えない。)そして王族の血縁者も追加埋葬することが決められ深さ33bの縦穴を11本!掘り抜き(これも凄い)、周囲にいくつもの神殿、葬祭殿を建造、南北550b、東西240bの複合構造、いわゆるピラミッドコンプレックスを完成させた。
(階段ピラミッドはマスタバ墳から増築したため確実に”王墓”だったらしい。地下の玄室からはジョセフ王と見られる足が見つかっているが、盗掘のあともあり、ジョセフ王本人かどうか確定していない。)

    

   (テレビ「世界不思議発見」よりキャプチャ画像)

・上の5枚はジョセル王の階段ピラミッド内部の写真。一般には公開されていないが、ピラミッド南側から内部に入れる。ピラミッド内部最深部には深さ30b近くの竪孔がある。この放送時のミステリハンター竹内海南江さんは感動するとともにあまりの深さに「うわぁ。なに?これ?こわーい」とコメントしている。

    

      

 ・上の7枚は同じくジョセル王の階段ピラミッドの「南の墓」。深さ28b。「地底探検をしているみたい。中は複雑な迷路のようです。」とコメント。そして最深部へ。「うわあ。見て見て・・・。なんか、お水の中にいるみたい・・・」と言う本人の感動のコメント。下から照明を当てている関係もあるが、テレビ画面で見ると非常に幻想的な美しさを放っている。

 

 どんな場合でも、技術というものは必ず先駆者が存在してその上に着実に積み重なって行くものである。革新的な技術があっても当事者本人は別に画期的だと思っていないかも知れない。しかし、この階段ピラミッドにおいては、それまでの単純なマスタバ墳とは趣を変え、途中の段階を一気にすっ飛ばして突然世に出現した感がある。
 そのため天才イムホテプはエジプト人ではなく渡来人、当時のシュメール人(メソポタミア)であるという説もある。確かにこの時期エジプト文明より古い歴史を持つメソポタミアの文明の方が技術力は大きかったかも知れない。現にジックラドという階段ピラミッドも既に存在し、都市国家のために常に外敵から身を守るために都市の回りに築いた外壁は簡単には崩れない碧眼構造。
 ジョセル王の階段ピラミッドに見られる外壁の構造はどう見てもメソポタミアの碧眼構造である。外国人だからと言ってイムホテプの存在が天才からただの渡来人になるわけではない。

 なお、宰相イムホテプは現代のレオナルド・ダ・ビンチみたいな人で、人々の人望も厚く当時は王でなければ決してなれない”神”にまでなってしまった。(名前もイムヘテプだったりイム・ホテップだったりするが。) うーん、やはり人間ではなかったか、、、。

 さて、階段ピラミッドに行数を使い過ぎてしまったので先に進もう。

 ここで問題。第3王朝2代目ファラオのジョセルの後のファラオを列挙すると、3代セケムケト4代カーバ5代フニと続き、第4王朝に移り初代スネフェル2代クフ3代ジェドフラー4代カフラー5代メンカウラー、、、と続く。
 さて、この中でピラミッドを建造したファラオは誰でしょう。変な問題だが正解は”全員”。結果的には未完成に終わっているものもあるが全員が作ろうとしている。実は、ジョセルの階段ピラミッド以降、ピラミッド建設は一気に黄金時代に入っていく。

 で、3代セケムケト王。なんらかの理由で建設途中で放棄したようだが、ジョセルの階段ピラミッドのすぐ南西に存在する。(階段ピラミッド観光時にウナス王のすぐ背後に確実に見える。)もし完成していればジョセル王の階段ピラミッドを凌ぐ大きさの階段ピラミッドだが、なぜか2段目途中でやめている。
 4代カーバ王もサッカラの北方に階段ピラミッドを建設している。ただし現在はかなり崩れ3段目の基部までしか残っていない。
 結局”階段ピラミッド”は最初の1基しか完全には残っていない。やはり、イムホテプだからこそ成し得た偉業か、、、。

 そして時代は、第3王朝5代目ファラオのフニ王の時代になる。なんと!フニは階段ピラミッドのさらに上を行く”真正ピラミッド”を造ろうとしていた。

B 【究極の形 真正ピラミッドへ】

 最初にフニ王は、メイドゥムに真正ピラミッドを建造しようとした。いわゆる”ピラミッドと言えばあの形”の正四角錐である。ただ、発掘調査によれば当初は7段の階段ピラミッドを建造・完成。それで満足しないフニ?は8段に増築。それでも満足せず、各段の外壁傾斜73度の上から傾斜角52度の石材で覆いつくし完全に正四角錐の形にしようとした。途中でフニ王の息子スネフェルが引き継いだため、どの段階からスネフェルの意向が入っているか不明。
 だが当初から計画していたものではなく、何度も建築方針を変更し傾斜角のきつい階段ピラミッドの回りに石をかぶせる構造は無理があったようだ。建造途中か完成直後かしばらく後か不明だが(これはいろいろな説がある)外壁にかぶせたすべての石材が崩壊。途中で増築した8段目の一部も崩壊し、現在見えるような奇妙な塔状の形になってしまった(らしい。)。
 何の予備知識もなく、このピラミッドを見ると「ん?なんだ?この形は、、、。」と思うような奇妙な形である。

 なおこの屈折ピラミッド。見た目にはどうも納得がいかない。始めから階段ピラミッドの一歩上を行く塔状の美しい形の完成を目的としていたんでないかなぁ。でも発掘調査によれば大量の瓦礫の山の中から四角錐形の石が見つかり、さらに外壁傾斜角が52度のきれいな真正ピラミッドの基部が確認されていると言うから本当かぁ。

 フニはまた、ダハシュールの屈折ピラミッド(南のピラミッドと呼ばれる)も手がけたらしいが造っていたのか計画だけだったのか詳細は不明。一説ではメイドゥムのピラミッドが崩壊したため急遽角度を安定角度にした(この時点でまだメイドゥムのピラミッドは崩れておらず、崩壊はずっと後の第18王朝だという記録もあるが)とか、フニの死が近いため息子のスネフェルが角度を変えて完成を急いだとか、ファラオによって傾斜角は決まっておりフニは52度、スネフェルが43度だったために屈折部分がフニ王の死んだ時だという説もある。
 また、当初からこの形で造ろうとしたという説もある。フランスのエジプト学者ドーマ博士(?知らない)の説では、上エジプトと下エジプトを象徴する2つのピラミッドが設計母体だったと言う。現にこのピラミッドはかなり高さが違う2つの入り口があり、2つの通路、2つの墓室がある。
 で、本当のところはさっぱりわからない。

 ジャジャーン。ここで完全な真正ピラミッドを完成したスネフェル王の登場。スネフェル王はメイドゥムの崩れピラミッドを完成し、ダハシュールの屈折ピラミッドを完成、さらに赤ピラミッド(北のピラミッドと呼ばれる)でとうとう最初の真正ピラミッドを完成している。すごーい。で、驚くのはこの時点でなんと!3基のピラミッドを完成(最終的には5基。)していること。
 一人で複数のピラミッドを作っているこの事実が、ピラミッド王墓説に反論する人々の有力な証拠になっている。

 とにかく安定傾斜角43度のドーッシリした赤ピラミッドが完成。スネフェルが造った初の真正ピラミッドである。(実際に製作したのは5基ともスネフェルの息子(宰相)ネフェルマアトだが、それにしても凄い。)
 その後(たぶんかなり研究したと思うが)最初から完全設計すると傾斜角52度でも巨大な自重に充分絶えうることが、スネフェル王の息子クフとさらにクフの息子カフラー、さらに息子メンカウラーによっって証明されることになる。競って大ピラミッド建造の黄金期・絶頂期を迎えることになった。(第4王朝クフの統治時代は紀元前2551年〜紀元前2528年であるから、今から4500年以上も前、階段ピラミッドができてからまだ100年と経っていない。)

→ダハシュールの赤ピラミッド。(スネフェル王)

→同じくダハシュールの屈折ピラミッド。(スネフェル王)

→メイドムの崩れピラミッド。(スネフェル王)

 ・ちなみにスネフェル王は上記を含め、少なくとも5つのピラミッドを建造している。実際の建造者は宰相ネフェルマアトだが。

→アブ・シール複合体のピラミッド群を別角度から。

→オアシスにもピラミッドはある。
 写真はファイユームにあるエル・ラフーンのピラミッド。存在感抜群だ。

 その大ピラミッド建造の背景には血生臭い権力争いの人間ドラマがあるというから面白い。ちなみにクフの大ピラミッドを建造したのは、ネフェルマアトの息子で、これまた天才の宰相ヘムオン。ヘムオンはギザの第1ピラミッド、第2ピラミッドの超巨大ピラミッドを造ったらしいが真偽は定かでない。

 ところで、巨大ピラミッドの建造はこの第4王朝以降は全く作られていない。第3ピラミッド(メンカウラー)も確かに一辺108b、高さ66bと大きいものの第1ピラミッド(クフ)や第2ピラミッド(カフラー)のように高さ150bに達するようなピラミッドは今後作られない。その、ギザで見劣りする第3ピラミッドにさえ匹敵するものは一つもない。メンカウラーの次の王、第6代ファラオのシェプセスカフ王はもはやピラミッド建造を断念してマスタバ墳に戻らざるを得なかった。少なくともピラミッド建設が国家の財政に大きな負担になったのは間違いない。メンカウラーの代までははなんとか持ったもののそれが限界だったか。

 ピラミッドの建造自体は第5・第6王朝も小粒ながら続き、混乱期を経て第11王朝には再び都をテーベ(今のルクソール)に移したあたりから王権の回復に努め、第12王朝の時代にはピラミッド建設も大きく再開された。
 しかし黄金期の技術も踏襲されていないようで、日干しレンガ等で造られたピラミッドは長い年月の間に外壁が崩れるとともに、現在では築山のような外観に変わっているか、痕跡しかとどめない状態になっている。

 それゆえ、今から4600年以上も前のイムホテプの作った最古のピラミッドや、それから100年も経っていない時代にヘムオンの造ったギザの大ピラミッドが現在まで、当時のまま残っているのは驚異なのである。

 イムホテプやヘムオン亡きあと、巨大ピラミッドは二度と建造されていない。財政の圧迫もあったかも知れないが、技術その他が引き継がれなかったのであろう。


C 【時代の流れはピラミッドから神殿建築へ】

 古代エジプト31王朝と言われた中で、ピラミッド建造時代の黄金期は古王国時代第3〜第5王朝までくらい。その後もピラミッドは建造してはいるが力が入っていない。

 ピラミッド建設が衰退していく中で、相反するように太陽神を崇拝するための神殿建築が大規模かつ高度になっていった。中王国時代から以後、王墓は大規模な地下墳墓形式に変り、新王国時代にはハトシェプスト女王葬祭殿やラムセス2世のアブシンベル大神殿のように太陽神殿を盛んに構築するようになる。



出展:大ピラミッドの謎(学習研究社) 
    5000年のタイムカプセル( 〃 )
    古代文明の旅(WHITE STAR)など 
    

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