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■01-1:宗教という概念■

01:宗教という概念◆初期のファイル:01-1◆

宗教が絡んだ問題の相談も年々増えている現状。世界的に見ても、それは恐ろしく長い年月を経て現代まで続いている。宗教の違い・宗派の違いによって、互いを憎しみ合い殺し合う。まさに本末転倒。国内でも宗派により争っている宗教団体が多く存在する。

『宗教』

神という存在そのものを、否定することはないと考える。そして、神という存在への信仰も否定することはない。
迷える人々を懸命に手助けしようとする崇高な住職の方も居られます。その存在を、必要とされる方も居られるでしょう。そういう崇高な存在には意味があり、また存在すべきとも考えます。
しかしながら、宗教そのものは概念の1つ。どのような伝説が残っていようとも。宗教は、人間が作った架空の概念でしかない。
その架空の概念にしがみつくことで、不安が消えてなくなり、生きる活力が生まれるのだろうか。本当の安心や生きる為の活力は、まったく違う次元に存在するというのに。
神への信仰を捧げたいのであれば、ひとりの人間として直接神へ信仰すればいいだけのこと。なぜ、人間が作った架空の概念である宗教を、いちいち通さなければならないのか。神が、そうしなさいと言ったのであろうか。そんな簡単なことさえ理解する能力がないのであれば、神への祈りなど通じることはないだろう。
人間は弱い存在であり、その事実を正面からとらえ向き合わない限り、何も救われることなどない。弱いから集まる、群れる、どのような組織でもほとんど当てはまってしまう。
物事の本当の真実である答えは、人間が作り出すものではないと考える。物事の答えは、すでに存在しており、人間はそれを探し出すだけであると考える。
世界から、宗教という名ばかりの概念が消えてなくなれば、それだけ争うことも激減する。何の意味もなく死んで逝く人が、それだけいなくなる。全財産を失って自殺する人も、それだけいなくなる。これが教義という名目で、犯され続けている子供達も、それだけいなくなる。
子供が子供を作り、親として振る舞う。しかし、子供には子供を育てることはできない。親として振る舞う子供達は、欲望のえじきをさがす悪人に、いともたやすくだまされる。親とはとうてい呼べないばかげた親のために、子供達がいつも甚大な犠牲を払っている。その事実を、決して忘れてはいけない。

「2005-12-28:追記」
1つの宗教や宗派以外は認めない「教え」というものを押し付けている団体は「カルト宗教」そのものである。

万人が認めるカルト宗教そのものを批判する「教え」は正常なものであるが、自らの宗教や宗派を信仰させるために、そのほかのすべての存在を排除したり、敵対している団体だけを批判する行為は、非常に「歪んだもの」であり、「正常」な「教え」ではなく、その団体の存在そのものが「問題」である。
信仰とは人間が持っている「基本的なモラル」そのものであり、自分以外の人間から教えられるものではない。
また、質問などに対して、過去の偉人の言葉を借りて物事をさとす連中はマトモではない。その偉人の言葉は、その人の感性と経験からその時代と時間に発したものであり、ほかのだれかが勝手に拝借して使える言葉ではない。
参考にすることはできても、その偉人の言葉で他人をさとすような連中は、人のふんどしで相撲をとっていることと同じである。
世の中には、そのような行為が非常に未熟で恥ずかしいということを気付きもしない愚かな連中が多過ぎる。そういう「いい加減な未熟者」の話などに聞く耳を持つ必要は全くない。

「2006-07-30:追記」
「摂理」という「気狂いカルト宗教団体」とそこに入会?入信?しているばかの群れ。

そもそも「宗教」という『概念』について、真剣かつ正常な考えと考え方でフラットな答えを出せないことに『問題の根元』がある。
今回、問題になっている「1980年」から活動しているというこの犯罪集団の事件は、『サークルなどの入会』として巧妙に勧誘していたことも発覚しているが、被害者達にもその責任がある。
「サークル」という最初の段階での多角的な分析。次に入会に関して、団体のばか共との接触と具体的な説明を受けた段階。入会してから、その団体の具体的な活動内容やほかの入会者に関する多角的な分析……など。いくらでも危険を察知し、脱会できることは可能であり、チャンスは無限にある。
もっとも、そういう「(ある種の感覚的な)アンテナ」が最低限備わってさえいれば、分析までする必要もないのだが、結局、被害者達は「個室に呼ばれ、『服を脱いで踊れ、神の前で踊れないのか』」と言われた時に、自分自身を守るという最低限のことさえできなかった者達でしかない。
中には、強引に力任せでレイプされたり、薬物で体の自由を奪われてレイプされた被害者もいるのかもしれない。そういう場合は、やむをえなかったと言うほかはない。
が、「自分の意志で選択することができて、被害を避けられる余地がある場合」は、話が違ってくる。必然的に、自分自身にも「責任」がある。
後悔しても始まらない。物事は、先のことをある程度読みながら行動・発言していかなければならないことを、自分自身に対して常に言い聞かせながら生きていく必要性を真剣に考えることが不可欠である。
今回の「カルト宗教団体:摂理」『鄭明析(チョン・ミョンソク)教祖(61歳)』(強姦容疑で国際指名手配)」により、主に女子大学生らが引き込まれ、性的暴行を受けていた。日本人女性だけで、現在まで発覚している被害者数は100人を超えている。
通常のレイプ事件と同じく、被害者のほとんどは「親や周囲の人に知られたくない、警察での取り調べに対する嫌悪感などの思いから『泣き寝入り』している」ことが理解できる。
韓国は『レイプ王国』としてその名を知られている。確かに、韓国人によるレイプ事件は世界的に「有名」であることは否めない。しかし、レイプ犯罪大国である気狂いアメリカよりも被害者が多いとは考えられない。メディアでは「韓国こそが世界一」と言われているがうのみにはできない。
アメリカでは、万一レイプされるような緊急時の対応のためにコンドームを所持している。レイプ犯相手に殺されるよりも、安全にレイプされることを推奨?している気狂い国家である。また、男性が男性にレイプされるというケースも後を絶たない。
それから、アフリカなどでは「生活の一部」となっていると言っても過言ではないほどのおよそ考えられない非人間的な世界がそこにはある。
また、韓国や中国では、日本に対する「戦時中の恨みを晴らす」という精神構造の在り方に、問題の側面を見いだすことも不可能ではない。
話をもどすと、カルト宗教団体は『創価学会・統一教会・アレフ(元オウム真理教)』などのほかにも「数百団体」が存在しており、日本国内の宗教団体と呼ばれているモノだけでも「数万団体」が存在している。
特に、この『創価学会・統一教会・アレフ(元オウム真理教)』は、横のつながりもさることながら、北朝鮮や韓国との結び付きが非常に強い『凶悪なカルト宗教団体』である。
この気狂い奴隷国家日本自体が、戦前から『カルト宗教国家』そのものであることから、宗教に関する「規制」など何もないような状況である。なにせ、その象徴である『靖国神社』がそのまま存在し続けていること自体が『異常』なのである。
世界的に見ても、宗教とは名ばかりのモノであり、そのほとんどはひたすら「お金」のために存在している。「お布施」という形で、集めるだけ集め、団体の上層部だけが優雅な生活を満喫する。
なぜ、この国では「その犯罪集団の犠牲者が後を絶たない」という深刻な状況が続いている中で、必要な法改正などが全く行われないのか。
今更ながら、この国のすべては「端から端までくさり切っている」ことは明白であるのだが。

「2006-10-04:追記」
被害者へ2億8千万円の賠償を命じられた「カルト宗教(Religion)統一教会」という便所(Toilet)。

お子ちゃま首相と非常に仲がいい「カルト宗教統一教会」。繰り返された非常に悪質な「霊感商法」という犯罪。しかし、このクソ以下の犯罪集団が永遠に存在し続けられる「意味」とは何か。
これまで、どれだけの被害者が生み出されたのか。そして、その看板になっている「芸能人・政治家」。現首相のお子ちゃま安倍君もその1人である事実は「笑い話」にもならない。狂気の世界としか言い様がない。人々がその犯罪の犠牲になっている「犯罪組織」に『祝電を送る』現首相であるお子ちゃま安倍君。
これまで、国内外問わずに「その魔の手のえじき」にされた人々。一体どれだけの数の人が被害者なのか。なぜ、犯罪集団が野放しなのか。
当ウェブサイトに訪れている人々の中でも、これらの宗教が絡んだ問題の相談者がいまだに絶えない。絶えるどころか……。勧誘されている人、脱会したい人、そのほかに困っている人は、「無料相談」を御利用ください。
しかしながら、この国の「大きな病巣の1つ」である宗教問題。本気で「根本的な問題解決(強力な規制と本物の教育)」を行わない限り、被害者は後を絶たないだろう。

「2006-10-22:追記」
宗教・信仰の理由から赤ちゃんの手術を拒否したばか両親。「病院・児童相談所・裁判所」が連携して、幼き子供の命を救う。

生まれつき脳に病気がある赤ちゃんの命を救うために必要な手術をばか両親が拒否した。
これに対して、病院側は直ちに児童相談所に「虐待通告」を行った。そして、児童相談所からの請求を受けた大阪家裁が、「子供の健全な発達を妨げ、生命に危険を生じさせる可能性が極めて高い」として親権停止の保全処分を命じた。
赤ちゃんの命を救うための手術は、大阪家裁が選任した親権代行者の同意のもとで無事に成功。術後、請求取り下げで親権を回復したばか両親が育てているらしいが、根本的な懸念はぬぐえない。
病院と児童相談所の連携。そして裁判所の的確な判断。宗教と信仰の自由とは何か。
今回の赤ちゃんのケースでは、脳の病気で容態が悪化したために「延命する手術」を主治医が再三勧めたが、このばか両親は「神様にお借りした体にメスを入れることはできない」と拒み続けた。
更には、事もあろうに赤ちゃんを連れ帰ろうとしたため、病院側が「ネグレクト」であるとして児童相談所に通告した。そして、児童相談所から大阪地裁へと流れ、赤ちゃんの延命につながった。
宗教とは何か。信仰とは何か。
「だれでも自由だ」という漠然とした無法な環境が、幼き命を脅かし、そして奪っている現実。それは遥か以前から全世界で起きている悲惨な現状である。
宗教や信仰が自由であるとするならば、『少なくともそれと同時に、その親が自分達の子供に対して、それらの宗教や信仰を押し付けることは絶対に許されないという法律』を制定する必要がある。
それでも、押し付けた挙げ句に命を奪った場合は、その両親は「極刑」に処せばいい。それも即日に。単なる子殺しという殺人事件でしかない。そのような気狂い共を生かしておく理由など何もない。
この程度の簡単なこともかんがみることもできずに、法律の制定もできずに、何が「宗教や信仰の自由」とほざいているのか、ということになる。
実にばかげている現実が目の前にある。このようなことでさえ「規定」できなければ、国や行政の存在意味は何もない。実にばかばかしい。

「2006-12-22:追記」
天国(Heaven)と地獄(Hell)という概念。そして、ジョン・レノンとアイルトン・セナ。

世界中に巣くっている宗教(Religion)。ここ日本でも、カルト宗教などを加えるとその数は数万に達する。
その中で、日本人には最も身近な仏教。インドから様々な文化と一緒に伝わってきたとされている。その1つに、仏教とは関係がないのだが、古くからインドの社会に根強く残っている「輪廻転生」という考え方がある。
ほんの少しだけ片手間程度に調べてみたのだが、日本では「仏教」と「その(輪廻転生という)考え方」がごちゃ混ぜになって『認識』されているようだ。つまり、「仏教の教えの中に輪廻転生がある」というふうに。
仏教と言えば、「ブッダ(Buddha/個人名:ゴータマ・シッダッタ、またはガウタマ・シッダールタ)」である。また、ここ日本では「釈迦、または釈尊(釈迦牟尼世尊:しゃかむにせそん)の略」と呼ばれることが多い。
このブッダという人物が、人々に対して『本当に伝えようとしていたこと』が伝わっていなかったり、理解されていないようである。
ブッダ:「この世には『いかに正しく生きるか』というもっと大事なことがある」「汝もまた『信仰を捨て去れ』。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう」という大きく2つのことが伝えられているようだ。
「いかに正しく生きるか」という言葉は、実にストレートでありながら深くて大きな意味が感じられる。そして、次の「汝もまた信仰を捨て去れ」という言葉の意味が最も重要であると言える。「ほかの信仰を捨て去れ」とは言っておらず、「すべての信仰を捨て去れ」と言っているのである。つまり、仏教を含むすべての宗教や信仰を捨て去れと言っているのである。ブッダという人物は、それを『悟った』ということである。それを悟った「1人の人物」ということである。それ以上でも、それ以下でもない。普通の人物の1人である。
しかし、このすべての宗教や信仰は、それを「利用して、富を得ること」を目的とした『詐欺師共』によって歪められているのが現実である。
そして、その「重要な部分」が『なぜか』ほとんどの文献に掲載されていないという不可解な現象が見受けられる。そこには詐欺師共の『悪意』しか存在しない。
その次元とは別に、ここ日本では「輪廻転生」という意味合いから「天国」と「地獄」という概念が生まれ、それが広く伝わってしまったようである。この概念もブッダという人物の悟りの中には存在しないものであり、日本特有のものであることが知られている。
それから、『崇拝』という決してあってはならない「非常に危険な精神の状態」がある。これは、自我がない状態であり、その人物の存在そのものに意味がなくなっている状態である。だれかを『尊敬』することや『敬う』ことが『最上級の状態』でなければならない。それ以上の状態というものは『うそ』であり、非常に危険な状態であると言える。
時々、メディアに登場する『イカレタ気狂いカルト宗教団体』などの映像が流されることがある。あのような光景を見て『吐き気』がしないほうが『異常である』と言える。
つまり、ブッダを崇拝している者達は、崇拝をやめて尊敬に切り替える必要があり、仏教やその信仰を追い求めて生きている者達は、「ブッダの遺言」のように、仏教やその信仰をやめる必要がある。
それは仏教だけではなく、すべての宗教や信仰に共通することである。以前から明記しているように、『その宗教・その信仰・その寺院・その教会』などにしがみついていることをやめなければならない。もし、ブッダという人物を尊敬したり、敬う気持ちがあるのであれば、その人物が言っていることを理解し、実践することこそが、『唯一の本当の行動である』と言える。
単純に「尊敬する人物」を理解し、己の人生や生き方の中で、自分だけのやり方を見つけ出し、そして反映させていくことこそに意味がある。それができて、始めて理解したと言えるだろう。
ほかの項目でも明記しているが、現実の世界では「イラク戦争」の中でもその歪んだ宗教の概念が飛び交っている。アメリカ軍の高官には、「我々アメリカの敵は悪魔(デビル/サタン)である」と公言している者達も存在している。また、「社会のモラル」に関しても「宗教無しではこの世はなかったのだ」と言い張っている輩も存在しているほど、ばかがはびこっている。
私の場合は、何の文献も必要とせず、今から22年以上前にその「認識」を頭の中で組み立てて、「完成」させていた。周りで精神的にふらついている者達から助言を求められると、常に同じようなことを伝えてきた。
「神」という存在にしても、「悟った人物」の存在にしても、そういう「存在」ということでしかない。己にとっては、存在していようがいまいが関係はない。侮辱などの気持ちは毛頭ないが、極端にほかの言い方をすれば、「どうでもいい」と言える。
我々は、生きている。今、この時間が流れている空間を。ただ、それだけである。その中で、「人として正しく生きる」こと、何ものにもゆるがされない「不動のモノ」を手にして生きていくこと。ただ、それだけである。
「国(国益)や宗教のために、人を殺してはいけない。殺されることがあってはいけない」……その思いを音楽に込めて伝え続けたために殺された人物が『ジョン・レノン』である。その当時は、「無政府主義者」「無神論者」という『計算されたレッテル』を政府によってまき散らされていた。その意志は、オノ・ヨーコ夫人も同様である。ほかにもダブポエットミュージシャンやレゲエミュージシャンの中にも同じくその意志を持っている者達が存在する。その中には、ジョン・レノンと同じように政治的な背景によって殺されたミュージシャンも多い。
そして、ジョン・レノンは国際機関が「まやかし」であることも知っていた。よって自らが、「直接」寄付をするという行動で表現していた。どこかの機関や団体に寄付をすると、そのほとんどが現地の人々に届かないということを知っていたのである。
それらのレベルに達していたほかの人物としては、『アイルトン・セナ・ダ・シルバ』が挙げられる。日本で最も愛されていたF1ドライバーのアイルトン・セナである。アイルトン・セナは、神の存在を口にしたり、聖書を読んでいたことは知られているが、宗教なるものを盲目的に信仰していた訳ではない。そこから何かを感じ、学び、生かそうとしていたことを勘違いせずに認識してもらいたい。
多くの人々が行き着いている答えとして、『世界の富をすべての人々で分かち合う』ということがある。それは、『貧困を消滅』させると共に、『争いを消滅』させるという『意志』であり、『思い』である。本当の『平和』と『平等に生きていく権利』を有するために。
それを『理想』という「クソのような単語」で済ませる「輩」は、「生きるという意味を全く理解などしていない」と言い切れる。とっとと消えうせてもらいたい。
この現実の中には、理想という言葉が存在する意味などない。あるのは『意志』だけである。

「2006-12-23:追記」
昨日、早速宗教に関する相談というか質問のメールが届いた。宗教問題も哲学が絡む側面があるため、簡単でもあり、難しくもある。

「信仰」という言葉の意味や使い方についてである。この質問内容に関しても、質問者に了承を得て記述している。
大きく2つの意味合いがあると言える。
前者は構わないが、後者はアウトである。使い方にしても、混乱を避けるという理由から「信仰」という言葉は使わないほうがいいのかもしれない。
宗教団体に属し、勧誘しているクソ共は、『だれかを勧誘する時』に必ずと言っていいほど『信仰』という言葉を使う。「前者」の意味で使うことがほとんどである。しかも「神秘的な意味合いを込めて使用する」場合が多い。
例えば、「何も信仰していないの?」「信仰心を持たない人間はだめですよ」「信仰すると幸せになれますよ」…などである。勧誘する時は、何かを信仰することが「人間にとっては大切である」と言わんばかりの勢いである。それを否定されると「地獄に落ちますよ」というお決まりのコースが待ち構えている。そのように使用されている「天国」や「地獄」というものは存在せず、日本だけで広まった単なる概念でしかないことは昨日明記している。
たとえ存在しているとしても『人として正しく生きていれば何の問題もない』のであり、キリスト教などに見受けられる『懺悔(Confession)』などは大きなお世話なのである。その宗教を広めるための欺まん戦略でしかない。己で己自身の心の在り方を見つめ、反省し、次の日からそれを生かして生きていけばいいだけの話である。そこに「神父」のような『カスの権化』は必要ではない。何ものにも頼らずに、己の心と対話しながら生きていくことが人間の使命である。周りに甘えて生きていくことがどれだけ恥ずかしいことかを思い知る必要がある。
また、キリスト教なるものの教えは前期と後期では全く変わっている部分がある。それは、ほかの要素が絡む問題であるため、ここでは語らないことにするが、「悪意を持った組織の戦略がある」ことだけは知っておいてもらいたい。それから、キリストが生まれただの生まれ変わっただの、マリアが生んだのどうだのと「どうでもいいこと」である。「それがどうした」ということでしかない。それが事実であろうとなかろうと知ったことではない。そのような話(Story)には、何の意味もありはしない。話をもとにもどす。
そして、無理矢理、団体に引き込まれた後の「信仰」という言葉の意味は、「後者」の「崇拝」「盲目的」に変わることは言うまでもない。
誘われて、言われるままにその宗教団体に入ってしまった者達は、その時点で精神力の弱さ、己の信念の定義、物事や他人の分析力などが欠如しているか、著しく衰退している状態にあることを証明している。
そのような人々が、その宗教団体からいざ抜け出そうとする時の労力は、半端ではないくらいに大きな負担と努力が必要になる。もちろん単独での脱退などはほとんどの場合、無理である。
周りのだれかの力添えが必要不可欠になる。もし身近に困っている人々がいる場合は、手助けすることが望まれる。その人物の命を救うことと同様であるという認識を持って、手助けしてほしいと思う。
もう1つ言えることは、この世界に本当に『本物の宗教』なるものがあるとすれば、その姿は唯一こうでなければならない。
それは、その『宗教団体に引き込むことなど決してない』ばかりか、『1人で生きていく精神の意味と人間の姿を教える』ということである。そして、宗教団体やその施設に『決して執着しないことを教える』ということである。
その程度のことも理解していないばか者共が、人々に対して何事かを語れるとでも思っているのか。笑止千万である。
それを悟った人物の存在がかき消されているのが、我々が生きているこのくさり切った現実である。

「2007-01-11:追記」
気狂い宗教法人共が繰り返す犯罪。それに抵抗すらできない人々。

クソッタレの気狂い宗教法人「顕正会」(本部・さいたま市大宮区)が、大学生(20歳)に入会を強要したため、「クソの本部」が家宅捜査を受けている。捜索などが済んだら、このようなクソの建物は即刻燃やしてしまったほうが手っ取り早い。できることであれば、『百害あって一利なし』の会員共々丸焼きが賢明な処置かもしれない。世のため、人のためとは、正にこのことである。
発表によれば、顕正会の会員が男子大学生を無理矢理に入会させたとして、神奈川県警公安1課が「強要容疑」で、この会員の「会社員男性2人」を逮捕した。同会本部や同県小田原市の施設なども家宅捜索している。
調べによると、同県厚木市のゲームセンターで被害者の大学生に声をかけて、小田原市の同会施設に連れて行き、約2時間も無理矢理祈らせるなどして入会させたという。
日本全国で日々行われている『勧誘』という『犯罪』。会員獲得のためであれば、手段を選ばずに…『入会』させてしまう。この宗教法人が、強引な勧誘を組織的に行っていることが追及されている。
逮捕者:神奈川県南足柄市中沼、大川正規(28歳)/同県大井町の少年(19歳)。ほかに、同県小田原市の会員の男(30歳)も同容疑で逮捕状を取り、行方を追っている。
日本国内には、数万規模で存在している宗教法人のことは以前にも記述している。その中でも、暴力団が運営(と呼んでいいのか分からないが)している宗教法人が無数に存在している。「法の手」が遠いということなどがその理由であり、何よりも「資金」が集まることが最たる理由である。
お子ちゃまカルト大魔人も夫婦共々に、日夜拝み倒していることは以前から明記している。この「輩」や国会議員など、宗教法人を擁護している連中は、決まって『心の問題』と言い放つ。
しかし、それは『デタラメ』である。
「心の問題」ではなく、『精神状態の問題』であるのだ。そこを履き違えると後々地獄を経験することになるのである。場合によっては、取り返しがつかなくなる事態を招くこともある。
人間の心とは、その人物の魂に近いものと考えたほうがいい。そこに連結し、外郭に位置している『精神』に問題が発生していることが多くの不幸を発生させているということも認識しなければならない。その部分を理解しない限り、問題の根本的な解決はほど遠いだろう。
先天的なことを除いたそのほかの場合、心の状態は正常に機能している。機能しているからこそ、精神の状態が不安定になるのである。
人は皆、心で様々なことを受け止める。喜怒哀楽…そこに生まれる感情である。喜び、怒り、哀しみ(悲しみ)、楽しさ…。
その中で、『つらさ』というものが発生する。それは、ほとんどの場合が『孤独』である。
その孤独の状態から、何とかして逃れようと思ったり、考えたり、行動を起こすのはごく当たり前と言える。
が、問題なのは己の『コントロール』に関することがとても重要になるということである。
孤独や苦痛から逃れたいという「欲求」が、やがて「欲望」と化し、それが「習慣」となり、そして「執着」という盲目的な「崇拝」を生み出す。
寂しさのあまりに、自制心が効かない、正常な判断ができない……などの問題が発生する。その部分を目ざとくかぎ分けて、そしてココぞとばかりに付け込んでくるのが『クソッタレの宗教』という『クソ概念』と、そこでうごめく「気狂い共」なのである。
「宗教は心の問題」と豪語する気狂い共。それに踊らされる被害者達。ある者は、今回の事件のように無理矢理に入会させられている。勧誘している側も、大人しそうな人物やふさぎ込んでいそうな人物、内向的で優しそうな人物などを「ターゲットの1つ」にしている。
どんなに『不安』でも、どんなに『孤独』でも、「外敵から自分を守るのは、自分自身しかいない」ということを頭と心にたたき込んで生きていくことが最低条件の1つである。
人間は、正常な道からはずれた様々な「外敵」に対して、『抵抗』しなければならない。それは、己に対する『責務』でもある。

Status:2005-01-10〜作成

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