高倉健主演 北大路欣也共演 森谷司郎監督作品。
明治34年10月、日露戦争の為、対ロシアに向けた耐寒訓練、そして青森の非常時交通網の確認のため、冬の八甲田山行軍を第31連隊と第5連隊が行う事になった。
31連隊を率いる徳島大尉中隊長と5連隊を率いる神田中隊長は情報を集め、交換し、準備に取り組み始めた。
だが、徳島大尉が提案したのは、危険ゆえに中止を求めるものだった。
しかし上官は退け、行軍計画は続行。その話を聞きつけた神田の上官は、張り合うように神田に命令した。
明治35年1月20日、31連隊の行軍が開始された。案内は小国村の相馬村長が務めた。
1月23日、第5連隊も出発。100名以上での行軍だった。途中、立ち寄った村の村長が好意で案内を申し出たが、大隊長がそれを断ってしまう。
一方、31連隊も猛吹雪の中、大隊長が無茶な行軍を推し進めていた。
大隊長に指揮権を奪われてしまった神田だが、宿泊地である田代温泉を目指し、吹雪の中をひたすら進む。だが迷い、やむなく野営する事になった。
1月24日午前0時、5連隊大隊長は神田に中止と帰営を命じ、凍死者も出てしまい帰路を辿ろうとするが、田代温泉への道を見つけ、そちらへ向かう事にする。
だが、温泉は見つからず、帰営を決断する。そして帰路を辿るが、次々と脱落者が出ていく。
その頃、31連隊は案内人と天候に恵まれ、順調に進んでいた。
5連隊はまたも野宿を決断。判断力の低下した神田は、徳島との合流に望みを賭けた。
翌日、道に迷う5連隊は度重なる荒天に襲われ、神田の部屋住みである長谷部まで死んでしまう。31連隊の長谷部の兄も、弟の死を感じ取った。
神田は倉田に支えられながら、疲労の大隊長に代わり、指揮を執る。
一方、予定通り合流地点に辿り着いた31連隊。徳島は、遅れる神田を心配した。
神田は道に迷った末、ついに帰路を見つけ、村民に救援を求めるため、部下を見送る。
その頃、31連隊司令部は、行軍中止を決断するものの、それを徳島に伝える術がなかった。
1月27日、雪崩が発生し、5連隊は行方不明になる。神田の部下は救援にやってきた兵に見つけてもらい、上に報告。司令部はすぐさま捜索の手配を行う。
一方、中止も知らず八甲田山に突入した徳島隊は、長谷部(弟)の死体を発見し、兄は涙に暮れる。そして八甲田山の一気踏破に臨んだ。
だが、徳島はそこで、神田の亡骸を発見した。
29日午前2時、集落に辿り着いた徳島は、神田、長谷部の遺体を報告するが、神田の遺体は既に、救援隊によって発見、回収されていた。徳島はあれは幻、神田の魂だったと気付き、棺に納められた神田の遺体に涙した。
5連隊で生還した倉田や山田は上官に無謀な行軍を謝罪。31連隊が踏破に成功した事を知り、責任を感じた山田は、自室にて拳銃自殺した。
1977年、日本の東宝作品です。
この作品の撮影のために3年という長い月日を掛けた事はあまりにも有名で、それだけ高倉健さんが力を入れていた作品だという事が映像からも伝わってきます。
また、この頃の高倉さんは専念するため仕事を一つに絞り、CMなど他の仕事が無かったため、初めて買ったマンションやベンツを処分されたことを、NHKのインタビューで明かしておりました。そして京都の土地の処分も、最期の手記に記されておりました。もしかすると、割とCMに出演なさったのは、この経験があったからかもしれません。というのも、独立すると個人事務所なわけですから、スタッフは皆高倉さんの収入が無ければ、高倉さんが仕事をしなければ自分達の収入もないわけですから、九州福岡出身の長男である高倉さんには、付いてくるスタッフ達の面倒を見てやれない事は大変心苦しかったのではと推察します。
クライマックスシーンで、目をつぶっている北大路さんは、間近に居ながら、高倉さんの演技を観れなかったそうです。試写の時に初めてご覧になられて、いたく感動されたそうですが、武田鉄矢さんによると、同じ絵に映るわけでもない北大路さんが、居なくてもいいはずなのに敢えて居てくれた事に、高倉さんは感動して、より演技を良いものにされたそうです。
このあたりから、高倉健伝説が生まれてくるわけです。というのも、極寒の中、高倉健、北大路欣也を含め、多くの俳優が豪雪の中、待機させられています。当然方々から弱音が漏れてくる中で、高倉さんは弱音や愚痴をこぼさず、自分の隊の結束を高め、ストレスを溜めないよう、自らへの特別扱いを排除し、撮影場所への移動も一緒に行い、伝え聞く北大路隊も耐える事にしたそうです。