八戸市
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新田城 |
新田城跡碑。 |
【所在地】 |
八戸市新井田字館平
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【別称】 |
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【築城年】 |
建武年間(1334-36)頃か |
【築城者】 |
南部(新田)政持 |
【城主変遷】 |
南部(八戸)氏[新田氏](-1627) |
【廃城年】 |
寛政四年(1627) |
【現状】 |
新田八幡宮、新井田小学校 |
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建武元年(1334)南部師行が根城を築き本拠としたが、その後間もない頃に孫の政持が築いたとされる。一説によるとまず北方の新井田古館に入り、その後新田城に移ったともいう。以来新田氏を称し、根城南部(八戸)氏の重臣として活躍した。
天正十八年(1590)宗家である三戸南部氏26代信直が小田原城征伐に参陣し、所領安堵の朱印状を受けると、根城南部氏はその家臣に位置付けられ、寛永四年(1627)には信直の子で盛岡藩2代藩主の利直により閉伊郡横田城へと移封される。新田氏12代義実もそれに随行し、新田城も廃城となった。
下って明和三年(1766)八戸藩6代藩主信依により、隠居した信興の御殿が築かれている。
本丸と外館の2つの郭からなっており、本丸の規模は東西150m、南北130mで現在は新田八幡宮、二の丸に当たる外館は現在新井田小学校敷地となっている。本丸、外館の間に一部堀が残る。 |
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根城 |
根城跡碑。 |
【所在地】 |
八戸市根城
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【別称】 |
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【築城年】 |
(鎌倉時代)、建武元年(1334) |
【築城者】 |
(工藤氏)、南部師行 |
【城主変遷】 |
南部(八戸)氏(1334-1590)−南部氏[八戸氏](1590-1627) |
【廃城年】 |
寛永四年(1627) |
【現状】 |
根城の広場、八戸市博物館 |
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国指定史跡。日本100名城の一。
建武元年(1334)陸奥国司北畠顕家の国司代として南部師行が当地に下向し築城したとされる。しかし本丸跡からは師行入部前のものとみられる建物跡も検出されており、鎌倉時代に築かれた北条氏の地頭代、工藤三郎兵衛尉の居館跡を利用して築城したものと考えられている。
根城南部氏は、南部氏初代光行の三男実長を祖とし、4代師行の時代に大きく勢力を伸ばした。元弘三年(正慶二・1333)北畠顕家が義良親王を奉じて奥州へ下向した際に国司代として同行、翌年糠部郡八森(八戸)に城を築き、南朝方の根本となる城という意味から根城と名付けたという。明徳四年(1393)には根城南部氏8代政光が甲斐国の本領を去って糠部郡を本拠地と定め勢力を拡大、その頃から八戸氏を称したとされる(13代政経の頃とも)。以降閉伊、久慈、鹿角、比内、津軽郡などにも大きく勢力を拡大したが、天正十八年(1590)18代政義(政栄)の頃、宗家である三戸南部氏26代信直が豊臣秀吉より朱印状を受けてからはその家臣と位置付けられる。そして元和四年(1618)盛岡藩2代藩主南部利直より「知行宛行目録」を与えられ、完全に家臣である事を明文化された。
そして寛永四年(1627)、利直により八戸氏22代直義(直秀?)が閉伊郡横田城への所替を命ぜられる。その理由は、仙台藩主伊達氏の侵攻、そして旧領主和賀氏家臣たちの叛乱に備えるためというものだったが、海に開けた八戸の地を直支配地としたい利直の野心もあったという。以降八戸氏は、遠野南部氏として鍋倉城1万2500石を領し、明治維新を迎えることとなった。
本丸、中館、東善寺館、岡前館、沢里館などから構成され、土塁、堀などによって区画されている。現在は「根城の広場」として整備されており、本丸内の主殿などが復元され、また八戸市博物館と東善寺館の間には八戸城東門が移築されている。この八戸城東門はもともと根城にあったものが八戸城に移されたと伝承され、安政六年(1857)大風で倒れたのち家臣である木幡氏の門として建て替えられていたという。 |
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八戸城 |
八戸城跡碑。 |
【所在地】 |
八戸市内丸1
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【別称】 |
中館 |
【築城年】 |
建武年間(1334-36)頃、寛永四年(1627)頃 |
【築城者】 |
南部信助、南部利直ら |
【城主変遷】 |
南部(八戸)氏(-1627)−南部氏(1627-64)−南部氏(9代・1664-1869) |
【廃城年】 |
明治六年(1873)か |
【現状】 |
三八城神社、三八城公園 |
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建武元年(1334)南部師行が根城を築き本拠としたが、その後間もない頃に孫の信助が築いた中館がこの城に当り、八戸城の起源であろうと考えられている
根城南部氏は8代政光より八戸氏を称し、一時は宗家である三戸南部氏を超えるほどの勢力を有した。しかし天正十八年(1590)三戸南部信直が豊臣秀吉より糠部七郡領有の朱印を受けた後は宗家の支配が強まり、信直の子の2代藩主利直によって寛永四年(1627)閉伊郡横田城へ移封されてしまう。
利直は八戸を直支配地とすると、自ら縄張をして城と城下を普請、整備し、現在の八戸市街の原型を築いた。しかし本格的な整備は八戸藩が成立した後である。八戸藩の成立は、盛岡城に移った盛岡藩3代藩主南部重直が、寛文四年(1664)後嗣の手続き不備のまま逝去し、南部氏断絶の危機が生じたことがきっかけであった。しかし幕府は、南部氏は鎌倉時代より続く甲斐源氏の名家であり、また2代利直の忠功浅からざるものがあるということから家名の存続を許し、重直の遺領10万石のうち弟七戸隼人重信に盛岡8万石、中里数馬直房に八戸2万石をそれぞれ分け与え、重吉に盛岡藩を継がせ、直房に八戸藩を立藩させたのである。従って八戸藩と盛岡藩は本藩、支藩という関係ではない。
直房は寛文六年(1666)に八戸城に入城、以降八戸南部氏は幕府5代将軍徳川綱吉の側仕えに取り立てられ、福島藩5万石を与えられながら固辞した2代藩主直政など名君を輩出し、9代信順の代に明治維新を迎えた。八戸藩は表高2万石に対して実高4万石と裕福な藩で、「相良に小南部」と俗言されたという。
明治2年(1869)版籍奉還により八戸城は政府の管理下に置かれたが、後に子爵南部利克の所有となり、同11年県社三八城神社が創建された。往時は二重の堀などが巡らされた平城だったが、現在は八戸市街地の中心部に当たるため面影はあまりみられない。しかし大手前には八戸藩御者頭・煙山治部右衛門が寛政九年(1797)に建てた角御殿表門(古桜門)が残っている。 |
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【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「歴史街道スペシャル
名城を歩く6 弘前城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく23
弘前城・盛岡城」(小学館2004) |
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