盛岡市
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嫗戸柵 |
嫗戸柵(厨川城)空堀跡。 |
【所在地】 |
盛岡市安倍館町
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【別称】 |
安倍館、厨川城、栗谷川城 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
安倍氏 |
【城主変遷】 |
安倍氏…清原氏…藤原氏[樋爪氏]…工藤(栗谷川)氏…南部氏[工藤(栗谷川)氏]… |
【廃城年】 |
天正二十年(1592) |
【現状】 |
厨川八幡宮、あべたて保育園、宅地 |
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長い間この地は厨川柵と擬定されていたが、現在は嫗戸柵という見解が強い。康平五年(1062)に滅亡した安倍氏の柵跡であり、厨川柵と共に最後の拠点として利用された。
安倍氏滅亡後は、源頼朝より当地の地頭に任ぜられた工藤小次郎行光の居城厨川城として存続した。その後工藤氏は支城として不来方城を築いたが、いつしかこれに居城を移したとされる。しかし元弘二年(正慶元・1332)、工藤光家の代に南部伊予守信長との合戦に敗れ、以後南部氏に従属した。なお不来方城には南部氏の郡代福士伊予守入道慶善が置かれたため、工藤氏は再び厨川城へと移り、以後は栗谷川氏を称した。天正年間(1573-92)には南部氏家臣として栗谷川仁右衛門(または兵部少輔)、栗谷川刑部といった名が見える。
その後天正二十年(1592)、『南部諸城書上』に“厨川・平城
破却、工藤兵部少輔持分”とあり、廃城となり破却されたことが判る。
北上川を東端とする河岸段丘上に築かれ、本丸を中央にして北に北館、外館、勾当館、南に中館、南館と郭が連なっていたという。各郭は幅約10〜20m、深さ約1〜8mほどの堀によって画されており、特に本丸西辺は幅約23m、深さ約12mほどにもなる。
現在八幡神社の鎮座する本丸は最大の規模を有し、東西110m、南北80mの規模を持つ。
出張で岩手県に訪問した際に立ち寄りましたが、それ以来なので正直なところ記憶がかなり曖昧です(^-^;
道路を挟んだ付近のコンビニ?で急遽写ルンですを購入し、写真撮影したのを覚えています。出張している時、まだ仕事の比重が高かった頃ですねー←誤解を招く書き方 |
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厨川柵 |
厨川柵跡解説板(天昌寺)。 |
【所在地】 |
盛岡市天昌寺町
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
安倍氏 |
【城主変遷】 |
安倍氏…清原氏…藤原氏[樋爪氏]…工藤(栗谷川)氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
天昌寺 |
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平安時代、陸奥国の俘囚の長として勢力を拡大した安倍一族が、前九年合戦の際に最後の拠点とした柵であった。柵主は安倍貞任であり、厨川次郎を称した。
安倍一族は衣川柵を中心に、奥六郡(磐井、江刺、胆沢の胆沢三郡、和我、稗縫、斯波の志波三郡)各所に柵を構え、朝廷に対して半ば独立した勢力を有していた。国府をも凌ぐ軍事力を有していた安倍氏だったが、当主安倍頼良はあくまでも朝廷に恭順の意を示していた。
しかし永承六年(1051)、陸奥守として国府多賀城にあった藤原登任は、安倍氏が朝廷への貢租を怠っているとし、出羽国秋田城介平重成の助勢を得て安倍氏討伐の軍を起こした。なおこの合戦の原因は、安倍氏が衣川柵を越えて勢力拡大を図ったためとも、登任が陸奥守任期中に安倍氏の持つ莫大な黄金を手にしようとした私欲であったともいわれている。両軍勢は鬼切部(宮城県鳴子町)で交戦となるが、結果は安倍氏の圧勝に終わり、登任は更迭されて都へと帰った。この合戦は国府側から仕掛けられたものではあったが、安倍氏の抵抗は朝廷への反抗と見なされ、朝廷は頼良追討の命を下すこととなった。そこで翌永承七年(1052)、陸奥守に源氏の棟梁である源頼義が着任し、安倍氏討伐の軍を起こすところであったが、朝廷で大赦が布告されたため頼良も赦免となった。
罪を赦された頼良は、国府に赴いた源頼義を饗応し、さらに名前が同音であることを憚って頼時と改名するなど、再び恭順の意を表した。その後も、頼時は国府にひたすらに従い、頼義任期中は平穏に過ぎて行った。
しかし、源氏の家格向上、さらに陸奥国に領土的野心を持つ頼義は、平穏のまま任期を終え、功を挙げずに都へ帰還することは出来ず、天喜四年(1056)の阿久利川事件を発端に安倍氏討伐の軍を起こした。
この阿久利川事件とは、頼義配下の陸奥権守藤原光貞、元貞兄弟が阿久利川河畔に野営中、安倍頼時嫡男貞任の私怨によって夜討を受けた。頼義は大いに怒り、その真相も確認しないまま貞任を処罰すべく出頭を命じたところ、頼時が“世には人倫というものがあり、貞任がいかに愚かであろうが親として息子を見捨てることは出来ない”として拒否したというものであった。
なおこの事件は頼義の謀略とも、光貞らの父藤原説貞の謀略ともいわれている。
安倍一族を攻める国府軍の陣中には、伊具郡司または多賀城に勤務する在庁官人であったともいわれる伊具十郎平永衡と、在庁官人であった亘理権大夫藤原経清が従っていたが、ともに安倍頼時の女婿であったことから去就を疑われていた。そこで永衡がきらびやかな銀の兜を着けていたため、これは安倍勢へ自身の位置を知らせるためとの讒言を受け、これを信じた頼義によって粛清された。経清は同じ立場である自身にも累が及ぶと考え、安倍勢が国府を急襲したとの虚報を流し、頼義が多賀城へと向かった隙を衝いて安倍勢へと合流を果たした。この経清の安倍一族への帰属がさらに戦を長引かせる一因となっている。
翌年、戦況の打開を図る頼義は、津軽の俘囚の長であり頼時の従兄弟であった安倍富忠を調略、味方に引き入れることに成功した。国府勢、津軽勢に挟撃を受けることを恐れた頼時は、富忠らを説得するべく自ら津軽へと向かうが、途中仁土呂志辺で富忠の伏兵による奇襲に遭って深手を負い、鳥海柵で命を落としてしまう。しかし当主を失った安倍一族ではあったが、跡を継いだ嫡男貞任、三男宗任や藤原経清らの結束により頑強に抵抗、逆に黄海合戦では国府勢を散々に打ち負かし、頼時、義家父子以下七騎ばかりが雑兵に身をやつして戦線を離脱するといった事態であった。
鬼切部、黄海合戦の大敗で国府軍は兵員の補充もままならず、頼義は暫しの間関東以南の武士に働きかけを行うなど、兵力の増強に努めねばならなかった。康平五年(1059)には後任の陸奥守高階経重が着任するも、郡司らが経重ではなく頼義に従ったため、再び頼義が陸奥守に任ぜられている。そして同年、今まで中立を保っていた出羽国の俘囚の長清原光頼が、頼義の再三に渡る要請に応え、弟清原武則率いる軍勢を国府軍に合流させた。
清原氏の参戦によって形勢は大きく国府軍側に傾き、安倍一族は緒戦の小松柵合戦をはじめとして次々と柵を破られていった。そして遂に最後の拠点である厨川、嫗戸柵も陥落し、当主貞任は討死、宗任、経清らは捕らえられ、安倍一族は滅亡した。
なお宗任は都へ連行された後に伊予、次いで筑前国へと配流となり、子孫は在地の豪族に仕えたとされる。また、この合戦で頼義が大いに苦戦する要因であった経清は、頼義の恨みも殊のほか深く、苦痛が長引く様にわざと刃先を鈍らせた刀で鋸引による斬首となったという。
その後奥六郡は清原氏の所領となり、その後永保三年(1083)の後三年の役を経て藤原清衡の支配下となる。清衡は平泉を本拠に定め、以後3代に渡り奥州藤原氏として栄華を誇った。岩手郡は奥州藤原氏一族樋爪氏が所領したと見られるが、その藤原氏も文治五年(1189)源頼朝の奥州合戦により滅亡する。
頼朝は安倍氏を追討した頼義の先例に倣って厨川を訪れ、功のあった鎌倉御家人工藤小次郎行光を当地の地頭職に任じた。工藤氏は以後栗谷川氏を称し、嫗戸柵跡に厨川城を築いて勢力を拡大する。しかし南北朝時代に北朝方に与して戦い、南朝方であった三戸城主南部氏に屈し、以降は南部氏家臣団に組み込まれていった。なお厨川城は天正二十年(1592)に破却されている。
現在の天昌寺付近が厨川柵の中核部とされていますが、宅地、農地化や河川の流路の変化などで未確定の様で、発掘調査も度々行われている様ですが安倍氏の柵跡とする確証はないそうです。厨川柵、嫗戸柵の疑定地は至近にあり、また安倍氏時代のものと推定される遺物が別の遺跡から検出されるなど、位置や範囲はまだまだ今後の研究が必要みたいですねー。 |
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志波城 |
志波城跡復元外郭南門。 |
【所在地】 |
盛岡市下太田方八町
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【別称】 |
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【築城年】 |
延暦二十二年(803) |
【築城者】 |
坂上田村麻呂 |
【城主変遷】 |
大和朝廷(803-811) |
【廃城年】 |
弘仁二年(811) |
【現状】 |
志波城古代公園 |
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延暦二十二年(803)胆沢城の鎮守府にあった征夷大将軍坂上田村麻呂によって、和我、稗縫、斯波三郡を統治し、出羽国秋田城、雄勝城への重要な連絡路として築かれた、陸奥国最北端の古代城柵官衙である。
なお志波城跡であることが判明する以前は、康平五年(1062)源頼義、義家父子が厨川柵、嫗戸柵を攻めた際の陣場跡と考えられていた。
当地は先住の蝦夷たちが居住する肥沃な地ではあったが、反面河道の定まらない雫石川に面していたため氾濫に悩まされ続けていた。そのため設置後僅か10年足らずの弘仁二年(811)、田村麻呂は徳丹城を築いて移り、志波城はその役割を終えたとされる。
外周約840m四方の築地塀に囲まれており、さらにその外周を約930m四方の堀で囲んだ、国府多賀城に匹敵する巨大な城柵であった。城内中央部に一辺150mの築地に囲まれた政庁が置かれ、その南北の門からはそれぞれ幅18mの大路が外郭まで延び、外郭南、北門は壮大な八脚門であったことが判る。
現在は志波城古代公園として整備され、正門の外郭南門と南面する築地塀、政庁跡に通じる南大路が復元されています。
出張で岩手県を訪問していた際、車でのほほんと県道を車で走行していたら、目の前に外郭南門がばばーんっ!と現れたのでびっくり且つ感動したのを覚えています。昼間にスーツ姿で浮かれながら公園内を写真撮影しながら走り回る(当時は)ヤングなサラリーマン…今考えると非常に滑稽な様であったものでしょう(-_-; |
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玉山館 |
玉山館跡石碑。 |
【所在地】 |
盛岡市玉山区玉山舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
斯波氏[川村氏]…南部氏[玉山氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地 |
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築城時期は不明、築城者は川村(河村)氏と考えられている。
川村氏は藤原秀郷の流れを汲み、相模国河村郷にあった。文治五年(1589)川村四郎秀清が源頼朝に従い奥州合戦で功を挙げ、紫波、岩手郡内の数郷を与えられる。初めは高水寺城主斯波氏に仕えるが、後に南下政策を取る三戸城主南部氏に従属した。その後、秀清の一族川村小三郎直秀が玉山館に居館し、南部信直の代には玉山氏を称していたとされる。なお直秀の孫娘は南部氏29代重信に嫁し、30代行信の母となっている。
姫神山から延びる丘陵先端部に位置し、丘陵南端に東西70m、南北110mmの大館、堀を隔ててその北側に東西25m、南北40mの小館あり、それぞれの郭には帯郭が巡らされている。また小館の東側から幅6m、深さ7mの大堀が北東へと延びており、水を引いたと伝えられている。
現在は耕作地となっており、入口に石碑、解説板が建てられています。かなりの規模を有していた様ですが、ここを訪問したのは二戸市大平球場→東山町東山球場への移動途中だったので、詳しくは見学することが出来ませんでした。野球観戦にかこつけての遠征がほとんどなので、城攻めの機会も同時進行ってのが一番の問題ですね(^-^; |
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盛岡城 |
盛岡城移築現存裏門(報恩寺)。 |
【所在地】 |
盛岡市内丸
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【別称】 |
不来方城(不来方北館(福士館、慶善館)、不来方南館(淡路館))、迂志方城、森岡(森ヶ岡)城 |
【築城年】 |
康平五年(1062)、文禄二年(1593) |
【築城者】 |
清原武則、橘頼貞、工藤氏、福士氏、南部信直 |
【城主変遷】 |
清原氏[橘氏]…工藤氏−南部氏[福士氏]−南部氏(15代・1593-1868) |
【廃城年】 |
存城 |
【現状】 |
岩手公園、市街地 |
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国指定史跡。日本100名城の一。
古くは不来方と言われたこの地に、初めて城館が築かれた年代は明らかでないが、康平五年(1062)源頼義、義家父子が厨川柵、嫗戸柵に籠もる安倍一族を滅ぼした前九年合戦の後、源氏に与した清原武則、もしくはその甥の橘(志万(方)、逆(迂、宇)志方(万)、越方)太郎貞頼が初めて築城したと伝えられている。
安倍氏の滅亡後、その勢力範囲であった奥六郡(磐井、江刺、胆沢の胆沢三郡、和我、稗縫、斯波の志波三郡)は清原氏の支配下となったが、永保三年(1083)の後三年合戦後、安倍氏の血を引く藤原清衡の支配するところとなった。その後清衡以降3代に渡り奥州藤原氏として栄華を誇ったが、その藤原氏も文治五年(1189)源頼朝の奥州合戦により滅亡した。
頼朝は奥州合戦で功のあった工藤小次郎行光を当地の地頭に任じ、工藤氏は厨川城、次いでこの不来方城を本拠とした。しかし元弘二年(正慶元・1332)光家の代に南部伊予守信長との合戦に敗れて以降南部氏に従属、不来方城には南部氏の郡代として福士伊予守入道慶善が置かれたため、再び厨川城へと移った。
その後は紫波郡の斯波氏に対する備えとして、福士、日戸、米内氏らが不来方北館(福士館、慶善館)、不来方南館(淡路館)にあったという。
南部氏は甲斐源氏の流れを汲み、新羅三郎源義光から5代目の光行が甲斐国巨摩郡南部郷を与えられ、それを称したのが始まりである。
光行は奥州合戦の功で源頼朝より糠部五郡を与えられ、承久元年(1219)奥州へ下向して三戸城を築き、以降領内各所に一族を配して支配を強化した。その後鎌倉時代末から室町時代にかけて徐々に勢力を南下させ、戦国時代の当主南部晴政の代には岩手、紫波郡まで支配領域を拡大した。さらに安東氏を攻略して津軽地方へも進出、陸奥国北部に“三日月の
丸くなるまで南部領”といわれるほどの広大な勢力を築き上げた。
しかし、広大な領国は次第に独立性の強い一族が割拠するようになり、また元亀二年(1571)には晴政の継嗣問題に乗じて大浦為信が叛旗を翻すなど、その支配力は徐々に衰えを見せる。天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で南部信直は所領安堵の朱印状を得るが、津軽郡は機先を制して秀吉に接近した為信に奪われ、また翌年にはかねてより信直の家督継承を不服としていた一族の重鎮、九戸政実による叛乱が勃発した。この叛乱に対して信直は自力での鎮圧が出来ず、秀吉に救援を仰ぎ、その援軍を得て勝利を得るといった有様だった。
叛乱平定後、信直は政実の居城九戸城を福岡城と改めて居城を移すが、文禄二年(1593)には不来方城の地に新城を造営し移転を計画した。これは九戸の乱平定後に加増された岩手、紫波、稗貫三郡を加えると、従来の三戸城、福岡城の地では北に偏しているとした浅野長政、蒲生氏郷の勧めがあったという。
同年新城の着工に移るが、領内の浪人による叛乱で中断、慶長二年(1597)再開された。同四年、信直は新城の完成を見ることなく福岡城で没し、その後の普請はは嫡男利直が継承した。さらに途中関ヶ原合戦や大坂の陣などによる中断を挟みながら、元和年間(1615-24)一応の完成をみて福岡城より居城を移し、利直は地名を不来方から“宝の珠の盛る岡”“盛り上がり栄える岡”の意を込めて盛岡と改めた。
一通りの完成を見た盛岡城だったが、その後も度々中津川、北上川の氾濫に悩まされ、利直はかつて斯波氏の居城であった高水寺城を修築した郡山城へと移るなどの困難がなおも続いた。そして遂に完成に至ったのは、工事着工より約40年後、利直の子重直の代の寛永十年(1633)であった。しかし翌年には落雷による失火で本丸を焼失、再度重直は郡山城へと移り、修復の済んだ翌年に再び盛岡城へ戻っている。
以降盛岡城は江戸時代を通じて盛岡藩主南部氏15代の居城となり明治維新を迎えた。慶応四年(1868)の戊辰戦争に於いて、15代藩主利恭は奥羽越列藩同盟に加わって西軍に抗したため、翌明治二年(1689)13万石に減封の上白石城へと移封となったが、罰金70万両を明治新政府に納める条件で盛岡復帰を認められている。しかし藩内の疲弊激しく、財政も困難であったため、全国の諸藩に先立って廃藩を願い出て藩政の幕を閉じた。
なお盛岡城は、南部氏の白石移封に伴い秋田藩、次いで松代、松本両藩の預かりとなった。南部氏が復した後、明治六年(1873)存城と決定したが、翌年陸軍省によって天守以下建造物を払い下げられ、建造物はことごとく破却された。存城であるにもかかわらず取り壊されたのは、戊辰戦争での新政府に対する敵対行為があったためと考えられている。
明治二十三年(1890)城地は旧藩主南部氏に払い下げられ、その後岩手県が貸与を受けて同三十九年(1906)岩手公園として整備された。さらに昭和九年(1934)公園は県より盛岡市に移管となり、同十二年(1937)盛岡城跡として史跡指定を受け、現在も市民の憩いの地となっている。
本丸、二の丸、三の丸、北郭、東郭、本丸腰郭、居館のといった郭を連ねた連郭式城郭で、北上川、中津川を外堀として利用、各郭間は内堀、石垣で画されていた。創建当初は本丸東南に三層の天守があったが火災により焼失、延宝元年(1673)再建されている。明治初期の取り壊しで建造物はほとんど残っておらず、平成五年に市内より城内に移築された土蔵、及び市内報恩寺に移築された門のみが残る。しかし本丸、二の丸の一部には自然石を用いた築城当初の石垣が残り、二の丸西側には貞享三年(1686)に積まれた切石の高石垣が残るなど、東北地方にはあまり見られない石垣造りの城郭として往時の姿を伝えている。
“盛岡城”と銘打っていながら、最大の見どころである高石垣を載せず、報恩寺に残る確証のない現存門を載せているスットコドッコイなサイトはウチくらいでしょうね…(^-^;
盛岡城へは数回訪問しているのですが、何れも仕事の合間にふらふらと立ち寄った程度で、写真を撮っているヒマなどなかったのです(出張の比重がまだ仕事に傾いていた頃)。岩手県に出張する時は総じて青森、秋田県3県に跨っての5日間でしたので、さすがに主要都市間のセールスと移動で手一杯だったんですよねー。なにせこの出張エリアは北海道を除くと面積にして日本最大の県と同5位、7位の県ですし、出発地である同2位の福島県と北東北3県の間には同8、15位があるモンで…。
さらに岩手県でのベイスターズ戦開催がないのでなかなか行く機会を得られない…盛岡城の高石垣をもう一度この目で見る機会は訪れるのであろうか? |
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【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「津軽諸城の研究」(伊吉書院1981)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「歴史街道スペシャル
名城を歩く6 弘前城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく23
弘前城・盛岡城」(小学館2004) |
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