二戸市
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金田一城 |
金田一城主郭部(上館)跡のベコ石。 |
【所在地】 |
二戸市金田一舘
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【別称】 |
四戸城 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
四戸氏か |
【城主変遷】 |
南部氏[四戸氏、大光寺氏、切田氏、金田一氏、中野氏ら]… |
【廃城年】 |
慶長年間(1596-1615)か |
【現状】 |
耕作地 |
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南部氏一族四戸氏の居城であるが、築城時期、築城者は明確でない。
四戸氏は、南部氏初代光行四男孫四郎宗朝を祖とし、以降代々金田一城に居住したとされるが、四戸の地は現在の青森県浅水と考えられており、浅水より金田一へと移住したともいわれている。
戦国時代末期には九戸城主九戸氏の勢力が金田一まで及んでいたと考えられており、金田一城主四戸宗春(宗泰)は九戸左近将監政実の叔母を室に迎え、また妹は政実の室に入るなど、深い繋がりを持っていた。しかし天正元年(1573)、政実が主家である三戸城主南部氏に対して叛すると、宗春は出羽国秋田へと逃亡し同地で病死したという。なお天正十九年(1590)の九戸の乱の前に、宗春の嫡子宗元が弟金次郎の讒言により秋田へ逃亡し病死した、という良く似た話も伝わり、詳細は判然としない。
南部氏の支配下となった後は、南部信直により大光寺左衛門が城代に任ぜられている。しかし金田一城を構成する上館には天正年間(1573-92)切田小太郎が十和田気田館より移住、また下館には四戸氏一族金田一氏(信直家臣武田彦三郎の子が金田一氏を称したとも)が居館したともいわれており、当時緊迫していた九戸氏に対する拠点として当地が重視されていたことが判る。事実天正十九年(1590)の九戸の乱の際には金田一城も南部勢の拠点の一となっており、切田氏、金田一氏は共に討伐軍に加わっている。
なお九戸の乱が終息した後、慶長年間(1596-1615)には四戸氏一族中野氏が居城したとされるが、乱後間もなく廃城になったものと思われる。
馬淵川左岸、南北に伸びた比高約5〜10mの段丘をそれぞれ空堀で仕切った、上館、中館、下館の三郭を総称したのが金田一城である。三郭の最も南側、最大の規模を持つ東西約100m、南北約250mの郭が主郭となる上館であり、この上館を指して四戸城ともいわれる。
現在は畑地となっており、城跡東側に所在する長寿寺の墓地から脇道を西へ進むと、ベコ石と呼ばれる4mほどの巨石があります。その平場が主郭となる上館となります。…が正直良く覚えておりません(^-^;
金田一城を訪問したのは恐らく野球観戦とは別の時、仕事で北東北3県を担当していた頃だったと思いますが、何れにせよ純粋な城攻めではないですな…。 |
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九戸城 |
九戸城跡石垣、空堀。 |
【所在地】 |
二戸市福岡字城ノ内、字松の丸
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【別称】 |
福岡城、宮野城、白鳥城 |
【築城年】 |
明応年間(1492-1501) |
【築城者】 |
九戸光政 |
【城主変遷】 |
南部氏[九戸氏]−南部氏(1590-1636) |
【廃城年】 |
寛永十三年(1363) |
【現状】 |
国指定史跡 |
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明応年間(1492-1501)に九戸光政が築城し、糠部郡大名館より移住したのが始まりとされるが、永禄十一年(1568)鹿角郡を巡る合戦で功を挙げた九戸政実が、南部晴政より二戸郡福岡を与えられて築城、移住したのが起源ともいわれる。また白鳥城という別称から、安倍頼時の子則任が築城したとする説もあるが、裏付けが無く根拠が乏しい。
九戸氏は鎌倉時代初頭、南部氏初代光行の五男行連が父より糠部郡九戸を給されたのが始まりで、南部氏の庶流とされるのが一般的である。しかし菩提寺長興寺の位牌や九戸神社の資料によると、建武の新政以降に九戸郡を領した結城親朝家臣、小笠原政康の子孫ともいわれており、現在は後者の方が妥当であると考えられている。
九戸城を築城したとされる光政の時代から勢力拡大が顕著になり、久慈、姉帯、金田一、浄法寺氏ら近隣諸族と姻戚関係を重ね、また不来方城主福士氏、高水寺城主斯波氏とも婚姻関係を結ぶなどし、光政の4代孫左近将監政実の代には主家である三戸城主南部氏に比肩する勢力となっていた。
武勇に優れた政実は自他共に認める南部家中の実力者であり、その政実の南部氏に対する叛意は、南部宗家の継嗣問題が発端であった。宗家24代晴政は男子に恵まれず、叔父の津軽郡石川城主石川高信の子、田子九郎信直に長女を娶せ世嗣と定めていた。しかし晴政の次女は政実の弟実親に嫁しており、政実は強く実親を推していたのである。その後晴政に実子晴継が誕生すると、当然晴政の推す晴継が南部氏の後継者と決定し、信直は相続を辞退することとなった。しかし継嗣問題はこれで収まることはなく、天正十年(1582、諸説あり)晴政が死去すると、25代を相続した晴継も直後に病死(葬儀直後に暗殺とも)したため、問題が再燃したのである。家督は再び八戸南部政栄、北信愛ら重臣が推す田子信直と、九戸政実が推す弟実親の間で争われた。しかし重臣会議での信愛の根回しも功を奏し、26代当主の座は信直に決定、当然政実、実親にとって不満の残る結果となり、南部家中に抗争、対立の火種を残すこととなった。
この南部宗家の内訌は、かねてより津軽統一、そして南部氏からの独立を狙っていた大浦城主大浦為信にとって絶好の機会でとなった。元亀二年(1571)石川城を急襲して南部氏津軽郡代石川高信を討ち取ったのを手始めに、瞬く間に諸城を攻略、勢力を拡大する。。天正十年(1582)頃、家督争いの混乱が収束した南部氏は、漸く本格的に津軽討伐の軍を起こすが、信直の相続に不服な九戸勢はこれを拒否、また天正十四年(1586)秋には政実自らが南部氏惣領を称して上洛、京都での画策を企むとの風評が立つなど、両者の対立はさらに深まった。そして天正十八年(1589)、信直の下にも豊臣秀吉より小田原城征伐参陣の命が届く。西に津軽為信、南に九戸政実の強敵を抱え危機的状況にあった信直だったが、八戸政栄の協力を頼みに参陣を果たし、南部氏惣領として所領を安堵される。
一方政実は、小田原城征伐に続いて行われた奥州仕置で所領没収となり滅亡した大崎、葛西、和賀、稗貫氏らの遺臣による一揆の混乱に乗じ、翌天正十九年(1590)3月、櫛引、久慈、七戸氏らを誘い信直に反旗を翻した。信直は一戸月館城に布陣、北、名久井、野田、桜庭、浄法寺、葛巻氏らの協力を得て鎮圧に臨むも、九戸、岩手、鹿角郡の諸将で政実に荷担する者は多かった。苦戦を強いられた信直は秀吉に対して援軍を要請、秀吉は幕下に連なった信直への叛乱は自分に対するものであるとし、大崎、葛西一揆鎮圧も兼ね、総大将に甥豊臣秀次、副将に徳川家康を任じ、蒲生氏郷、浅野長政、堀尾吉晴、井伊直政らを軍監とする6万とも10万といわれる再仕置軍を派遣した。
蒲生氏郷、浅野長政を主将とした3万余といわれる九戸討伐軍は、8月23日に和賀郡に到着し、9月に入ると同時に馬淵川流域に侵攻、まず姉帯城、根反城を攻略し、翌2日には政実の本拠地である九戸城を囲んだ。籠城する九戸勢5千余に対し、討伐軍は氏郷、長政の本隊のほか、大谷吉継配下として小野寺義道、戸沢盛安、秋田実季ら出羽国の諸将、そして津軽為信、松前慶広らも加わり、6万余の軍勢だったという。九戸城は天険の要害であったが、大軍を擁する討伐軍の猛攻に初日から劣勢となり、4日には九戸氏菩提寺の薩天和尚の取り成しによって降伏することとなった。降伏の条件は、首謀者の投降を引き替えに城兵は助命するというものであり、政実、櫛引清長ら8名が剃髪して氏郷、長政の前に引き立てられた。しかしその後条件は反故にされ、首謀者のほか城兵の中から選ばれた150名ほどが栗原郡三迫まで護送され、悉く首を刎ねられた。更に九戸城では、残った城兵のみならず城中へ逃げ込んでいた婦女子まで全て二の郭へと押し込められ、そこに火をかけられて皆殺しにされた。この戦いで秀吉の天下統一事業は遂に達成されたが、その最後は婦女子の断末魔の叫びで幕を閉じたのであった。
乱後、氏郷、長政らによって修築された九戸城は信直に引き渡され、信直は福岡城と改めて松の丸に居住、三戸城に代わる本城とした。しかし福岡は広大な所領の北に偏しているため、文禄二年(1593)不来方城の地に新城を造営し移転を計画した。新城の築城は数度の中断を挟んだものの元和年間(1615-24)に一応の完成を見、信直の嫡男利直は盛岡城と名付けられた新城へと居城を移した。移住後も存続した福岡城だったが、盛岡城が最終的に完成した後の寛永十三年(1636)にその役割を終えて廃城となった。
馬淵川、白鳥川、猫淵川の浸食を受けた険峻な断崖、鳥越、末の松山の山郡に守られた規模雄大な平山城で、占地、縄張は中世南部地方の城の特色を色濃く残すが、石垣を築き虎口は桝形の形態を採るなど、近世城郭的な特色も強い。特に石垣は東日本でも最古級のもので、古式穴太積み石垣としては最北のものである。
城跡主要部は南側の欠けた菱形を呈し、北側の頂点に1辺約100mほどの方形の本丸が所在する。二の丸は本丸南西、南東辺を逆L字形に取り囲み、その間には幅11〜18m、深さ3〜5mほどの石垣が伴う土塁、空堀が巡らされていたが、現在は一部が破壊されている。本丸西側には広大な三の丸が配されていたが、現在は市街地化して史跡指定から外れており、また本丸北東、南東にはそれぞれ空堀で隔てられた石沢館(外城)、若狭館が所在し、現在は共に畑地となっている。そして本丸南西には松の丸と称された郭があり、九戸の乱の後に南部信直の居所となった場所である。
現在国の史跡指定を受けている、指定箇所だけで約34万平方mもの規模を持つ広大な平山城です。大平球場での野球観戦のついでに訪問したわたしが全て見て廻れる程度の規模ではなく、それなりに時間を取ったにもかかわらず本丸、二の丸周辺しか見ておりません。その日のウチに磐井郡東山町まで移動する必要がありましたモノで…(土日の岩手県内2連戦ってやつです…笑)
一部を見ただけでも遺構が良く遺り、非常に楽しめる城館なので、改めて訪問の上じっくりと時間をかけて見てみたいです…が、二戸市遠いっす。 |
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似鳥館 |
似鳥館跡に所在する鳳林寺。 |
【所在地】 |
二戸市似鳥寺上、林ノ下
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
似鳥氏か |
【城主変遷】 |
似鳥氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
鳳林寺 |
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築城年代、築城者は不明、館主として似鳥左近の名が伝わる。似鳥氏は天正十九年(1591)九戸城主九戸左近将監政実が南部氏に謀叛した際、九戸方に同心した一族という。
鳳林寺の裏山が館跡であり、周囲に空堀を巡らせた東西約70m、南北約30mの小規模な館であったという。 |
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【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「歴史街道スペシャル
名城を歩く6 弘前城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく23
弘前城・盛岡城」(小学館2004) |
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