三戸町
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三戸城
三戸城跡復元綱御門。
三戸城跡復元綱御門。
【所在地】 三戸町梅内
【別称】 留ヶ崎城、糠部城
【築城年】 永禄年間(1558-70)
【築城者】 南部晴政
【城主変遷】 南部氏
【廃城年】 貞享年間(1684-88)
【現状】 城山公園
 承久元年(1219)南部光行が本三戸城(聖寿寺館)を築き、長く三戸南部氏の居城とした。しかし天文八年(1539)家臣の放火により炎上、その後永禄年間(1558-70)三戸南部氏24代晴政が新たに現在の位置に築城し、居城したのが起源であるとされる。

 天正十八年(1590)26代信直は小田原城征伐へ参陣し、豊臣秀吉より糖部、岩手、紫波、稗貫、和賀、閉伊、鹿角の南部七郡10万石領有の公認を受け、近世大名としての基礎を固めた。信直は翌年の九戸政実の乱の後、政実の居城であった九戸城を福岡城と改めて居城するが、南方に領土が広がり、城地が北に寄りすぎていたため、文禄二年(1593)盛岡城築城を開始し、漸次移住を開始する。三戸城には元和年間(1615-1624)以降城代が置かれたが、盛岡城下が度々水害に見舞われるなど完成が遅れたため、三戸城は居城としての性格を残していたとされる。しかし寛永十年(1633)盛岡城がついに完成すると、藩主重直は盛岡城のみを居城と定め、三戸城は御古城と呼ばれて城代支配が続いた。しかし貞享年間(1684-88)に城代は廃止されついに廃城となり、盛岡藩の三戸支配は新たに設置された三戸代官所が引き継いだ。

 現在は城山公園として整備され、本丸跡には模擬天守、そして山麓には綱御門が復元されています。この綱御門、わたしが訪問した数十年前には巨大なすずめばちの巣が営まれておりましたが、おそらく常設ではないものかと思います。各曲輪や土塁、堀、石垣などが良好に残っており、また城下の龍川寺に表門、法泉寺に搦手門がそれぞれ山門として現存しています。

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「津軽諸城の研究」(伊吉書院1981)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く6 弘前城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく23 弘前城・盛岡城」(小学館2004)

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