白石市
旧刈田郡白石町(〜S29)
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白石城
大手一ノ門より望む白石城復元大櫓。
大手一ノ門より望む白石城復元大櫓。
【所在地】 白石市益岡町
【別称】 益岡城
【築城年】 寛治二年(1088)
【築城者】 藤原経元
【城主変遷】 白石(藤原、刈田)氏−伊達氏[白石氏、屋代氏]−蒲生氏[蒲生氏](1591-98)−上杉氏[甘糟氏](1598-1600)−伊達氏[石川氏、片倉氏](1600-1869)−南部氏[1代・1869]
【廃城年】 明治七年(1874)
【現状】 益岡公園
 源義家に従い後三年合戦に従軍した秀郷流藤原氏の藤原次郎経元が、戦功により刈田、伊具両郡を与えられ、寛治二年(1088、同五年とも)に築城したのが始まりとされる。経元はその後刈田左兵衛尉を称し、文治五年(1189)源頼朝の奥州合戦では経元5代孫の孫三郎秀長が伊達朝宗麾下で功を挙げ、その後白石氏を称したという。

 白石氏はその後伊達氏4代蔵人大夫政依の子を養子に迎えているが、伊達氏に臣従したのは戦国時代、白石宗綱が伊達氏14代左京大夫稙宗に従って以降という。以後白石氏は伊達氏麾下で数々の功を挙げるが、中でも宗綱の孫若狭守宗実は勇将として名高く、伊達輝宗、政宗の主要な合戦のほとんどに従軍、伊達氏の南奥州制覇に大いに貢献した。
 天正十四年(1586)宗実が安達郡小浜城主に転じた後は、屋代勘解由兵衛景頼が城代を務めるが、同十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で刈田郡は伊達氏より召し上げとなり、新たに会津郡黒川城主となった蒲生氏郷に与えられた。氏郷は黒川城を若松城と改めて整備するとともに、領内各所の支城を修築、白石城も城代に任ぜられた蒲生源左衛門郷成によって益岡城(増岡城、桝岡城)と改められ、鉄砲を使用する近代戦に耐え得る城郭へと大改修が行われた。この改修で櫓、曲輪などが整備されたと考えられるが、絵図や記録が無く詳細は不明である。

 慶長三年(1598)氏郷を継いだ秀行が、幼少でありまた家中の内訌を生じたとして下野国宇都宮城へ転封になると、次いで越後国春日山城より上杉景勝が120万石の大身で若松城へ封ぜられた。景勝は益岡城を再び白石城と改め、甘糟備後守清長を城代に任じた。この時白石城はさらに改修が行われより堅固な城館となった。しかし同五年(1600)関ヶ原合戦が行われると、西軍に属した上杉氏の白石城は伊達軍の攻撃にさらされた。徳川家康より俗に言う“百万石のお墨付き”を得、旧領回復を狙う伊達政宗の攻撃は激しく、清長の留守居登坂式部らの奮戦も空しく落城、刈田郡は伊達氏の勢力下に復した。すぐさま政宗は白石城を修築、そして更に上杉領となっていた旧領伊達、信夫郡への侵攻、そして相馬氏による伊具郡への侵攻に備えるべく、これを叔父である角田城主石川大和守昭光に預けた。しかし戦後“お墨付き”は反故にされ、政宗に加増されたのは刈田一郡に止まった。
 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いて幕藩体制が始まると、刈田郡は奥州街道における伊達領南端の要地となり、また白石城の重要性は非常に高いものとなった。そこで政宗は、慶長七年(1602)腹心である片倉小十郎景綱を亘理郡亘理城より白石城へと移している。元和元年(1615)に発令された一国一城令でも、居城仙台城のほかに例外として存続を許され、以降11代260年間にわたって片倉氏が城主として伊達領南端の守備を担った。

 慶応四年(1868)戊辰戦争が始まると、白石城に奥羽列藩の重臣が集まり奥羽越列藩同盟が成立、奥羽越公議所が城内に置かれた。しかし体制を整える時間もなく、また思惑を異にする同盟諸藩の動きはまとまりを欠き、緒戦の白河城落城から戦況は悪化の一途を辿った。そして成立から僅か5箇月足らずで同盟は瓦解し、翌明治二年(1869)には同盟に与した諸藩に対して所領削減、転封などの命が下った。その処分によって伊達氏は62万石から28万石に減封となり、刈田郡ほか4郡13万石は盛岡藩より転封となった南部彦太郎利恭に与えられ、白石藩が立藩された。しかし南部氏は旧領盛岡への復帰を嘆願して認められ、利恭は形式的に1箇月ほど白石に滞在したのみで盛岡城へと復し、福島藩領は明治政府の直轄となった。一方家屋敷を失い、伊達氏の禄を離れた片倉家中の者は生活の手立てを失い、多くが蝦夷地へと移住する道を選んだ。

 南部氏が去った後、白石城には三陸磐城奥羽按察府が置かれて坊城俊章が着任するが、間もなく廃止となる。その後兵部省、陸軍省、大蔵省と所属が目まぐるしく変わり、ついに明治七年(1874)建造物、石垣などが逐次解体され廃城となった。なお跡地は明治三十三年(1900)市民に開放されて以降、益岡公園として整備され今日に至っている。


 現在は益岡公園となっており、大手一ノ門、二ノ門や事実上の天守である大櫓などが復元されている。特に大櫓は伊達氏の一家臣に過ぎない片倉氏の居城でありながら、東北では会津若松城、創建時の弘前城天守に次ぐ偉容を誇り、これは現存する高知城宇和島城天守に匹敵するものであった。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)

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