仙台市青葉区
旧仙台市
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仙台城
仙台城復元大手門隅櫓。
仙台城復元大手門隅櫓。
【所在地】 仙台市青葉区川内
【別称】 千代城、青葉城、(虚空蔵城)
【築城年】 (用明天皇年間(585-7))、鎌倉時代、慶長六年(1601)
【築城者】 国分胤通、伊達政宗
【城主変遷】 (結城氏)、国分氏…松平(伊達)氏(13代・1601-1869)
【廃城年】 存城
【現状】 青葉山公園、宮城県護国神社
 国指定史跡。日本100名城の一。

 近世城郭としての仙台城は、慶長六年(1601)伊達政宗が築城したものであるが、それ以前よりこの青葉山には前身となる城館が置かれていたとされる。
 文治五年(1189)千葉胤通が千代城として築城、その規模は現在の本丸と推定され、以後小泉城へと移るまで国分荘支配の拠点としたというが、年代はもっと下ると考えられる。また伝説では用明天皇時代(585-7)に築かれたとする地誌があり、鎌倉時代には結城七郎政光、永禄年間(1558-70)には国分能登守が居住したという。
 なお南北朝時代の正平六年(観応二・1351)、吉良貞家が畠山国氏、留守氏一族の拠る岩切城
新田城を攻め落とした、いわゆる岩切城合戦の後、落ち延びた畠山、留守一族が立て籠もった虚空蔵城がこの地であったとも考えられている。この時には再び吉良氏の攻撃を受け間もなく落城している。

 前身となる千代城を築いた国分氏は、平姓千葉介常胤五男胤通を祖とし、胤通が奥州合戦の功で国分荘の地頭に任ぜられたのが始まりとされる。後に没落した平姓国分氏に代わり藤姓結城流国分氏となったともされるが、南北朝時代には宮城、黒川、名取郡などに勢力を拡大した。しかし戦国時代には周辺諸勢力の圧迫を受けるようになり、また天正五年(1577)に国分盛顕の養子として伊達晴宗五男彦九郎政重が入嗣すると、伊達氏の勢力下に組み込まれていった。
 その後政重は国分盛重と称して国分氏を継承し、兄伊達輝宗、甥政宗らを援けてその一翼を担うこととなった。しかし盛重の家督相続に不服な重臣の離反を招くなど、国分家中をまとめることが出来ず、また政宗には叛意を疑われ、慶長四年(1599)母方の縁を頼って常陸国へと出奔し、事実上国分氏はここに滅亡した。なお佐竹氏の庇護を受けた盛重は、佐竹氏が出羽国久保田城へ移封となった後横手城代となる。その後伊達氏への帰参を願いながらも、政宗よりその赦しを得られず叶わなかった。

 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍に与し、会津若松城主上杉景勝を牽制した功で刈田郡を与えられた伊達政宗は、現在の岩手県南部から宮城県全域を手中に収めた。政宗は、広大な領国の北に偏していた岩出山城から居城を移すことを決意、候補に国分氏の古城のあった青葉山、平安時代に奥州藤原氏が鞭館を置いた榴ヶ岡、そして葛西氏が居城石巻城を置いた牡鹿郡日和山の三箇所を選び、その中からこの青葉山に城地を定めて慶長六年(1601)に築城を開始した。政宗は築城に当たり千代の地名を仙台と改め、同八年(1603)には概ね完成、以後仙台城は仙台藩伊達氏13代約260年間の府城となった。
 政宗の築いた仙台城は、青葉山山頂の本丸を中心とした、戦国時代の面影を残す山城であった。本丸には慶長十五年(1610)に千畳敷といわれた大広間を持つ本丸御殿が築かれ、大広間北側には藩主の座す上段の間のほか、天皇、将軍を迎える際の上々段の間も設けられていた。また本丸には北の詰門の左右の脇櫓、艮櫓、巽櫓、西の酉の門の脇櫓など三層の櫓が建てられたが、南西にある天守台には江戸時代を通じて天守が築かれることはなかった。これは政宗の将軍家に対する配慮ともいわれるが、山頂にあり眺望に問題がないため、必要とされなかったともいわれる。しかし実質的に天守に相当する建築物として、大書院に続く本丸東側の断崖に懸造りといわれる眺望亭が築かれ、これが仙台城を代表する建築物であったという。
 しかし元和元年(1615)以降合戦はなくなり、政宗の子忠宗が2代藩主となった寛永十三年(1636)にはすでに泰平の世となったため、山頂に置かれた本丸では不便が多くなった。そこで忠宗は、同十五年(1638)に居館である二の丸を青葉山北麓に造営、以降藩庁の中心は二の丸、そして同時期に造営されたとされる三の丸(東丸)と移り、本丸御殿は主に儀礼などに使用されるのみとなった。なお二の丸、三の丸の間にあった大手門は、文禄元年(1592)豊臣秀吉が朝鮮出兵の前線基地とした肥前国名護屋城の大手門を政宗が拝領したものとされ、移築時期は慶長年間の本丸造営時とも寛永年間の二の丸造営時とも言われる。

 明治維新、戊辰戦争後の明治四年(1871)廃藩置県が行われ、兵部省の管轄となった仙台城二の丸に東北鎮台が置かれ、同六年に仙台鎮台と改称された。同年存城となったが本丸の建造物は無用とされ、同八年払い下げとなりことごとく取り壊しとなった。同十五年鎮台本営となっていた二の丸御殿も火災で焼失、その後最後まで残り、昭和六年に国宝に指定された大手門及び隅櫓も同二十年の仙台大空襲で灰燼に帰し、仙台城の建造物はほとんどが失われている。

 現在は青葉山公園として整備され、本丸には護国神社、青葉城資料展示館、本丸会館などが建てられています。展示館では3D映像で本丸の様子が見られます。二の丸は東北大学、三の丸は仙台市博物館などの敷地となっており、写真の大手門隅櫓が復元されています。中には以前缶ジュースのストックが置かれていましたが…、まだ扱いは同じなんでしょうかね(笑)
 情けない事に、ほとんどの一般の方々がそうである様に、仙台市民の皆さんは“仙台城はお城が無いからつまらん”とおっしゃいます。あれだけ立派な遺構が残っているのに…。仙台人が仙台城をお城と認識するのは、艮櫓や大手門が復元されるまで待つしかないのか…と思っていたら、艮櫓は復元位置に問題があり取り止めになった様子。遺構保存の観点から言えば喜ばしい事ですが、このままでも一般受けはしないでしょうねぇ。大手門も道路が通ってるし復元は難しいでしょうが…古写真を見る限り見事な門、現代に甦ったらさぞ見応えがあるでしょうね。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第四巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)、「宮城文化シリーズ3 仙台城歴史散策 青葉城の盛衰とロマン」(宮城文化協会1988)、「歴史群像シリーズ19 伊達政宗」(学習研究社1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「図説 日本の名城」(河出書房新社1994)、「ビッグマンスペシャル 歴史クローズアップ 伊達政宗」(世界文化社1995)、「歴史群像名城シリーズ13 仙台城」(学習研究社1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「古写真大図鑑 日本の名城」(講談社+α文庫1998)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「歴史と旅 2000年10月号 城物語」(秋田書店2000)、「別冊歴史読本76 正保城絵図」(新人物往来社2001)、「歴史群像シリーズ戦国セレクション 風雲 伊達政宗」(学習研究社2001)、「歴史と旅 2001年7月号 奥州王 伊達政宗の野望」(秋田書店2001)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く22 仙台城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく19 仙台城」(小学館2004)

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