秋田市
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秋田城
秋田城跡。
秋田城跡。
【所在地】 秋田市寺内大畑
【別称】 出羽柵、出羽国府、秋田郡
【築城年】 天平五年(733)
【築城者】 大和朝廷
【城主変遷】 大和朝廷
【廃城年】  
【現状】 高清水公園
 国指定史跡。古代、大和朝廷が設置した城柵の一。

 大和朝廷は、蝦夷を討伐し東北地方を勢力下に置くため、大化三年(647)
淳足柵、翌年には磐舟柵を越国に設置した。そして和銅元年(708)越後国に出羽郡を建て、その前後に出羽柵を設置、同五年(712)にはこの出羽郡を昇格して出羽国を置き、出羽柵に国府機能を持たせた。その後さらに勢力を北進させた朝廷は、天平五年(733)高清水岡に出羽柵を移設、これが天平宝字四年(760)改称されて秋田城となった。なお改称の前年には雄勝郡に雄勝城が造営されている。

 高清水岡に出羽柵が遷された際、国府機能も同時に移されたものかは不明だが、以降秋田城は出羽国北方の軍事、政治の中心となった。しかし宝亀年間(770-81)には蝦夷の叛乱が相次ぎ、宝亀十一年(780)鎮狄将軍安倍家麻呂によって秋田城放棄が具申された。この存廃問題は秋田城強化の方針でまとまり、国司次官である出羽介を常置して統治することとなり、これが秋田城介の始まりとなった。
 なお8世紀後半には秋田城へ国府が遷されたが、延暦二十三年(804)蝦夷の叛乱の激化、立地、土地の悪条件を理由に秋田城が停廃されて秋田郡となり、国府が他所へと遷されている。国府移転先は川辺郡、平鹿郡、出羽(後の飽海)郡など諸説あるが、現在は飽海郡の城輪柵が有力となっている。

 国府機能が失われた秋田城に代わり秋田郡が設置された後も、蝦夷に対する拠点として秋田城の軍事、政治的機能は存続した。しかし天長七年(830)、大地震により城郭、官舎、及び四天王寺、四王堂などが倒壊、また各所に地割れが起こり、秋田河(現雄物川)の川底が割れて水が涸れるという被害を受けた。この地震による死者は15名、負傷者は100名以上に上ったという。
 元慶二年(878)には、折からの飢饉、そして城司の課した重税に俘囚が反発し、元慶の乱と呼ばれる大規模な叛乱が勃発した。俘囚は秋田城を急襲して城司良岑近、出羽守藤原興世を逃亡せしめ、周辺に火を放った。政府は藤原梶長を押領使に任じ、出羽、陸奥国の兵を以て鎮圧に向かわせるが、再び俘囚の大軍勢の攻撃を受け大敗、梶長は陸奥国へと逃げ帰った。次いで政府は左中弁藤原保則を出羽権守、小野春風を鎮守府将軍に任じ、討伐の強行を命じるが、保則、春風らは朝廷の備蓄米を民衆へ支給するなどの懐柔策を取り、俘囚たちの来降を許した。この寛大な施策により叛乱は終息、秋田城も回復されるが、約1年に及ぶ戦乱で官舎161宇、城櫓28宇、城柵櫓27基の建造物、そして大量の食料、武器、武具が失われたという。秋田城は天慶二年(939)にも俘囚の叛乱によって攻撃を受けているが、その後大規模な叛乱は見られない。

 秋田城はその後衰退しながらも存続し、文献上最も新しい記録は正平十一年(延文元・1356)であるが、その頃の規模、構造などは全く不明である。廃城時期も不明だが、事実上の廃城はもっと以前であろう。

 初めて訪問したのがこまちスタジアムで秋田県下初のナイトゲームが行われた日なので、もうだいぶ前のハナシですねー。その後も秋田での野球観戦のついでに何度か訪問していますが、割と記憶に残っているのは鵜ノ木地区にいたのらねこと遊んでいたことや、りんと一緒に浮かれて走り回っていたこと…何しているんだか(-_-)
 昭和十四年(1939)国の史跡指定を受け、現在も発掘調査が続けられています。外郭東門、築地塀、そして幅12mの大路が復元、整備されています。暫く訪問していないので、調査の進捗があまり良く判っていない…。
トップさくらとおしろ秋田県秋田市久保田城
久保田城
久保田城復元本丸表門。
久保田城復元本丸表門。
【所在地】 秋田市千秋公園
【別称】 矢留城、葛根城、窪田城、秋田城
【築城年】 室町時代、慶長八年(1603)
【築城者】 三浦氏、佐竹義宣
【城主変遷】 安東氏[三浦氏]…佐竹氏[12代・1603-1871]
【廃城年】 存城
【現状】 千秋公園
 日本100名城の一。

 慶長八年(1603)から翌年にかけて、佐竹義宣によって築城された久保田藩主佐竹氏の府城である。
 久保田城が所在する神明山には、中世安東(秋田)氏家臣三浦(川尻)氏が居住しており、鑓留城、矢留城と称されていた。これが久保田城の別称の由来となっている。なお江戸時代に秋田城と記載する文書もあるが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは異なる城館である。

 佐竹氏は平安時代より常陸国に君臨した源氏の名流であり、太田城、次いで水戸城を本拠に常陸国統一を果たした有力大名であった。天正十八年(1590)当主の佐竹義宣は、豊臣秀吉の小田原城征伐に参陣も果たし、常陸国54万石の大封を安堵されている。しかし慶長五年(1600)、徳川家康による上杉氏討伐、そして関ヶ原合戦に於いての去就が不鮮明であったため、家康より西軍へ通じていたと見なされ、同七年(1602)改易は免れたものの出羽国秋田20万石に減封の上で国替を命じられた。

 出羽国へ入封した義宣は、旧領主秋田氏の居城湊城を本拠と定め、父義重を六郷城に配したほか、横手城大館城檜山城などの要地へ一族や重臣を配し、新領主に対する反対一揆を抑えた。そして平城のため防御に難があり、54万石規模の家臣団を抱える佐竹氏にとって手狭だった湊城に代わり、新城の造営に着手する。候補地として、父義重は米の豊富な横手周辺を推したが、義宣は雄物川の水運、土崎湊の海運に恵まれ、所領のほぼ中央に位置するという理由からこの地を選定したという。
 慶長八年(1868)梶原政景、渋江政光を普請奉行として築城を開始し、翌年には本丸が完成し、湊城を廃して久保田城を本城と定めた。なお築城当初は窪田城と称されていたが、寛永十年(1633)から正保二年(1645)頃にかけて久保田城に改称されている。

 完成した久保田城は、近世城郭ながら天守を持たず、また石垣も用いずに土塁と板塀を巡らせた簡素な城であったという。これは万一敵に攻められたとしても既に籠城する時代ではなく、城から積極的に打って出て、城外で雌雄を決する戦法を採るために要害性を求めなかったためとされる。しかし、徳川将軍家への遠慮から堅固な城を築かなかったとも、当時の強力な武器では石垣も役には立たず、また石材の入手が困難、石垣普請の経験不足、そして何より財政難といった理由からであったともいう。義宣自身は完成した久保田城を評して、国境を越えて敵が領内に侵攻した場合、この小城では防ぎ切れないため城に火をかけて腹を切るしかない、と語ったという。

 久保田城築城後、順次整備されていった城下は、土崎湊の海運で大いに繁栄した。当地を城地に選定した義宣の炯眼は、現在の秋田市の礎となったのである。以後佐竹氏は明治維新までの12代約260年間この城を本拠とし、慶応四年(1868)の戊辰戦争でも西軍に属したため破却を免れている。明治四年(1871)秋田藩と改称し、廃藩置県の際に秋田県庁が城内に置かれたが、翌年には城外へ移転した。同六年(1873)には存城と決定したが、大手門、本丸御殿の一部などの建造物は順次民間へ払い下げられている。そして同十三年(1880)、大火によって建造物のほとんどを焼失し、現在唯一本丸物頭番所のみが現存している。

 久保田城に初めて訪問したのは20代前半、北東北3県への出張時でした。多分アップしている画像もその時に撮影したモノだと思います。しかし…その後秋田市には何度か脚を運んでいるものの、久保田城には訪問していないんじゃないだろうか?まあ秋田県なんてなかなか行く機会も得られないので、未訪問の城館を優先させているってのが理由なんでしょうが、昔よりは城館を見る目も肥えて来ているだろうに…。仙台生まれの会津人なので、無意識のうちに避けてるのか?←弘前城新発田城には行ってるから多分違う(^-^;
 現在は千秋公園となっており、前述の本丸物頭番所が現存、そして新兵具隅櫓、本丸表門が復元されています。でも新兵具隅櫓は本来二層でしたが、4階建ての模擬天守として復元されています。やっぱり欲しいんですかね、天守。

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「出羽諸城の研究」(伊吉書院1980)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「最北の古代城柵官衙遺跡 史跡秋田城跡(パンフレット)」(秋田市教育委員会)

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