横手市
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大鳥井柵
大鳥井柵跡遠望。
大鳥井柵跡遠望。
【所在地】 横手市大鳥町
【別称】 関根柵
【築城年】 正安三年(1301)、天文二十三年(1554)など
【築城者】 清原光頼、頼遠氏父子
【城主変遷】 清原氏…奥州藤原氏…小野寺氏
【廃城年】 慶長六年(1601)か
【現状】 大鳥公園、大鳥井神社
 平安時代、前九年合戦(1051-62)の後に奥羽に勢力を拡大した清原氏一族の清原光頼、頼遠(大鳥居太郎)父子によって築かれたとされる。しかしその後一族の内紛である後三年合戦(1083-87)が起こると、清原家衡が籠もった金沢柵と共に源義家、清原清衡連合軍の攻撃を受け焼失した。その後藤原姓に復して陸奥国平泉に本拠地を置いた清衡は、三男正衡を配して柵を修築させ、以後は関根柵と呼ばれたという。

 なお奥州藤原氏滅亡後も城館として存続したとみられ、柵跡に建つ大鳥井山神社の旧社殿は小野寺氏時代の城門の一部を利用して建立されていたという(昭和三十一年焼失)。そうなると廃城は小野寺氏が改易となった慶長六年(1601)以降か。


 標高約70mの大鳥井山(現在は大鳥山)に築かれた柵で、二重の土塁が台地を巡っており、建物跡や火災の跡も発掘されている。またこの遺跡は旧石器、縄文時代の遺跡、遺物なども数多く発掘される複合遺跡であり、大鳥井山遺跡として国の史跡指定となっている。


 現在一帯は大鳥公園となっており、大鳥山の南側に位置する大鳥井山神社が主郭なのでしょうか?例の如く時間がなく、正直なところはっきりと土塁や空堀と認識出来なかったので、あまり写真なども撮れませんでした。
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金沢柵
金沢柵主郭部跡。
金沢柵主郭部跡。
【所在地】 横手市金沢安本館
【別称】 金沢城
【築城年】  
【築城者】 清原氏、小野寺氏ら
【城主変遷】 清原氏…南部氏[金沢氏]−小野寺氏[金沢氏]−佐竹氏[東氏、梶原氏]
【廃城年】 元和元年(1615)
【現状】 金沢公園
 永承六年(1051)陸奥守源頼義は、陸奥国奥六郡に強大な勢力を有する俘囚長、安倍頼時追討の軍を起こした。いわゆる前九年合戦であるが、討伐軍は安倍一族による頑強な抵抗を受け苦戦を強いられていた。そこで出羽国の俘囚長であり、安倍氏とは縁の深かった清原真人武則の協力を得ることにより、厨川柵で安倍氏を滅ぼすことに成功した。しかしこの合戦は頼義による私闘と見なされ、源氏にとって得るものは少なく、その後武則が鎮守府将軍に任ぜられて陸奥、出羽両国の実質的な支配者となった。

 武則の孫真衡はその体制をより強固なものとしたが、専横な振る舞いが多く、義弟の清衡(藤原経清と安倍頼時女(=真衡の父武貞の後妻)の子)、異母弟家衡の反感を買っていた。さらに一族の重鎮であった吉彦秀武は、実衡の養子成衡の婚礼の祝いの際に礼を失する扱いを受け激怒、普段より臣下に落とされた不満もあり、清衡、家衡と共に叛乱を起こした。これに対し、陸奥国府多賀城にあった陸奥守源義家が真衡方に与して介入、後三年合戦が始まったが、直後に真衡が急死したことにより清衡、家衡は兵を収めた。その後義家は清衡、家衡兄弟を赦し、奥六郡を二人に分け与えることとした。
 義家の裁定により奥六郡を分割して与えられた清衡、家衡だったが、温暖な南三郡を与えられた清衡に対し、寒冷な北三郡を与えられた家衡はこの裁定に不満を募らせ、遂に清衡の居館豊田館に焼討をかけその一族を焼き殺してしまう。
 一人助かった清衡は義家に救援を求め、義家は自身の裁定に従わない家衡に対して討伐軍を起こした。家衡は出羽国沼柵へ逃れて源氏、清衡軍を迎え撃ち、大雪の助けもあってこれを撃退した。しかし春になれば沼柵では持ち堪えられないとする叔父武衡の勧めもあり、より守りの堅いこの金沢柵へと拠点を移した。
 翌年、軍備を整えた義家は金沢柵を激しく攻めたてるが、要害堅固な柵はなかなか落ちない。そこで吉彦秀武の進言を受け、我が国で始めてとされる兵糧攻めを行うこととなった。この過酷な攻めに対し、籠城を諦めた家衡、武衡は柵に火を放って寄せ手へ総攻撃を仕掛け、遂に捕らえられて斬首となった。

 金沢柵はその後も中世を通じて金沢城として存続し、長禄二年(1458)から文明二年(1470)まで陸奥国三戸城主南部守行の子金沢右京亮が居城、さらに横手城主小野寺氏家臣金沢権十郎などが城主となっている。
 その後の慶長七年(1602)、江戸幕府の命で常陸国水戸城より出羽国へ国替となった佐竹義宣は、その居城を選定するにあたり家臣梶原政景より当地を提案されている。しかし最終的に居城は久保田城と決定し、金沢城は元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。


 柵というと、防御面においてなーんとなく城館より劣る感じを受けますが、この金沢柵は平安時代以降も使用された様なので、全く以て中世山城の趣があります。事実、発掘調査では平安時代まで遡る確証は得られていないらしい…? 現在は金沢公園として整備され、付近には資料館や後三年合戦に関する史跡が散在しています。因みに納豆発祥の地でもあるそうですよ。
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沼館城
沼柵跡石碑、蔵光院山門。
沼柵跡石碑、蔵光院山門。
【所在地】 横手市雄物川町(旧平鹿郡雄物川町)沼館
【別称】 沼柵
【築城年】  
【築城者】 清原氏、小野寺氏ら
【城主変遷】 清原氏…小野寺氏[落合氏、大築地氏]
【廃城年】 天正十八年(1590)
【現状】 蔵光院、旧雄物川北小学校
 前九年合戦(1051-62)で源氏に与して功を挙げた清原真人武則は、戦後朝廷より鎮守府将軍に任ぜられ奥羽両国の実質的な支配者となった。武則の孫真衡はさらにその支配体制を強化したが、その専横な振る舞いが一族の反感を買い、義弟清衡(藤原経清と安倍頼時女(=真衡の父武貞の後妻)の子)、異母弟家衡や一族の重鎮であった吉彦秀武の叛乱を招いてしまう。永保三年(1083)に始まったこの後三年合戦は、真衡の急死により一旦は収束し、その遺領である奥六郡は陸奥国府多賀城にあった陸奥守源義家の裁定で清衡、家衡に分割して与えられた。

 しかしその裁定に不満を持った家衡は、兄清衡の居館豊田館に焼討をかけて家族、一族をを殺害し、この沼柵に立て籠もった。清衡は義家に救援を求めて家衡討伐の軍を起こし、応徳三年(1086)沼柵を囲むが、雄物川、皆瀬川や沼に囲まれた低湿地の柵は天然の要害だった。清衡、義家軍が攻めあぐねるうちに冬が到来し、激しい風雪と食糧不足もあって撤退を余儀なくされてしまう。武家の棟梁である源義家を撃退し名を挙げた家衡だったが、春になれば沼柵では持ち堪えられないとする叔父武衡の進言を容れより堅固な金沢柵に籠城したが、最後は過酷な兵糧攻めによって討ち取られた。

 正安二年(1300)、稲庭城を本拠とした小野寺氏3代道有が平鹿郡西部の支配拠点として修築し、重臣落合氏を城代として配置した。その後、さらに版図が広がるに連れて稲庭城では領国支配に不便を来たしたため、13代稙道が沼館城に本拠を移して領国経営に当たった。稙道の子輝道(孫景道の代とも)はさらに横手城に本拠を移し、沼館城には城代として一族の大築地織部秀道(稙道庶長子)が置かれた。

 しかし天正十八年(1590)小野寺氏は太閤検地反対の一揆を起こし、山形城主最上義光らの討伐を受ける。秀道は小勢であり防ぎきれないと判断し、城に火を放って横手へと退却、以降この城は廃城となった。


 現在は本丸跡に蔵光院が所在し、旧雄物川北小学校(旧沼館小学校)校地が二の丸、さらに安養寺、沼館八幡神社付近までが三の丸だった様です。蔵光院を囲むように土塁が巡っており、二の丸西側の土塁も現存しています。三の丸北東隅(八幡神社東方)にも土塁が現存しているようですが確認出来ていません。

 職場で秋田に野球観戦に行って来た、ついでにスタルヒンのお墓参りもして来た、なんて会話をしていたら、下請会社の方が「わたし雄物川町出身なんですよ」とのこと。ひょっとして沼館小学校のご出身かと訊くと、「よくご存知ですね〜」なんてことになりびっくりしました。世の中狭いもんですねー。
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横手城
横手城本丸跡。
横手城本丸跡。
【所在地】 横手市城山町
【別称】 朝倉城、阿櫻城、龍ヶ崎城、韮城、衡城
【築城年】 正安三年(1301)、天文二十三年(1554)など
【築城者】 小野寺通有、小野寺輝道など
【城主変遷】 (小野寺氏、横手氏)…小野寺氏[横手氏](1552-1601)−最上氏[鮭延氏](1601-02)−佐竹氏[伊達氏、須田氏、戸村氏](1602-1868)
【廃城年】 明治元年(1868)
【現状】 横手公園
 正安三年(1301)小野寺通有が築城したとも、応仁年間(1467-68)に横手三郎兵衛という人物の居城であったともされるが、一般的には天文二十三年(1554)小野寺氏13代輝道(14代景道とも)によって築城されたといわれる。

 小野寺氏は鎌倉時代以来の有力な豪族で、湯沢城を拠点に雄勝、仙北、平鹿三郡を所領し、近隣の安東、最上氏らと覇を競っていた。13代輝道は大曲城角館城などを攻め落とし大いに武威を張っていたが、家臣を故なく成敗するなど非道な振る舞いが多く、領民からは暗君として恐れられていた。そこで横手城主であった一族の横手佐渡守は輝道追討の兵を集めるが、事前に露見し輝道率いる大軍が城下へと押し寄せた。しかし激闘の末城方が輝道勢を撃退、さらにその勢いに乗って逆に湯沢城へ攻め上り、天文二十一年(1552)輝道を討ち取ったという(となると天文二十三年(1554)輝道による築城は誤りですが…)。しかしその後、羽黒山に逃れ潜んでいた輝道の遺児四郎丸が山伏の協力を得て横手氏打倒の兵を挙げると、佐渡守の謀叛を快く思っていなかった旧臣が続々と四郎丸の元に馳せ参じ形勢は逆転、佐渡守は壮烈な討死を遂げたという。

 四郎丸はその後景道を称し、横手城を拠点として小野寺氏の最盛期を築くが、その子遠江守義道の代には近隣の最上、戸沢氏らとの抗争が絶えず、雄勝、平鹿180余郷を失ってしまう。さらに豊臣秀吉の奥州仕置で所領は安堵されたものの、旧領の三分の二である3万石に減ぜられてしまう。
 こういった激しい戦いのあった横手城では、大広間に多量のカラス貝が現れたり、牛の死体が横たわっているといった怪異が続いた。牛は小野寺氏の旗印であり、これは無念のまま死んでいった多くの将兵の精霊に違いないと人々は語り合ったという。そしてついに慶長五年(1600)、小野寺氏は関ヶ原合戦において東軍に与した最上領を侵したとして改易となり、翌年石見国津和野へ配流となった。

 慶長七年(1602)、常陸国水戸城より出羽国へ入封した佐竹義宣は、秋田に久保田城を築いて居城とし、横手城には城代として叔父の伊達(国分)盛重(義宣の母が伊達晴宗の娘であり盛重の姉)を置いた。元和元年(1615)の一国一城令でも例外として存続を許された横手城は、伊達氏に次いで須田氏が城代となり、寛文十二年(1672)以降は戸村氏代々が城代を務めて明治維新に至った。

 明治元年(1686)の戊辰戦争においては、西軍に与した秋田藩の支城として庄内、南部藩などによる猛攻を受け落城、城下は灰燼に帰した。しかし、わずか19才の城代戸村義得は、一旦大曲に落ち、その後西軍本隊の応援を待って城の奪還を果たしている。


 羽州街道と秋田街道の交わる要衝に築かれた標高107メートルの山城で、西の横手川、北の明永沼、東の奥羽山脈を天然の要害として築かれているが、後に城下町が整備され、現在の平山城の形態となったとされている。東西120m、南北300mの本丸には藩祖佐竹義宣を祀る秋田神社が建立され、本丸西側の二ノ丸には郷土資料館である模擬天守が建てられている。また城跡の南東隅には本多上総介正純の墓碑がある。
トップさくらとおしろ秋田県横手市吉田城
吉田城
吉田城跡東辺土塁及び標柱、解説板。
吉田城跡東辺土塁及び標柱、解説板。
【所在地】 横手市平鹿町(旧平鹿郡平鹿町)上吉田吉田
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 小野寺景道
【城主変遷】 小野寺氏
【廃城年】 慶長六年(1601)
【現状】 三吉神社、西法寺
 戦国時代、仙北三郡を支配した小野寺景道が築城したとされる。

 小野寺輝道が隠居する際、五男陳道を伴って入城、陳道は以降吉田氏を称して居城したとされる。しかし慶長六年(1601)輝道を継いだ義道が江戸幕府によって改易となり、吉田城も廃城になった。なお陳道はその後盛岡城主南部氏に仕えたという。


 周囲に土塁、堀を巡らせた戦国期にしては珍しい平地方形館で、土塁は東西120m、南北100m、高さ2m、基底幅6m、上幅6mの規模を持ち、その外側に6〜10mの水堀を巡らしていた。北東部隅に三吉神社、南には西法寺が所在し、付近には馬場、馬水飲場や鍛冶屋敷といった地名が残っている。


 例によって(笑)時間がなく全体を見ることは出来ませんでしたが、土塁、堀が見事に残っています。標柱はともかく解説板があの位置にあるのはどうかと思いましたが(笑)。
 それよりも分からないのは小野寺氏の家系です。一体景道とは誰の子で誰の親で誰の兄弟なんでしょう?それに答えが出たら再度更新します。何時か分かりませんがねー。あはは。

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「出羽諸城の研究」(伊吉書院1980)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)

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