多賀城市
トップさくらとおしろ宮城県多賀城市桜井館
桜井館
桜井館跡標柱。
桜井館跡標柱。
【所在地】 多賀城市中央1
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 八幡氏か
【城主変遷】 八幡氏…
【廃城年】  
【現状】 市街地、宅地
 築城年代や築城者、館主など何れも不明であり、八幡館主八幡氏一族が居館したと推定されるのみである。


 多賀城市役所の直ぐ西に所在する高さ約20mほどの丘陵が館跡で、周囲が市街地、宅地と変わった現在もその一角のみが雑木林として残っている。丘陵頂部は東西約80m、南北約40mほどの平場となっており、西端部に幅約3m、深さ約1mの空堀、その内側に平行して土塁が見られるという。


 現在は道路を挟んで北側に隣接する市役所前公園に標柱が建てられています。訪問した時には既に夕闇が迫っていたので標柱のみの撮影となってしまいましたが、宅地となっている南、西側から登れるのでしょうかねぇ…?しかし市街地の真ん中、しかも市役所の真ん前にこの様な館跡が残されているのは嬉しい限りですねー。このまま破壊されずに大切に保存して欲しいものです。
トップさくらとおしろ宮城県多賀城市多賀城
多賀城
多賀城跡碑及び政庁跡。
多賀城跡碑及び政庁跡。
【所在地】 多賀城市市川
【別称】 多賀柵、多賀国府
【築城年】 神亀元年(724)
【築城者】 大野東人
【城主変遷】 古代律令政府[陸奥国司、鎮守府将軍、陸奥守など]…
【廃城年】 南北朝時代か
【現状】 国指定特別史跡
 古代の律令政府によって、蝦夷鎮圧、奥州経営の拠点として設置され、陸奥国府、鎮守府が置かれた。正確な築城年は文献には明記されていないため明らかでないが、『続日本紀』に記されている養老六年(722)に築かれた陸奥鎮所が前身であるという説と、多賀城碑の碑文にある神亀元年(724)鎮守府将軍大野朝臣東人が築いたとする説があり、現在は後者が有力と考えられている。文献による初見は『続日本紀』の天平九年(737)4月の記事で、その頃は多賀柵の名で存在したと記される。次いで多賀城碑には、天平宝治六年(762)陸奥国按察使兼鎮守府将軍藤原恵美朝臣朝狩によって修造されたという記載がある。

 宝亀十一年(780)
伊治城において伊治公砦麻呂が叛乱を起こし、安察使紀広純、牡鹿郡大領道嶋大盾を殺害、さらに多賀城を襲い略奪、放火に及ぶという事件が起こっている。発掘調査の際、この時のものと思われる焼土、焼瓦が多量に検出されている。また貞観十一年(869)には陸奥国を大地震が襲い、多くの建造物が倒壊、多賀城下には津波が押し寄せて千人以上が溺死したとも伝えられている。
 延暦二十一年(802)坂上田村麻呂によって鎮守府が
胆沢城へと移され、軍事的機能が縮小されるなどしたが、永承六年(1051)の前九年合戦、永保元年(1083)の後三年合戦では源頼義、義家父子の拠点となり、文治五年(1189)の奥州合戦後は源頼朝が立ち寄り奥州の統治方針を言い渡している。

 中世には多賀国府と称され、鎌倉時代には奥羽留守職が置かれていた。建武元年(1334)建武新政の際には、北畠顕家が義良親王と共に奥州へ下向、国府を再興し、これに続く南北朝争乱では東北の南朝勢力の拠点として足利方と激しい攻防が繰り返された。しかしその後、室町幕府により奥州探題として斯波氏が下向し大崎地方の
中新田城名生城などを拠点とすると、多賀城はおよそ600年に及んだ歴史に幕を閉じている。

 なお陸奥国府として代表的な存在は多賀城で間違いないが、初めは名取郡の郡山遺跡に置かれたと見られている。その後は南北朝争乱の渦中、南朝方の北畠氏が拠点とした伊達郡
霊山城に移されているなど、その所在地は幾度か変遷している。
トップさくらとおしろ宮城県多賀城市八幡館
八幡館
八幡館跡標柱。
八幡館跡標柱。
【所在地】 多賀城市八幡2
【別称】 八幡邑城
【築城年】 平安時代か
【築城者】 八幡兵庫か
【城主変遷】 八幡氏…留守氏[八幡氏]…
【廃城年】 天正十八年(1590)か
【現状】 末の松山浄水場、宅地
 築城年代は不明、城主として岩切城主伊沢(留守)氏家臣八幡兵庫の名が伝わる。

 八幡氏は平姓で、平安末期に陸奥国府へ下向した在庁官人であり、以後当地へ土着し代々陸奥介を称したという。文治五年(1189)奥州合戦ののちも鎌倉幕府から宮城郡八幡庄を安堵され、以後は八幡介を称して鎌倉御家人として地頭職に任ぜられている。また下野守として下野国梁田郷保田庄にあった伊勢次郎頼景の次男、保田景家が宮城郡内に所領を賜り、建保五年(1217)に八幡へ移住、以後八幡氏を称したともいわれており、陸奥介と八幡介は系統が異なっているとも考えられている。

 室町時代には留守氏の麾下に入りその有力家臣となったが、留守氏は天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置によって所領没収の処分が下される。以後留守氏は伊達氏家臣となり、一門水沢伊達氏として
水沢要害を拝領し明治維新まで存続したが、八幡氏もまたその家臣として近世まで存続している。


 標高約10mの台地上に築かれていたが、現在は頂部に水道施設が建てられ、周辺は宅地となっているため遺構を探すのは困難であろう。水道施設の一角に立つ標柱のみが往時を偲ぶよすがとなっている。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)

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