仙台市太白区
旧仙台市
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北目城
北目城跡解説板。
北目城跡解説板。
【所在地】 仙台市太白区東郡山2、ほか
【別称】 北目館、喜多目城
【築城年】 戦国時代
【築城者】 粟野氏
【城主変遷】 粟野氏…伊達氏[粟野氏、屋代氏]
【廃城年】 慶長六年(1601)頃か
【現状】 宅地、市街地、耕作地、道路
 戦国時代、名取郡北方三十三郷旗頭と称された粟野氏の居城であった。粟野氏は越前国に本領を持ち、南北朝時代に陸奥国伊達郡、次いで名取郡内に所領を得て移り住んだという。次第に名取郡北部の平野部一帯に勢力を拡大したが、同時期に名取郡南部に勢力を伸ばしてきた伊達氏との衝突は避けられず、伊達大膳大夫政宗との合戦に敗れてその麾下に入った。しかし粟野氏を伊達氏一族とする資料もあり、その出自、室町時代の動向については定かでない部分が多い。
 伊達氏に服属した粟野氏ではあったが、同じ仙台平野に勢力を張った宮城郡の留守氏や国分氏同様、独立した領主としての支配権は保持していたと見られる。天文十一年(1542)に始まった伊達氏の内訌、伊達稙宗、晴宗父子が争った天文の乱では、当主粟野遠江守長国が国分、秋保氏らと共に稙宗方に与し、晴宗方の留守景宗と対立している。この内訌は晴宗方の勝利に終わるが、留守、国分、粟野氏の間で大きな勢力関係の変化は無かった様である。しかし弘治二年(1556)頃に長国が死去し、幼少の大膳亮重国(宗国)が継承すると、永禄年間(1558-70)伊達氏はその機に乗じて粟野氏への支配権を強化して行った。その結果粟野氏の独立性は失われ、ついに完全に伊達家中へと組み込まれていった。
 粟野氏の居城であった北目城は、北方の大崎氏に備える伊達氏領国北部の要衝として重視され、伊達氏の管理が強化されて行くとともに北目給衆と称される与力衆が派遣されるなど、軍事力も強化されて行った。その中で城主重国、そして広瀬川を挟んで北東に位置する沖野城主であった弟の左衛門尉(助太郎)国治兄弟は、伊達氏の有力家臣として各地の合戦で活躍した。天正十五年(1587)には、国分家中で当主盛重と重臣堀江長門守が対立が起こり、政宗の使者が度々北目城を訪れ、また一時堀江長門守が国分領を逐われた際には、長門守の室が重国の姉であることもあり北目城へ迎え入れている。この内訌で盛重は国分の名跡を取り上げられ滅亡、国分領は伊達氏の直轄支配下に置かれたため、翌年の大崎合戦で重国、国治兄弟は北目城警護のほか松森城の城番を命じられている。
 しかし伊達政宗が
岩出山城へ本拠を移した天正十九年(1590)、家中でも大きな知行替、禄の削減が行われ、粟野氏は磐井郡大原城へと所替となり当地を去ることとなった。なおその後、亘理氏より重国の養子に入った清蔵重清が、政宗の長子秀宗の宇和島行きに従わず家禄没収となっている。粟野氏の家名は血縁の者によって残されたが、かつて名取郡北方の旗頭と称された面影は失われてしまった。
 粟野氏が去った後、北目城は政宗の腹心で岩出山城代を務める屋代勘解由兵衛景頼の持城となった。この頃に北目城は大きく修築されたものと考えられ、慶長五年(1600)関ヶ原合戦に伴う上杉領への侵攻に際して、政宗は領内の北に偏した本城岩出山城へは入らず、この城に入城して合戦の指揮を執った。またこの時、景頼に預けられた家臣である北目衆が出陣している。そして翌年の正月を北目城で祝った政宗だったが、4月には前年の末より普請に着手した仙台城へと本拠を移しており、この頃に北目城の役目も終焉を迎え廃城になったものと考えられている。しかし明治時代に至るまで大規模な堀が残されており、簡単な修復で城館としての機能を回復出来る状態に保たれていたとも推定されている。

 東西、南北ともに500mの規模を持つ平城で、4号国道バイパス鹿ノ又交差点一帯が城跡だった。発掘調査によって幅10〜14m、深さ3m以上の複雑な構造の堀跡が発見されている。当時は大規模な土塁、空堀に囲まれていたが、現在は市街地、宅地化が進み、また道路建設のために遺構はほぼ全て破壊されている。住居表示の改訂前、付近には館の内、出丸、矢口、矢来などの地名が残っていたが、現在はその名も失われている。

 4号国道バイパス鹿ノ又交差点より八本松方面へ進んだ所に解説板が建っており、その辺りが字出丸だった様です。わたしの母校のすぐ近くのため、周辺をよく遊び歩いていましたが、さすがに当時は全く意識して見ていませんでした。20年前の話だし、今と比べればちょっとは遺構も遺っていたのかも…と思うと、なんて勿体ない少年時代を過ごして来たものか…俺さまの馬鹿!と思いたくなりますねー。
トップさくらとおしろ宮城県仙台市太白区郡山遺跡
郡山遺跡
郡山遺跡解説板。
郡山遺跡解説板。
【所在地】 仙台市太白区郡山5
【別称】 (陸奥国府)
【築城年】  
【築城者】 古代律令政府
【城主変遷】 古代律令政府
【廃城年】  
【現状】 郡山中学校、宅地
 広瀬川、名取川に挟まれた自然堤防上に立地する古代律令政府の官衙跡。I期官衙およびII期官衙とそれに付随する寺院が確認されている。
 この官衙は、多賀城が置かれる以前の7世紀中期から後期にかけて造営されたものと推定されており、I期官衙は東西300m、南北600m以上の規模であったとされている。外郭は材木塀によって区画され、板塀で囲まれた中枢部や倉庫群が確認されている。II期官衙は7世紀末頃、I期官衙を意図的に取り壊して造営され、一辺428mの正方形の規模を持っていた。南側には官衙に付随する郡山廃寺跡が確認され、また寺院東方には官舎と見られる建物群が存在した。外郭は推定6000本の丸太が隙間なく並べられ、この材木列の外側に幅3〜5m、深さ1m以上の大溝が巡らされていた。また材木列の南辺中央部には、南門跡と見られる遺構が残り、柱の一部が発掘されている。政庁跡の一部は一度焼失しているが、配置を変えて再建されている。
 この官衙の建物配置や遺構の一部には、多賀城や畿内の遺跡で見つかったものと類似したものがあり、中央に準じた儀礼が催されるような重要な役割を果たしていたと見られている。なおこの官衙は、8世紀初めには役割を終えていたと推定されている。

 わたしの母校を含む範囲が遺跡となっており、学校内に一部復元されているようです。が、わたしの卒業後に校舎を立て替えやがったので見たことがありません…。学校正門の脇に発掘調査事務所、資料室が置かれており、出土品などが展示されています。
トップさくらとおしろ宮城県仙台市若林区四郎丸館
四郎丸館
四郎丸館跡と推定される善徳寺。
四郎丸館跡と推定される善徳寺。
【所在地】 仙台市太白区四郎丸
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 名取四郎か
【城主変遷】 (名取氏…曽我氏…)伊達氏[菅井氏]…
【廃城年】  
【現状】 善徳寺、宅地、耕作地
 築城時期、築城者ともにはっきりとはしないが、藤原秀衡家臣名取四郎の居城であったとされ、奥州合戦の際に源頼朝の軍勢によって滅ぼされたという。『名取郡誌』に“釜鉢は賄所、善徳寺門前左右の桜は城門、夜の橋は大手の橋の跡”と記載され、文政年間の村絵図との関連が窺えるという。
 宝治元年(1247)には、宝治合戦の恩賞として曽我氏が北条氏より四郎丸郷の代官職に任ぜられ、南北朝時代までこの地を領有していたという。南北朝時代から室町時代にかけての領主は不詳だが、戦国時代の天文元年(1532)、伊達稙宗に仕えた菅井内膳景国が四郎丸にいた名取四郎某を討ち、その功によって四郎丸を賜り、以後名取郡北方三十三郷の足軽を統括した。その子孫大炊祐常国、内記直国、和泉実国、同泰国も伊達氏に仕え、四郎丸の所領を相続している。なお名取四郎を討ったのは藤右衛門常国であったともされ、また常国、実国は、北目城主粟野氏の後見役を伊達氏より命ぜられたとされる。慶長十五年(1610)菅井氏嫡流は同郡袋原に移ってこの地を去るが、庶流は四郎丸に居住し続けたという。

 善徳寺境内を中心とする一帯が館跡とされているが、現在は特に遺構を確認出来ない。善徳寺の北の戸ノ内遺跡、及び東方の蓮光寺東側の発掘調査では、中世の遺構、遺物が発掘されており、四郎丸館との関連が考えられている。
トップさくらとおしろ宮城県仙台市若林区茂ヶ崎城
茂ヶ崎城
茂ヶ崎城跡標柱。
茂ヶ崎城跡標柱。
【所在地】 仙台市太白区茂ヶ崎1
【別称】 野手口城、茶臼館(、根岸城)
【築城年】 康平二年(1343)
【築城者】 粟野重直
【城主変遷】 粟野氏…
【廃城年】  
【現状】 大年寺、テレビ放送所、公園、山林
 越前国(越中国とも)に本領を持っていた粟野資国の4代孫粟野重直が、南北朝時代に伊達郡に所領を得て同郡戸田城に住し、さらに北畠氏に属して功を挙げ、康平二年(1343)名取郡に2千貫を得て根岸城に居城したという。この根岸城が茂ヶ崎城であるとも考えられている。また野手口山城として島津陸奥守が城主であったとする資料もあるが、詳細は不明である。
 粟野氏はこの茂ヶ崎城のほか、北目城沖野城を本拠に名取郡北方平野部に勢力を拡大、名取郡北方三十三郷の旗頭と称された。粟野氏は4代重直から8代大膳亮忠重まで茂ヶ崎城にあり、忠重の代に北目城、そして9代国定の代に沖野城へと移ったとされ、茂ヶ崎城はその後も両城の詰城としての役割を担ったものと考えられている。その後粟野氏は10代高国、11代長国の代に名取郡南方に勢力を拡大した伊達氏の勢力下に入り、長国死去後の永禄年間(1558-70)、幼少の大膳亮重国(宗国)が継承したことで以降完全に伊達氏家中へと組み込まれていった。その後粟野重国は弟の左衛門尉(助太郎)国治とともに伊達氏の有力家臣として活躍するが、一説には初め茂ヶ崎城にあった重国が北目城へと移り、天正十九年(1591)伊達政宗の攻撃で城を逐われ、その後沖野城に籠もった弟国治も討伐されて没落、重国は失意のうちに元和九年(1623)死去したとも伝わっている。
 藩政時代になると、仙台藩4代藩主伊達綱村が仙台城の有事の際の要害地として着目、大年禅寺を建立して保護したが、大年禅寺は明治以降藩の保護を失い没落した。

 茂ヶ崎城は大年寺山、あるいは茂ヶ崎と称される丘陵頂部に築かれていたが、後世の改変が著しく、城域の範囲の特定は困難である。大年寺跡の中心部、土塁に囲まれた方形の区画のすぐ東に標柱が建てられており、この周囲が二の丸とも推定されている。大年寺跡南西、現在仙台放送の敷地となった周囲が最高所となり、ここが茂ヶ崎城の主郭であると考えられている。仙台放送とNHKの敷地の境となる主郭部北東側、及び仙台放送敷地の南側に空堀跡と思われる遺構が見られる。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第四巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)、「歴史群像シリーズ19 伊達政宗」(学習研究社1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「ビッグマンスペシャル 歴史クローズアップ 伊達政宗」(世界文化社1995)、「歴史群像名城シリーズ13 仙台城」(学習研究社1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「歴史と旅 2000年10月号 城物語」(秋田書店2000)、「歴史群像シリーズ戦国セレクション 風雲 伊達政宗」(学習研究社2001)、「歴史と旅 2001年7月号 奥州王 伊達政宗の野望」(秋田書店2001)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く22 仙台城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく19 仙台城」(小学館2004)

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