仙台市泉区
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白石城
白石城跡遠望。
白石城跡遠望。
【所在地】 仙台市泉区根白石字館下
【別称】  
【築城年】 戦国時代
【築城者】 白石氏か
【城主変遷】 国分氏[白石氏]…伊達氏[白石氏]…
【廃城年】  
【現状】 宇佐八幡神社、白石公園
 築城年代、築城者は不明。城主は代々白石三河守を称したとされるが、出自は宮城郡領主国分氏一族とも、桃生郡領主山内首藤氏一族ともいわれ定かでない。
 一般的には、戦国時代に
鶴巣館主黒川安芸守晴氏入道月舟斎の弟が入嗣し、白石三河守を称して居城したとされる。また『伊達世臣家譜』では、白石三河守について国分氏から養子に入った三河守宗明の名が見える。何れにしても、国分氏没落後白石氏は伊達氏に服属、子孫は根白石から東の野村へ移り、白津氏を称して400石を領したという。白石氏が去った後は、一時宝積寺という寺院が置かれたと『仙台領古城書上』に記載がある。

 『仙台領古城書上』に東西六十六間、南北三十六間とあり、現在は根白石村社宇佐八幡神社の境内となっています。白石公園として整備されているとも資料にありますが、確かにその面影はあるものの、南麓の民家の方が整備しているご様子? 実は娘が幼児だった頃に訪問した折、“おしっこ出る!”との事でお手洗いをお借りした(笑)んですが、その時にお母さんが、“ちょくちょくお城好きな方が来るから草刈りとかやってんだぁ”とおっしゃってました。また“桜の時季が見モノだよ”ともおっしゃってました。
 訪問時はやや下草が伸びて来ており、歩くとぴょこぴょこかえるが飛び出してました。かえるを避けながら周囲を歩くと、西から北側にかけて見事な土塁が廻っています。土塁の奥にはさらに幅10メートルの空堀が確認出来る様ですが、藪化しており侵入を拒まれました。
 平場東側に宇佐八幡社、中央に三十三観音、その隣に裁松院の碑、そして西側の土塁を背に黒川季氏の墓が残っています。裁松院は久保姫、笑窪ノ方ともいわれ、磐城
大館城主岩城重隆の女で米沢城主伊達晴宗の正室となった方、つまりは伊達輝宗の生母、政宗の祖母になります。また黒川季氏は、大崎義直の子で庶流の黒川氏を継いだ義康の子で、系図上は月舟斎晴氏の孫となります。大崎氏が小田原城征伐不参を理由に改易になった後、黒川氏は伊達氏に仕えていましたが、季氏に男子なく断絶となっています。
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長命館
長命館跡土塁。
長命館跡土塁。
【所在地】 仙台市泉区加茂2
【別称】 深沢城(、国府中山上物見岡)
【築城年】 (平安時代、)戦国時代
【築城者】 (奥州藤原氏、藤原国衡、)長命氏か
【城主変遷】 (奥州藤原氏…)国分氏[長命氏]か…
【廃城年】  
【現状】 長命館公園、団地
 館主、由来などは一切不明である。近世以降、『吾妻鏡』に記された奥州藤原氏陣所である国府中山上物見岡、また文治五年(1189)奥州合戦の際の西木戸太郎藤原国衡の砦跡と伝わってきたが、特にこれといった根拠はない。しかし北方に源頼朝の陣所跡があり、また付近で本格的な戦闘は行われなかったものの掃討戦があったことが『吾妻鑑』に見られるという。
 その後戦国時代には国分氏家臣長命氏が居館していたと見られ、留守氏関連の文書に“国分勇者長命別当”と記されている。なお長命氏については不明な点が多く、独立色の強い中規模程度の領主と推定されているが、その末路なども明らかでない。

 現在加茂団地の中央に長命館公園として遺構が残っています。住宅地の公園であり、堀底が遊歩道として整備されていますが、曲輪、土塁、空堀跡などが明確に保存されています。仕事前に、“どーせ遺構をほとんど潰し、適当な標柱を建てた程度の都市公園だろう”とタカを括って行ってみたら、なかなか見応えのある城跡でした。
 なお長命館が所在する加茂団地の西隣に長命ヶ丘団地があるのでやや紛らわしいかも(笑) また高校だったか大学だったかの同期に“長命くん”がいましたが、当時は単に珍しい苗字だなー程度にしか考えなかった…。ご子孫なのかなあ?
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松森城
松森城主郭部より望む南東の郭、岩切城跡。
松森城主郭部より望む南東の郭、岩切城跡。
【所在地】 仙台市泉区七北田字松森
【別称】 鶴ヶ城
【築城年】 天文年間(1532-55)、永禄十年(1567)か
【築城者】 国分氏
【城主変遷】 国分氏−伊達氏[国分氏、田副氏、石母田氏、粟野氏ら]…
【廃城年】 慶長年間(1596-1615)か
【現状】 鶴ヶ城公園
 正確な築城年代は不明だが、永禄十年(1567)国分氏16代盛顕が隠居城として築いたとされる。しかし伊達稙宗、晴宗父子が争った天文の乱において、天文十一年(1542)岩切城主留守景宗が松森城を攻撃したとする『留守文書』の記載もあり、それに基にすれば天文五年(1536)頃には国分氏によって築城されていたとも考えられる。
 国分氏は板東八平氏の一に数えられる千葉氏の流れを汲み、千葉常胤五男胤通が下総国葛飾郡国分荘を分与され国分姓を称したのが始まりという。常胤は治承四年(1180)より始まった治承・寿永の乱で源頼朝に従い、また文治五年(1189)の奥州合戦でも海道の大将として功を挙げ、恩賞として陸奥国内に所領を賜った。胤通はその中で宮城、名取郡に所領を与えられ、陸奥国分氏の祖となったという。しかし陸奥国分氏が平姓である、そして鎌倉時代まで遡るとする資料は乏しく、現在は秀郷流藤原氏の小山氏族、長沼氏、結城氏の流れを汲むという考えが主流であり、結城七郎に関連する伝承が宮城、名取郡には多く残っている。
 ともあれ国分氏は南北朝の争乱を巧みに乗り越え、宮城郡一帯に勢力を拡大した。しかし戦国時代には独立した領主として自領の支配権は確保していたものの、伊達氏の勢力下に入ったと考えられている。その頃の当主は能登守宗政で、前述の天文の乱では伊達稙宗方に与して晴宗方の留守景宗と争うなど、歴代当主の中で代表的な人物として知られる。元亀三年(1572)その宗政より弾正忠(少弼)某(盛氏)が国分名代(名跡)を譲渡された際には、伊達輝宗より安堵状が発給されている。宗政には丹後守宗元という実子があったが、輝宗より認可を得て弾正忠へと家督が継承されたのは、弾正忠が実子ではなく通常の家督相続ではなかったためと考えられており、また伊達氏による国分氏への支配力が強化されたことを物語っている。天正五年(1577)頃、更に輝宗の弟、伊達晴宗五男彦九郎政重が入嗣するに及び、ほぼ完全に伊達家中へと組み込まれていった。
 政重は以後国分盛重を称し、小泉城よりこの松森城へと居城を移したものとされ、二の丸には家臣高平大学が居住したという。なお高平氏の住したこの二の丸は乙森城と称したともいう。そして盛重は兄輝宗、甥政宗の麾下にあって伊達勢の一翼を担うが、国分家中では盛重の入嗣に反発する者も多く、その対応に苦慮していた。輝宗の跡を継いだ政宗も、国分家中の仕置のために盛重へ度々使者を送ったがまとまらず、天正十五年(1587)小山田筑前守頼定に国分氏討伐を命じている。この命は盛重自らが
米沢城へと赴き謝罪したことで事なきを得るが、以降も家中の混乱は収まることがなかったため、ついに同年政宗は盛重から国分氏の名跡を取り上げるに至っている。なおその後も盛重は伊達家中にあって重きをなしたが、慶長四年(1599)政宗と不和を生じ、姉の嫁ぎ先である佐竹氏を頼って常陸国へと出奔した。なお盛重は佐竹氏の秋田移封にも従い、姓を伊達に復して横手城代となっている。
 国分領が伊達氏の直轄支配を受ける様になった天正十五年(1587)以降、松森城は大崎領へと臨む境目の城として戦略的に重要視された。政宗は大崎領内への侵攻に備えて松森城に軍勢を置き、田副帯刀助、石母田左衛門景頼、次いで北目城主粟野大膳宗国、沖野城主粟野助太郎国治兄弟らが在番衆として差し置かれている。
 その後慶長年間(1596-1615)頃には廃城になったものと思われ、藩政時代には旧城下で仙台藩による軍事調練の場所として利用されている。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第四巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)、「歴史群像シリーズ19 伊達政宗」(学習研究社1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「ビッグマンスペシャル 歴史クローズアップ 伊達政宗」(世界文化社1995)、「歴史群像名城シリーズ13 仙台城」(学習研究社1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「歴史と旅 2000年10月号 城物語」(秋田書店2000)、「歴史群像シリーズ戦国セレクション 風雲 伊達政宗」(学習研究社2001)、「歴史と旅 2001年7月号 奥州王 伊達政宗の野望」(秋田書店2001)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く22 仙台城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく19 仙台城」(小学館2004)

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