仙台市若林区
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今泉城
今泉八坂神社解説板(友人提供)。
今泉八坂神社解説板(友人提供)。
【所在地】 仙台市若林区今泉
【別称】 玄蕃館
【築城年】 室町時代か
【築城者】 須田氏か
【城主変遷】 国分氏[須田氏]…伊達氏[須田氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地
 国分氏家臣須田玄蕃が天正年間(1573-92)に居住したとされる。
 戦国時代名取郡今泉は粟野氏の所領である沖六郷と称された地域であると推定されているが、国分氏系図の中には南北朝時代戦功により北畠顕家から今泉に隣接する飯田、日辺を与えられたとするものがあり、どの様な所領の推移があったかは窺い知れない。何れにしても、天文七年(1538)の伊達氏『段銭古帳』に記載があることから、天文年間(1532-55)には伊達氏の勢力下にあったものと考えられる。なお国分氏の名跡は天正年間初期に伊達晴宗の子、そして輝宗の弟である盛重(政重)が継承し、ほぼ伊達氏の被官となっている。また輝宗の殉死者に須田伯耆の名が見え、政宗に仕えた家臣の名に須田玄蕃の名が見られるが、関係は不明である。

 東西、南北とも約200mの規模を持つほぼ方形の平城であったと考えられている。以前は屋敷地、畑地となった城跡の周囲を帯状の水田が巡り往古の様子が確認出来た様だが、現在は一面の宅地となり遺構は失われ、城跡の一角に写真の解説板が建てられている。
 なお以前は今泉城跡として遺跡登録されていたが、現在は縄文時代より続く複合遺跡として今泉遺跡として登録されており、中世以前の遺物も多数発掘されている。

 ここは友人のゆきむらくんに教えて貰い、写真の提供を受けた城館跡です。彼が何故ここに行ったかは不明…、彼の家の近くなのは確かですがねえ?母校のすぐ近くながら、学生の頃は存在すら知りませんでした(笑) 仕事で仙台へ行ったときに訪問しましたが、特に目立った遺構は遺っていないため、やっぱり神社への参拝で終わっています。
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沖野城
沖野城跡(清涼寺)。
沖野城跡(清涼寺)。
【所在地】 仙台市若林区沖野7
【別称】 沖館、沖ノ城
【築城年】 永正二年(1505)か
【築城者】 粟野氏
【城主変遷】 粟野氏…
【廃城年】  
【現状】 清涼寺、宅地
 明確な築城年代は不明だが、沖野八幡神社の由来書によると、文治三年(1187)粟野大膳が築城、武運長久を願って八幡社を勧請したという。しかしそこまで時代が遡るとは考えられておらず、造営時期は戦国時代、粟野氏が宮城、名取郡へ勢力を拡大した頃であろう。
 資料に現れるのは、永正二年(1505)北目城主粟野国定が居城を嫡男高国へ譲り、自らは沖六郷分と呼ばれた当地へ移り、沖ノ館に住したとするものである。また高国の子刑部国勝が国定より隠居分を譲られ沖ノ館に居住したが、伊達稙宗に従って従軍した享禄元年(1528)の小手森合戦で討死したという。またこの国勝については、沖館を「進退断絶」の末に退去、病死したとするものもある。
 沖野城はその後、北目城と並んで伊達氏の大崎氏に対する最前線の一つとなり、また粟野氏にとっても、北目城、茂ヶ崎城と並んで重要な拠点の一つとなった。天正年間(1573-92)の城主は、粟野高国の孫、左衛門尉(助太郎)国治であり、北目城主大膳亮重国(宗国)の弟である。重国、国治兄弟は伊達氏の有力家臣となり、各地の合戦で活躍、天正十六年(1588)大崎領侵攻の際には松森城の城番を命ぜられている。
 なお沖野城の廃城に関して、史実とする裏付けはないが以下の様な話が伝わっている。大川(広瀬川)を挟んで北目城、沖野城に居住していた重国、国治兄弟だったが、川の浸食が北目城のすぐ際まで進んだため、重国が川除(堤防)を築いた。そのため逆に沖野城が浸食に晒される結果となり兄弟の争いに発展、まず国治が伊達政宗へと訴え出たが、政宗は重国側の主張も尋ねそれを是とした。主張を受け容れられなかった国治は逃亡を余儀なくされ、国治の所領を併せ得た重国は沖野城を跡形もなく焼き払ってしまったという。

 現在は宅地化が進み、また北辺を破壊する形で陸上自衛隊霞目飛行場が開設されており、遺構はほとんど破壊されている様です。宅地内にほんの一部土塁が現存している様ですが未確認…、機会があったら(そして私有地でなければ)崩されてしまう前に見に行きたいと思っています。
 なお霞目は某博士の名前のモデルとなったらしいですが、怪しげな寄生虫を創造ってはいないはず…ジョジョ世代には解らんか〜(笑)
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若林城
若林城跡碑、解説板。
若林城跡碑、解説板。
【所在地】 仙台市若林区古城2
【別称】 (小泉城)
【築城年】 寛永五年(1628)
【築城者】 伊達政宗
【城主変遷】 伊達氏(1628-36)
【廃城年】 寛永十三年(1636)
【現状】 宮城刑務所
 寛永五年(1628)屋敷と称して築かれた伊達政宗の隠居城。この地は戦国時代に宮城郡を領した国分氏の居館、小泉城が築かれた場所ともいわれる。なお小泉城の所在地は今なお明確でなく、若林城周辺では同時期の屋敷跡が幾つか発掘されており、この若林城もあくまで擬定地の一つとなっている。
 平城とするには防御施設が貧弱で、むしろ若林屋敷と称した方が実態に即した備えとなっている。しかし周囲には一門以下の家臣屋敷が造営され、米町、絹布町などの町屋敷も置かれ、一個の城下町の観があったという。
 政宗は晩年、正月行事などで仙台城を訪れるほかは日常生活の大部分をこの城で過ごした。そして寛永十三年(1636)、仙台藩江戸屋敷に於いて70歳でこの世を去ると、遺言通りこの城は破却され家臣屋敷は順次仙台城下へ、建造物は仙台城二の丸へ移された。

 東西約400m、南北約350mの規模を持つ平城で、跡地には明治十二年に宮城集治監(現在の宮城刑務所)が建てられたため、自由に内部には立ち入れない。しかしほぼ当時と同じ外郭線となっており、刑務所の周囲を巡る煉瓦塀は土塁上に築かれ、その外側には水堀跡が残る。北東、北西隅と南辺中央部に張出しがあり、西辺の大手門のほか、東、北辺中央部にも出入口があった。なお構内には、政宗が朝鮮出兵時に持ち帰ってきたと伝えられる“臥竜梅”があり、国指定天然記念物となっている。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第四巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)、「歴史群像シリーズ19 伊達政宗」(学習研究社1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「ビッグマンスペシャル 歴史クローズアップ 伊達政宗」(世界文化社1995)、「歴史群像名城シリーズ13 仙台城」(学習研究社1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「歴史と旅 2000年10月号 城物語」(秋田書店2000)、「歴史群像シリーズ戦国セレクション 風雲 伊達政宗」(学習研究社2001)、「歴史と旅 2001年7月号 奥州王 伊達政宗の野望」(秋田書店2001)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く22 仙台城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく19 仙台城」(小学館2004)

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