仙台市宮城野区
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岩切城
岩切城跡碑。
岩切城跡碑。
【所在地】 仙台市宮城野区岩切入山
【別称】 高森城、鴻の館
【築城年】 文治五年(1189)か
【築城者】 留守家景
【城主変遷】 留守氏…大崎氏[留守氏]−伊達氏[留守氏]
【廃城年】 元亀年間(1570-72)か
【現状】 県民の森、高森山公園
 文治五年(1189)奥州合戦で奥州藤原氏を攻め滅ぼした源頼朝は、伊沢将監家景を陸奥国留守職に任じた。家景は国府多賀城に着任し、以降留守氏を称して代々岩切城を居城としたとされる。しかし鎌倉時代の居館が要害堅固な高所に築かれたとは考え難いため、実際はの築城年代は南北朝時代であろうと考えられている。留守職は鎌倉時代中期には形骸化したが、留守氏は地頭として陸奥国の有力な武士に発展していった。

 元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始められると、義良親王を奉じた北畠顕家が陸奥守として多賀城に着任した。しかし新政はわずか2年余で失敗に終わり、陸奥国内も南北朝の争乱に巻き込まれて行く。留守家任は初め顕家に従って南朝方に与するが、後には北朝方に転換した。
 正平元年(貞和二・1346)足利尊氏が吉良貞家、畠山国氏を奥州管領職に任ずるが、その後尊氏と弟直義の対立が激化し観応の擾乱が始まると、管領家も二派に分かれて対立するようになる。家任は畠山、宮城氏らと共に尊氏方に与し、直義方の吉良、和賀、結城氏らと相争った。そして正平六年(観応二・1351)、岩切城に立て籠もった家任ら尊氏方は留守氏の
余目城と連携して直義方の軍勢に備えたが、両城の連絡を遮断され、国氏以下一族郎党百余人が討死、切腹し落城した。この戦いで留守氏も衰退し、所領は八幡氏や国分氏によって押領されてしまう。

 その後留守氏は、応永七年(1400)以降に奥州管領職を世襲するようになった大崎(斯波)氏傘下で勢力回復を図るが、伊達氏の勢力が北上してくると両勢力の狭間に立たされてしまう。そして内部は大崎派と伊達派の抗争が深刻となり、最後に伊達派が勝利して伊達氏からの入嗣を受け入れ、徐々にその家臣団へと組み込まれて行く。その結果、留守氏は伊達氏の勢力を後盾に本来の目的である勢力回復を果たすが、入嗣も二度三度と繰り返され、18代政景(伊達氏15代晴宗三男)の代には伊達氏の親族として幾多の合戦に参陣、その中心勢力となり独立性は失われていった。
 元亀年間(1570-72)政景は留守氏一族の有力者で、自身の入嗣の際に強硬に反対した村岡兵衛を武力で鎮圧、滅亡させ、その居城であった利府城へと居城を移し、以降岩切城は廃城となったという。

 なお、留守氏は天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で伊達家中と見なされて所領没収となり、伊達氏家臣として黒川郡大谷へ移住した。その後さらに磐井郡黄海、同郡清水と居城を転々と移された後、一関城に2万石を以て配され明治まで居城とした。清水に在ったとき伊達一門に列せられ、政景の嫡男宗利の代に伊達姓を称することを許されている。
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鞭館
鞭館擬定地の榴ヶ岡公園。オールスターゲームすら降雨コールドにした雨の中での撮影。
鞭館擬定地の榴ヶ岡公園。
オールスターゲームすら降雨コールドにした雨の中での撮影。
【所在地】 仙台市宮城野区五輪1
【別称】 国分原鞭楯
【築城年】 文治五年(1189)か
【築城者】 藤原泰衡
【城主変遷】 奥州藤原氏(1189)
【廃城年】 文治5年(1189)か
【現状】 榴ヶ岡公園
 文治五年(1189)源頼朝の奥州藤原氏討伐、いわゆる奥州合戦の際、藤原氏4代当主泰衡が本陣を置いた国分原鞭楯がこの地と擬定されている。

 泰衡は討伐軍に対し、阿津賀志山に長大な防塁を構築して異母兄西木戸太郎藤原国衡以下2万の軍勢を配すと共に、刈田郡に城を築き、名取川、広瀬川に大縄を張って迎え撃った。しかし奥州勢は石名坂、阿津賀志山合戦で敗れ、実質的な大将であった国衡も討死し、泰衡は鞭館での抵抗を諦めて本拠地である平泉へと退いたという。
 なお奥州合戦後、鎌倉御家人工藤三郎時祐の子次郎祐朝や国分氏が当地に拠ったともされるが、明確な根拠は無い。

 フルキャストスタジアム宮城(当時)でオールスターゲーム観戦後、宮城野原駅から乗車するのは混雑するかと思い仙台駅までてくてく徒歩移動。その途中でふと思い出し、相方のゆきむらくんの案内で榴ヶ岡公園へ。案内が無ければ市内も歩けなくなっていた仙台出身者、やや悲しい。
 仙台で生まれ育っていながら、駅東口方面なんて平地ばかり続いている、というイメージがありましたが、榴ヶ岡の名前の通り比高5〜10mほどの丘陵地なんですねー。城館が構えられてもおかしくない立地で、伊達政宗が仙台城を築城する際の候補地の一になったというハナシも全くのデタラメではなさそう…?
 しかしながら遺構は全く認められず、周囲の開発に伴う小規模な発掘調査でも確認されていない様です。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第四巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)、「歴史群像シリーズ19 伊達政宗」(学習研究社1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「ビッグマンスペシャル 歴史クローズアップ 伊達政宗」(世界文化社1995)、「歴史群像名城シリーズ13 仙台城」(学習研究社1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「歴史と旅 2000年10月号 城物語」(秋田書店2000)、「歴史群像シリーズ戦国セレクション 風雲 伊達政宗」(学習研究社2001)、「歴史と旅 2001年7月号 奥州王 伊達政宗の野望」(秋田書店2001)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く22 仙台城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく19 仙台城」(小学館2004)

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