山形市
トップさくらとおしろ山形県山形市飯田館
飯田館
飯田館跡標柱。
飯田館跡標柱。
【所在地】 山形市蔵王飯田
【別称】  
【築城年】 戦国時代
【築城者】 飯田播磨守
【城主変遷】 最上氏[飯田氏]…
【廃城年】  
【現状】 耕作地
 戦国時代、山形城主最上氏家臣飯田播磨守が、尾花沢本飯田より所替となった際に構築したとされる。

 播磨守は、慶長五年(1600)関ヶ原合戦に伴う出羽合戦の際、谷柏相模守、富並忠右衛門、日野伊賀守らと共に畑谷城救援に赴くが、到着時既に畑谷城は落城後であった。播磨守は敗残の兵を逃すため、上杉勢と戦い討死したという。


 比高約10mの丘陵に曲輪が二つ続き、周囲を帯曲輪が巡っている。軍事的な要害という趣はなく、日常的な居館であったと推察されている。


 現在は耕作地として利用され、かなりの改変を受けているようです。
トップさくらとおしろ山形県山形市長岡館
長岡館
長岡館跡入口、解説板。
長岡館跡入口、解説板。
【所在地】 山形市村木沢
【別称】 村木沢館
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】 最上氏[神保氏、江口氏]…
【廃城年】  
【現状】 公園、耕作地
 最上四十八館の一で、山形城の支城として狐越街道方面からの上杉勢に対する警備の要地であった。築城年代は定かでなく、館主も最上氏家臣神保隠岐守、江口五兵衛光清らの名が伝わるが確証はない。

 慶長五年(1600)関ヶ原合戦に伴う出羽合戦では上杉氏の手に落ちたものと見られ、山形城の前衛である長谷堂城攻撃中に西軍の敗報に接した直江山城守兼続率いる上杉勢が、陣を引いた後にこの地に宿営した。最上勢の追撃は激しく、その撤退戦で重傷を負った軍奉行溝口左馬介がこの地で相果て、その首を洗ったのが首洗い井戸であるという。


 比高20mほどの南北に細長い主郭を中心に、3段ほどの腰郭を巡らせた単純な造りであり、かつては周囲を堀が巡っていたという。


 現在館跡には、大正時代に開かれた佐倉の義民木内宗吾の霊神を祀った霊場となり、公園、耕作地化されております。
トップさくらとおしろ山形県山形市中野城
中野城
中野城跡碑。
中野城跡碑。
【所在地】 山形市中野
【別称】  
【築城年】 文中年間(応安五‐永和元・1372-75)
【築城者】 中野満基
【城主変遷】 最上氏[中野氏]…
【廃城年】 元和八年(1622)
【現状】 大郷小学校、宅地
 文中年間(応永五‐永和元・1372-75)山形城主最上氏3代満直の二男満基が築城し、以後代々中野氏を称して居城した。
 山形城の重要な支城であった中野城は、出羽国南方の置賜郡を掌握する伊達氏の動向を意識して築かれた城であり、山形城が危急の際にはこの地に退き、陣営を立て直して他日を期すという目的を持って築かれていた。

 城主中野氏は、初代満基以降代々最上宗家と最も関係の強い一族であり、度々宗家の当主を輩出する家柄だった。大永二年(1522)伊達稙宗の干渉により僅か2歳で宗家10代を継いだ義守も、この中野氏からの養子である。
 義守の家督継承後、最上氏はその経緯により事実上伊達氏の勢力下にあった。しかし義守が長じてからは勢力の回復を図り、天文十一年(1542)に始まった伊達稙宗、晴宗父子の内訌、天文の乱の後にはその支配から脱している。

 元亀元年(1570)、義守は家督相続に当たり、常々疎んじていた嫡男義光を廃嫡の上、次男義時を家督に据えようと画策した。そのため両者に確執が生ずるも、重臣氏家伊予守定直の仲裁によって収束し、同年(翌年とも)義光が家督を相続、義守は隠居して栄林と号し、義時は中野氏を相続することとなった。
 しかし最上氏当主となった義光は、最上宗家の支配力拡大のために周辺諸勢力に強硬な姿勢で臨んだため、これに対して諸勢力は義守、義時を担いで反発、父子の対立が再燃する。天文二年(1574)義守は女婿となっていた伊達輝宗(晴宗の子)に援軍を要請、義父を援ける名目で再び伊達氏も最上領へ兵を進めた。
 当初は不利な状況に置かれた義光だったが、逆にこの期に独立色の強い一族や諸勢力の粛清、統制を行なうことに成功した。また輝宗も領内南方に不安が生じ、谷地城主白鳥十郎長久の斡旋で義光が有利な形での和議が成立するなど、結果最上氏の勢力確立が果たされることとなった。
 なおこの合戦の最中、義光は中野城を夜襲し義時を討ち取ったとされる。しかし中野義時の名前や、義光による中野城攻撃の記述が一級資料には現われないことから、今日では義時の存在が疑われており、またこの合戦自体の存在も疑われている。

最上義光が勢力を確立した後、当地はその直轄領となり中野城には城代が置かれたとされるが、元和八年(1622)に最上氏が改易となると廃城、破却されたという。

 中野満基が初めて築城した後、徐々に城域は拡張され、最終的には東辺324m、西辺360m、南辺200m、北辺300mの規模であったという。周囲には土塁、幅約5〜10mの堀に囲まれ、大手は南面に開かれていたとされる。なお現在も周囲には当時を偲ばせる地名が残っている。

 現在本丸跡は大郷小学校の校地となっており、石碑が建てられています。ここに訪問したのは、多分東北楽天が中山町や天童市で盛んにイースタンリーグ公式戦を開催していた2005年〜頃だと思うので、やっぱりかなり前ですねー。
トップさくらとおしろ山形県山形市成沢城
成沢城
成沢城跡標柱。
成沢城跡標柱。
【所在地】 山形市蔵王成沢
【別称】 鳴沢城
【築城年】 弘和三年(永徳三・1383)
【築城者】 大極兼義
【城主変遷】 最上氏[大極氏、成沢氏、坂氏、氏家氏、安食氏、寺内氏](1383-1622)
【廃城年】 元和八年(1622)
【現状】 成沢城址公園
 出羽国按擦使として山形へ入部した斯波兼頼は、正平十二年(延文二・1357)居城山形城を築城し、以降最上氏を称して出羽国内の南朝勢力の駆逐、斯波氏の勢力拡大に務めた。そして兼頼の子直家は子息を領内の要所に分封し、成沢を与えられた六男大極兼義が領内南方への備えとして弘和元年(永徳元・1381)泉出城を築城、さらにその2年後に神託を得て築いたのが成沢城であった。築城に当たり八幡神社を現在地へ遷したという。

 成沢城は山形城南方の最前線として重視され、天正六年(1578)の柏木山合戦に於いては最上勢の拠点となり、米沢城主伊達輝宗の後援を受けた上山城主上山満兼の軍勢を退けている。なおその際の城主は成沢道忠であり、道忠は義光股肱の臣、氏家尾張守守棟の従弟であった。その後道忠の子光氏は守棟の養子となり、尾張守光氏を称して氏家氏の家督を継承している。

 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦に伴う出羽合戦の際は坂紀伊守光秀が城主であったが、戦後長谷堂城救援の功により長谷堂城主に任ぜられている。以後は氏家光氏、安食大和守、寺内薩摩守らが城主となったが、元和八年(1622)最上氏の改易に伴い廃城となった。


 規模は南北580m、東西350mに及び、コの字形の南側が本丸、北側が二の丸にという一城別郭の縄張りとなっている。両者間は尾根道で連絡されており、また周囲には幾重にも曲輪が配置されているが、現在は耕作地となりかなり削平されている。本丸には秋葉社が鎮座しており、その下には八幡神社、並びに天仁二年(1109)に建てられたという国重要文化財指定の石鳥居がある。


 現在は成沢城址公園として整備されており(訪問時は整備中の頃でしたが)、わたしは幾つかある登城口の中の南東部、虎口が残る大手口から上りました。りんと手を繋ぎながらほてほて進むと本丸に至り、暫しの間夢中になって写真撮影をしていると事件発生…りんが大人しくしてると思ったらおもらししてました(子どもを顧みないだめな大人)。取り敢えず濡れたぱんつを脱がせ、急ぎ下山して車へ戻りお着替え。こんなことを当時は何度か繰り返しておりましたが、県外ナンバーの車中で幼女のぱんつを脱がせている男、怪しさ大爆発だ…。
トップさくらとおしろ山形県山形市長谷堂城
長谷堂城
長谷堂城跡碑。
長谷堂城跡碑。
【所在地】 山形市長谷堂
【別称】 亀ヶ城
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】 最上氏−伊達氏[小梁川氏]−最上氏[志村氏、坂氏]
【廃城年】 元和八年(1622)
【現状】 長谷堂観音堂、稲荷神社
 築城年、築城者は定かでないが、伊達文書の永正十一年(1514)に“最上氏と戦い長谷堂を陥とす”といった記述が見られることから、その頃には既に山形城の支城としての形態を備えていたと推察されている。なお「日本城郭大系」には、文禄三年(1594)志村伊豆守光安が築城したとあり、慶長五年(1600)の長谷堂合戦の頃には小城には似合わないほど抜群の防御設備が整えられていた。

 前述の伊達文書の記載によると、永正十一年(1514)の長谷堂合戦では楯岡、長瀞以下千名の最上兵を斬り、その後城将として小梁川親朝を置いたとある。この合戦で敗れた最上氏は、以降伊達氏の介入を受け、その勢力下に置かれることとなった。その支配は、天文十一年(1542)頃に最上義守が長谷堂城奪還を果たすまで続いた。

 伊達氏の支配を脱した後、最上義守、その子義光は最上氏の勢力回復を果たし、豊臣秀吉の統一事業が完了した安土桃山時代には奥羽を代表する大名の一となった。その頃も長谷堂城の重要性は失われず、伊達氏に代わって置賜郡を支配する米沢城主直江兼続に対する備えとして重視された。というのも、兼続の主君である会津若松城主上杉景勝の所領は、最上氏の所領である出羽国最上、村山郡を挟んで出羽国庄内地方と陸奥国会津地方に分断されており、上杉氏が対立を深めていた徳川氏と事を構えるためには、戦略上最上領併呑が必要だったためである。

 慶長五年(1600)、徳川家康が上杉景勝討伐の兵を挙げると、その動きに合わせて西国では石田三成が家康打倒の兵を挙げた。三成の挙兵を知った家康は下野国小山より反転し西上、関ヶ原合戦が行われることとなる。家康の転進により挟撃の恐れがなくなり、逆に会津、庄内両面からの最上領侵攻が可能となった景勝は、直江兼続を大将に2万を越える軍勢で侵攻を開始した。
 上杉勢の大軍に対して最上勢の総兵力は7千ほどであり、さらにその兵力を領内諸城に分散配置していたため、それぞれの守備兵は僅かであった。それでも最上勢は各地の地の利を活かして寡兵ながら善戦したが、その兵力差は明らかであり、上杉勢によって次々と攻め落とされていった。そして畑谷城を攻め落とした兼続は、さらに山形城から僅か8kmほどに所在する、山形城防衛の最後の拠点であった長谷堂城下へと攻め寄せた。
 長谷堂城の守備兵は城主志村光安以下僅か千ほど、寄せる兼続の軍勢は1万8千の大軍であり、兼続はその兵力を背景に力攻めを敢行した。それに対し籠城する光安は巧みに防戦に努め、時に夜襲を敢行して同士討を引き起こすなど終始兼続を翻弄した。上杉勢はその後も上泉主水、岩井備中、松本杢之介ら多数の将士の討死を出しながら懸命に攻め寄せるも、ついに関ヶ原合戦での西軍の敗報に接し撤収した。

 この合戦で寡兵ながらも長谷堂城を守り切り、最上氏の窮地を救う奮戦を見せた光安は、関ヶ原合戦後に最上氏へと加増された庄内東禅寺城3万石の城主に任ぜられた。光安に代わり、長谷堂城は合戦の際に救援で功を挙げた坂光秀に3万石を以って与えられ、その後整備、拡張が行われたが、元和八年(1622)最上氏の改易に伴い廃城、破却された。なお最上氏改易の際、長谷堂城の受け渡しを任ぜられたのは、兼続の主君上杉景勝であった。

 訪問時、長谷堂集落内に“長谷堂城大手入口”とかいう小さな案内板を発見。その表示に従い進んでみると、城山へと続く草むらに人の歩いた形跡。その時は夏の盛りだったのでサンダル履きだったんですが、躊躇しながらも進入してみました…が直後に後悔しました。血中色素が薄かったので、ダッシュ&ゴーを繰り返しながら坂道を駆け上がったんですが、なぜそんな真似をしたかと言うと、低酸素状態に陥り息切れするので呼吸を整えていると、足許でザトウムシ(脚がやたら長いクモみたいなやつ!)が歩いてるのが見えるんですよー(>△<。 わたし虫に耐性がないもので…。
 そんなこんなでへろへろになりつつ登った本丸は平坦でけっこう広く、山形市内や蔵王連峰が一望に見渡せ、立派な城趾碑が建てられています。そして一頻り周囲を歩いていると、何やら別な通路を発見。行ってみると立派に整備された搦手口の登城路と解説板が設置されておりました(-_-) わたしは皆様には心から大手口から訪問をお勧め致します。
 というか、暫く訪問してないけどどうなってるのかなー大手口。
トップさくらとおしろ山形県山形市門伝館
門伝館
門伝館堀跡。
門伝館堀跡。
【所在地】 山形市門伝
【別称】  
【築城年】 慶長五年(1600)
【築城者】 伊良子弾正
【城主変遷】 最上氏[伊良子氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地
 慶長五年(1600)関ヶ原合戦に伴う出羽合戦の際、山形城主最上氏家臣伊良子弾正が構築し、最上領へと侵攻する米沢城主直江兼続率いる上杉勢に備えた陣所である。
 なお出羽合戦に際して新たに取り立てられたとされているが、当地に所在した古館を修築したともいわれており、その詳細は不明である。

 東西約50m、南北約150mほどの規模を持ち、比高約5mほどの低い丘陵上に4段ほどの平場が置かれている。丘陵上は宅地となり改変されているが、周囲を取り巻いていた堀跡が現在も確認出来る。

 現在は個人宅となっているので、訪問時は堀跡のみの確認でした。その堀跡のところに確か標柱が建てられていたと思うけど…かなり前なので改めて訪問したいですね。
トップさくらとおしろ山形県山形市山形城
山形城
山形城跡最上義光騎馬像(カッコイイ)。
山形城跡最上義光騎馬像(カッコイイ)。
【所在地】 山形市霞城町
【別称】 霞城、霞ヶ城、吉字城
【築城年】 正平十二年(延文二・1357)
【築城者】 斯波兼頼、最上義光、鳥居忠政ら
【城主変遷】 最上氏(藩政3代・1357-1622)−鳥居氏(2代・1622-1636)−保科氏(1代・1636-43)−松平(越前(直基系))氏(1代・1644-48)−松平(奥平)氏(1代・1648-1668)−奥平氏(2代・1668-85)−堀田氏(1代・1685-86)−松平(越前(直基系))氏(1代・1686-92)−松平(奥平)氏(2代・1692-1700)−堀田氏(3代・1700-46)−松平(大給)氏(1代・1746-64)−秋元氏(4代・1767-1845)−水野氏(2代・1845-69)
【廃城年】 存城
【現状】 霞城公園、市街地
 国指定史跡。日本100名城の一。

 奥州管領職(後の奥州探題職)斯波家兼の子兼頼が、出羽国按擦使として山形に入部し、正平十二年(延文二・1357)に築城したのが始まりである。斯波氏はその後最上氏を称して勢力を拡大、戦国時代には最上義光によって現在残る山形城の基礎が造られた。

 斯波氏は足利氏一族であり、家兼は足利尊氏が鎌倉幕府打倒の兵を挙げて以降これに従い、室町幕府成立に大きく貢献した。兼家は当初若狭国守護を務めていたが、正平九年(文和三・1354)奥州管領職に任ぜられて陸奥国へ下向、中新田城を拠点に勢力を拡大する。そして正平十一年(延文元・1356)、家兼の子兼頼が寒河江氏、山家氏ら出羽国の南朝勢力を抑えるために山形へと移り、翌年山形城を築いた。その後兼頼は南朝勢力を一掃、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称され、以降最上氏を称して出羽国内に地盤を固めた。

 しかし、当初斯波氏の勢力拡大を図って領内各地に分封した一族はやがて独立傾向を強め、次第に同族間での内訌が激しくなる。この内訌は他家に付け入る隙を与え、永正十一年(1514)伊達稙宗が最上領へ侵攻、長谷堂城を攻め落としてさらに山形城へと迫った。ここは当主最上義定が稙宗の妹を室とすることで和睦が成立したが、同十七年(1520)義定が継嗣のないまま没すると、最上氏の傀儡化を図る稙宗の干渉が強まった。これに対して最上家中は当然激しく反発、上山城主里見義房らが兵を挙げるが、稙宗は叛乱討伐の口実を得て最上領内に兵を進め、上山城、天童城高擶城などを一気に攻め落とし、山形城をも制圧した。そして稙宗は、最上氏一族中野氏より僅か2歳の義守(義定弟中野義建孫)を当主に据え、養母として実権を握る義定夫人を介して実質的に勢力下に置くことに成功した。

 幼少の当主義守の下、伊達氏の勢力下にあった最上氏だったが、その伊達家中で天文十一年(1542)に稙宗、晴宗父子の対立から家臣団、そして南奥羽の諸勢力を二分する天文の乱が起こると、独立に向けて歩み出した。義守は長谷堂城の奪還を手始めに失った所領の回復、拡大を進め、また外交面でも将軍足利義輝に拝謁し、嫡男義光に偏諱を賜るなどの成果を挙げ、乱終結後には戦国大名としての地位の確立に成功した。なお天文七年(1564)には、娘を伊達晴宗嫡男輝宗に嫁がせている。
 元亀元年(1570)、義守と義光の間で家督相続を巡る対立が生じ、再び伊達氏の介入を招く事態となるが、その後義光が家督を相続する。以降義光は独立色の強い一族、国人衆の粛清、統率を強行に推し進めて出羽国内に確固たる勢力を築き上げた。天正十八年(1590)には豊臣秀吉の小田原城征伐に参陣して所領を安堵され、また慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では徳川家康に与して東軍として行動し、江戸幕府成立時には出羽国山形城57万石を領する大大名となった。

 伊達氏と並んで東北を代表する大身となった最上氏だったが、義光の家督相続に当たっての長子義康の暗殺事件や、義光死去後も重臣間の対立による家中の不和が続き、元和八年(1622)最上騒動によって3代藩主義俊は改易を命じられた。斯波氏の流れを汲む名族である最上氏は断絶を惜しまれ、義俊には改めて近江国大森に1万石が与えられて大森藩が立藩されたが、義俊早世後跡を継いだ義智が幼少であったため5千石に減知となり、子孫は交代寄合として存続した。

 最上氏改易後、その旧領は分割され諸藩が分立する状況となり、山形藩には磐城平城12万石より譜代大名鳥居忠政が22万石に加増の上入封した。忠政は関ヶ原合戦の前哨戦となった伏見城合戦で討死した鳥居元忠の嫡男であり、幕府の信任は非常に厚く、この移封は東北地方に存在する伊達氏、佐竹氏、上杉氏らの外様大名を抑えるためであった。忠政はこの移封の意味合いから家臣団の増強、そして山形城及び城下の整備、改修を行い、近世山形城はこの頃に完成した。
 その鳥居氏も寛永十三年(1636)僅か2代で改易となり、以降は譜代、徳川氏一門11氏が相次いで藩主となった。しかし、泰平の世となって山形藩の東国の抑えとしての価値は下がり、それに伴い石高の減少も続き、弘化二年(1845)最後の山形藩主となった水野氏は5万石であった。江戸時代中期以降は、国政不取締、失政などによる左遷大名の居城地の観さえあったと言われる。
 山形城も度重なる藩主の交代、石高の減少により広大な城域の維持が困難となり、江戸時代末期には本丸は更地、二の丸に秋元涼朝が明和四年(1767)に築いた御殿が置かれ、三の丸西半分は畑地になっていたという。

 現在は二の丸跡が霞城公園として整備されており、発掘調査及び建造物の復元が順次行われています。山形市内には大手南門が万松寺山門として、また御殿の一部が宝光院本堂として現存し、市街地に土塁も見られるんですが、仕事で行くのがほとんどだったので実はまだ未訪問なんですよねー(土塁は行ったけど写真撮ってない)。
 山形市内は当然頻繁に通るんですが、最後に市街地方面に行ったのはもうだいぶ前のこと。この更新をきっかけに久し振りに行ってみようかな?

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「出羽諸城の研究」(伊吉書院1980)、「山形県城郭古絵図展」(最上義光歴史館1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「図説 日本の名城」(河出書房新社1994)、「山形県中世城館遺跡調査報告書第2集 村山地域」(山形県教育委員会1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「古写真大図鑑 日本の名城」(講談社+α文庫1998)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「新全国歴史散歩シリーズ6 山形県の歴史散歩」(山川出版社2001)、「週刊名城をゆく36 山形城」(小学館2004)

ご意見、ご感想は下記まで。
sakushiro.3946@gmail.com