会津若松市
旧会津若松市 - 旧若松市(〜S29)
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小館
古館山稲荷神社。
古館山稲荷神社。
【所在地】 会津若松市本町
【別称】 古館、西館、西黒川館
【築城年】 弘和二年(永徳二・1382)
【築城者】 蘆名直盛
【城主変遷】 蘆名氏(1382…)−伊達氏(1589-90)
【廃城年】  
【現状】 小館山稲荷神社、市街地
 天授五年(康暦元・1379)会津へ下向した蘆名氏7代直盛は、始め飯寺館幕内館か)に居住し、次いで弘和二年(永徳二・1382)この地に館を築いて移り住んだという。そしてさらに二年後の元中元年(至徳元・1384)、新たに築いた東黒川館(小高木館、のちの黒川城)へ移った。故にこの館を西黒川館ともいう。直盛が東黒川館に移ったのちは、この地は融通寺に与えられた。

 天正十七年(1589)摺上原合戦で蘆名氏を破った伊達政宗は、
米沢城より黒川城へと居城を移し、母保春院(義姫)を呼び寄せてこの地に住まわせた。
 政宗はさらに関東進出の野望を持っていたが、西国では既に豊臣秀吉による天下統一が着々と進んでおり、翌年には北条氏の拠る
小田原城攻撃に参陣するよう度々催促を受けていた。しかし伊達氏は古くから北条氏と誼を通じており、その督促にも政宗は去就を決めかねていた。家中の意見も二つに割れ、重臣の中にはもはや時期を逸したとし、政宗を殺害したのち弟小次郎を擁立、政宗の首を土産に伊達氏の安泰を図るべきと言う者まで現れる事態であった。
 そのような状況の中、政宗は母から夕食の招きを受ける。しかしその膳には、重臣の後押しを受けた母が、政宗を殺害すべく毒が盛られていたのである。政宗は食事を吐き出して九死に一生を得、母、そしてその背後の家臣の目論見を断つべく実弟小次郎を自ら殺害して後顧の憂いを断ち、小田原への参陣を果たした。なお、母保春院はその後実家である最上氏を頼り山形へと逃れた。
 小田原参陣を果たした政宗ではあったが、秀吉の惣無事令(死闘禁止令)違反、そして遅参を理由に会津領は召し上げとなり、代わって蒲生氏郷へと与えられた。氏郷は黒川を若松と改めて城下を整備、この地にあった融通寺を他所に移し、新たに城安寺(現在は廃寺)を興している。

 現在の小館山稲荷神社周辺が館跡であるとされるが、市街地となっており面影は見られない。

 融通寺は現在も市内大町にありますが、現在本町となっているこの地の旧町名は融通寺町といいます。本町商店街の呉服屋さんの裏に小館山稲荷神社があり、この神社は小館が築かれた際に東端に造営されたという由緒ある神社だそうです。
 市街地化されていて全く面影はないですけど、フィクションとは言え?政宗毒殺未遂事件の舞台となった場所と考えると、なかなか感慨深いものがあります。
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允殿館
蒲生秀行廟。
蒲生秀行廟。
【所在地】 会津若松市館馬町
【別称】 尉殿館
【築城年】 宝徳三年(1451)
【築城者】 松本通輔
【城主変遷】 蘆名氏[松本氏](1451…)
【廃城年】  
【現状】 館薬師堂、薬師公園、宅地
 宝徳三年(1451)黒川城主蘆名氏重臣松本右馬允通輔の居館として構築されたという。

 松本氏の出自は信濃国とされ、蘆名氏へ臣従した時期は不明ながら、四天宿老家の一として会津各地に勢力を拡大した。その実力が軋轢を生じさせたものか、主家への叛乱や、蘆名氏より討伐を受けたとされる記録が非常に多い一族であった。

現在は会津五薬師の一、館薬師堂の敷地となっており、またその境内地は現在の会津若松市の基礎を築いた蒲生氏郷の子、秀行の廟所となっている。

 松本氏の居館としてではなく、蒲生秀行廟の所在地として有名♪ってな訳でもなく、わたしが会津に移り住んだ頃には市内観光地図にすら記載されてませんでした(^-^; むしろ会津五薬師としてのが有名かも。初めて訪問したのは、“館馬町”、“館脇町”、“対馬館町”という明らかな城館関連地名に惹かれて行っただけなので、蒲生秀行廟があったことに驚かされましたねー。
 でも会津の方って、氏郷さんにはそれなりの敬意を払いつつも、秀行さん以降は余りにないがしろにされている様な…。確かに事績も振るわないかもしれないけど、宇都宮から会津領主に返り咲いた、会津藩60万石の太守なのに…。氏郷→上杉景勝→保科正之で片付けられている様な気がします。
 因みに会津五薬師の一、北山(漆)薬師はウチの近くに所在します。秀行さんのお腹がイタイのも治っちゃうんですぜ。
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対馬館
対馬館跡付近(県営対馬館団地)。
対馬館跡付近(県営対馬館団地)。
【所在地】 会津若松市対馬館町
【別称】 中野館
【築城年】 明応元年(1492)
【築城者】 松本対馬
【城主変遷】 蘆名氏[松本氏](1492…)
【廃城年】  
【現状】 県営対馬館団地
 明応元年(1492)黒川城主蘆名氏家臣松本対馬が構築したとされる。

 対馬は明応九年(1500)正月、主である蘆名盛高に攻められ、弟松本勘解由の居城である綱取城へ逃れた。しかし盛高は、同年二月さらに綱取城を攻めてこれを落とし、対馬は誅殺された。

 現在は県営団地となっており遺構は残っていない。なおすぐ東側には、松本右馬允通輔の居館である允殿館が所在している。

 会津に住み始めた頃、市内観光地図を手に探検をしましたが、当然“対馬館町”、“館脇町”、“館馬町”などの地名が気になり訪問しました。当初は館薬師堂の所が対馬館の一部かと思っており、割とすぐに違うことに気付きましたが…団地の写真を撮るのも何だかなーとすーっと困っておりました(通報されてもやだし)。
 約20年振りくらいに再度訪問し、掲載した画像を撮影して来ました。対馬館町と館脇町の境界となっている水路なんですが、これがそのまま遺構とは捉えられないとしても、全く的外れでもないんじゃないかな…?
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若松城
若松城復元天守。
若松城復元天守。
【所在地】 会津若松市追手町
【別称】 会津城、黒川城、東黒川館、小高木館、小田垣城、小田山城、鶴ヶ城
【築城年】 元中元年(至徳元・1384)
【築城者】 蘆名直盛
【城主変遷】 蘆名氏(1384-1589)−伊達氏(1589-90)−蒲生氏(1590-98)−上杉氏(1598-1601)−松平(蒲生)氏(2代・1601-27)−加藤氏(2代・1627-43)−松平(保科)氏(10代・1643-1868)
【廃城年】 存城
【現状】 鶴ヶ城公園、公共施設、市街地
 国指定史跡。日本100名城の一。

 文治五年(1189)奥州合戦の功で、三浦氏一族の佐原十郎左衛門尉義連が源頼朝より会津四郡の地頭職を与えられたという。その後、義連の7代孫蘆名直盛が天授五年(康暦元・1379)会津へ下向、まず幕内館飯寺館か)に入り、次いで弘和二年(永徳二・1382)に小館へ、さらに元中元年(至徳元・1384)東黒川館に移ったとされ、その東黒川館が黒川城、後の若松城の起源であると一般的に考えられている。
 しかし創建時期は明確でなく、初めて文献上に現れるのは長禄四年(1460)「おたかきのたて」(小高木館)としてである。このように記録に現れる名称もいくつかあり、その中には小田山城を指すと思われる記録も混在している。しかし天文七年(1538)、蘆名氏15代盛舜の代に焼失し、同十二年に大規模な修築を受けたのちは、主に黒川城と称される様になった。

 蘆名氏は16代修理大夫盛氏の時代に最盛期を迎え、会津を中心に東は安達、岩瀬、白河郡、西は越後国蒲原郡まで勢力を拡大し、出羽国米沢城主伊達氏と並ぶ奥羽を代表する戦国大名となった。しかし盛氏ののちは当主が次々と命を落とすなどの不幸が相次ぎ、また家臣団の分裂、叛乱などで勢力の衰えが見え始めた。会津の政情不安に付け込み侵攻を繰り返す伊達氏に対し、重臣たちは同盟関係にあった常陸国太田城主佐竹氏より養子義広(佐竹義重次男)を迎え、その同盟を強化して対抗した。しかし遂に天正十七年(1589)、義広は磐梯山麓摺上原合戦で伊達政宗に敗れて常陸国へと逃れ、鎌倉時代以来の名族蘆名氏は20代で滅亡した。
 政宗はさらに関東進出を図るべく居城を黒川城へと移すが、西国では豊臣秀吉の統一事業がほぼ完成されていた。
小田原城攻撃への参陣を促す秀吉に対し、政宗も抗し切れず参陣、伊達氏の家名を保つことは出来たものの、翌十八年の奥州仕置によって会津のほか信夫、安達地方をも没収され、僅か一年で会津を去ることとなった。

 政宗から会津を召し上げた豊臣秀吉は、厚い信任を寄せていた蒲生氏郷を後任として配置した。これは伊達氏をはじめとする奥羽諸大名を抑える重要な拠点であったためでもあるが、器量の優れた氏郷を政権の中枢から遠ざけるためであったともいわれる。氏郷自身、92万石の大身となりながらも、小身であっても機内に留まれば天下を望むことも出来たであろうに、と漏らしたと伝えられている。しかし氏郷はその器量を存分に発揮、城および城下を整備し、地名を故郷に因んで黒川から若松と改め、現在まで続く会津若松市の基礎を築いた。なお氏郷が築いた天守は七層であったとされる真偽は定かでない。

 文禄四年(1595)氏郷が死去し嫡男秀行が跡を継ぐが、若年であることを理由に慶長三年(1598)下野国
宇都宮城へ転封となり、代わって越後国春日山城より上杉景勝が120万石の大身で入城した。しかし慶長五年(1600)神指城の築城などを理由に徳川家康が上杉征伐の軍を動かし、これをきっかけに関ヶ原の戦いが始まると、景勝は西軍に与したため減封となり、米沢城30万石に国替となった。
 翌慶長六年(1601)、関ヶ原合戦で東軍に与した功で蒲生秀行が再び若松城主となるが、寛永四年(1627)子の忠郷が嗣子がないまま死亡したため伊予
松山城へ転封となり、代わって松山より加藤嘉明が会津へ入封した。寛永十六年(1639)その跡を継いだ明成は若松城の大改修に着手、現在の姿に繋がる五層の天守を築くが、寛永二十年(1643)家臣との諍いを理由に幕府へ所領を返上した。
 その後、出羽国山形城より保科正之が会津へ入封する。この正之は2代将軍徳川秀忠の庶子であり、信州高遠藩保科氏の養子となっていたが、異母兄である3代将軍家光によって厚く遇され、正之も幕政に参画して大いにその手腕を発揮した。その後保科氏は3代正容から松平姓と葵紋の使用を許され、以後明治維新まで御三家に次ぐ家柄として会津23万石の領主として代を重ねた。

 明治元年(1868)戊辰戦争が勃発すると、会津藩は西軍の討伐対象となり、城下で激しい戦闘が行われた。物量に勝る西軍を相手に、無勢ながら籠城して激しく抵抗したが、唯一とも言える弱点であった小田山に砲兵陣地が敷かれ、一日三千発ともいわれる激しい砲撃を受けて遂に降伏、開城した。そして同七年(1874)城の建造物はことごとく取り壊された。

 現在は鶴ヶ城公園となり、加藤氏時代の5層天守や東走長屋、鉄門、そして近年南走長屋と干飯櫓が復元されました。またさらに近年、幕末当時の姿である赤瓦が天主に葺かれました。
 本丸と帯曲輪、そして本来馬出しであった西出丸と北出丸の総石垣が遺り、テニスコートのある二の丸や県立博物館のある三の丸には土塁が残っています。城の規模は蘆名氏時代の東黒川館からあまり変わっていないそうです。また若松市内には甲賀町口郭門の石垣や、天寧寺町(現花春町)土塁などが点在し、新選組隊士の斉藤一(藤田五郎)の墓所として知られる阿弥陀寺には唯一の現存建造物である御三階が移築されています。
 ちょっと昔の方にお話を伺うと、本丸に競輪場があった頃の話や、天守復元前の天守台石垣で遊んだなどという話が聞けてなかなか楽しいです。子どもの頃には家の近くに外堀跡が遺っていたなどという話もありましたねー。

【参考文献】「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(伊吉書院1980)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「鶴ヶ城 会津六百年の星霜を辿る心の旅路」(歴史春秋社1984)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「ふくしまの古戦場物語」(歴史春秋社1988)、「歴史群像シリーズ19 伊達政宗」(学習研究社1990)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「江戸幕藩大名家辞典 第一巻」(原書房1992)、「図説 日本の名城」(河出書房新社1994)、「ビッグマンスペシャル 歴史クローズアップ 伊達政宗」(世界文化社1995)、「歴史群像名城シリーズ15 会津若松城」(学習研究社1997)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「古写真大図鑑 日本の名城」(講談社+α文庫1998)、「城と城下町 東の旅」(日本通信教育連盟1998)、「戦国の城 −天守閣への道−」(福島県立博物館1998)、「歴春ブックレット20 会津の城」(歴史春秋社1998)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「歴史と旅 2000年10月号 城物語」(秋田書店2000)、「別冊歴史読本76 正保城絵図」(新人物往来社2001)、「歴史群像シリーズ戦国セレクション 風雲 伊達政宗」(学習研究社2001)、「歴史と旅 2001年7月号 奥州王 伊達政宗の野望」(秋田書店2001)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く12 会津若松城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく4 会津若松城」(小学館2004)

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