会津若松市
旧会津若松市 - 旧北会津郡門田村(〜S29)
トップさくらとおしろ福島県会津若松市小田館
小田館
小田館跡(宝積寺)。
小田館跡(宝積寺)。
【所在地】 会津若松市花見ヶ丘3
【別称】  
【築城年】 承久四年(1221)
【築城者】 蘆名光盛
【城主変遷】 蘆名氏…
【廃城年】  
【現状】 宝積寺
 中世、黒川城を本拠に会津一円に勢力を拡大した蘆名氏の城館の一で、南東に所在する小田山城の居館であった。
 承久四年(1221)蘆名光盛が小田山城を築城、幕内館飯寺館か)より居を移し、さらにその後小高木館(黒川城)へと移ったとされるが、蘆名氏の居館の変遷に関しては諸説あり判然としていない。

 宝積寺境内地が館跡とされており、墓地の一部に土塁、堀の痕跡が見られる。
トップさくらとおしろ福島県会津若松市小田山城
小田山城
小田山城跡標柱。
小田山城跡標柱。
【所在地】 会津若松市門田町黒岩
【別称】  
【築城年】 承久四年(1221)
【築城者】 蘆名光盛
【城主変遷】 蘆名氏…
【廃城年】 永禄四年(1561)以降か
【現状】 小田山公園
 築城年代は諸説あり判然としないが、蘆名氏の本拠である黒川城の詰城として機能したとされる山城。一説には幕内館飯寺館か)にあった蘆名光盛が承久四年(1221)に築いたとも伝えられている。

 小田山からさらに南の奴田山(青木山)まで拡がる広大な山城で、小田山は現在小田山公園として整備されている。頂部には会津藩の名家老田中玄宰(ハルナカ)の墓所があり、その奥に標柱が建てられている。江戸時代に会津藩の墓地に指定され、4000基以上の武士階級の墓が残る大窪山墓地も城域であり、平場の多くが墓地に転用されている。なお、至徳元年(1384)蘆名直盛によって小高木館(黒川城)が築かれるまでは、麓の小田館が居館であったと考えられている。

 永禄四年(1561)蘆名盛氏が
向羽黒山城を築城し、さらに天正十八年(1590)蒲生氏郷が黒川城を若松城と改め近世城郭に整備すると、小田山城は城郭として利用されることはなくなった。しかしこの小田山は若松城唯一の弱点であり、約300年後の戊辰戦争において西軍がこの地に砲兵陣地を構築、1日に3000発ともいわれる砲弾の雨を降らせ、若松城に籠城して抵抗する会津藩主従を開城、降伏させている。

 現在は小田山公園となっており、遊歩道が山頂まで整備されています。麓から山頂にかけて史跡が点在しており、蘆名氏廟所、西軍砲兵陣地、田中玄宰や丹羽氏などの墓所があります。近年冠木門なども復元されてますよー。
トップさくらとおしろ福島県会津若松市面川館
面川館
面川館跡(宮崎電線工場敷地)。
面川館跡(宮崎電線工場敷地)。
【所在地】 会津若松市門田町面川
【別称】  
【築城年】 治安元年(1021)
【築城者】 永井行広
【城主変遷】 永井氏…松本氏…佐瀬氏…
【廃城年】  
【現状】 企業敷地(宮崎電線)
 治安元年(1021)永井淡路行広が構築し、その後松本源兵衛安石が居住したと『会津古塁記』にあり、また『新編会津風土記』には佐瀬将監の居館とある。東西二十間、南北二十五間の規模であったという。

 現在は宮崎電線の工場敷地となっており、西側に土塁が見られます。工場建設前には周囲に土塁、堀が確認出来たそうです。
トップさくらとおしろ福島県会津若松市御山館
御山館
御山館跡付近(中央の山が三峯城跡)。
御山館跡付近(中央の山が三峯城跡)。
【所在地】 会津若松市門田町御山字館ノ内
【別称】 尾山館
【築城年】 (康平年間(1058-65))
【築城者】 (源義家)、新宮氏、多々良氏か
【城主変遷】 (源氏)…新宮氏…多々良氏
【廃城年】  
【現状】 耕作地
 三峯城の居館であり、ともに康平年間(1058-65)源義家によって築かれたとされるが伝承の域を出ない。応安年間(1368-75)の館主は多々良氏であり、八良行政が最初の館主であったとされるがその時代は不明である。宝徳三年(1451)七月十五日、行政より9代目の伊賀守政重は松本右馬允(典厩)によって御山館を襲撃され、蘆名盛詮を奉じて小高木館へ逃れるも、二十一日敗れて自刃した。右馬允との私闘であったという。

 現在は見渡す限りの柿畑…御山の身不知柿は有名です。土塁の一部が残るとありますが全くわかりませんでした(皆様が柿畑のお手入れをされている中、ふらふら歩いて柿泥棒で通報されたくもない…わたし柿食べられないのに)。唯一“舘ノ内橋”という橋に名残を感じました。
 なお三峯城との間にある八幡社は義家勧請と伝えられており、また周囲にも“東北あるある”的な八幡太郎伝説が残っているそうです。
トップさくらとおしろ福島県会津若松市三峯城
三峯城
三峯城跡遠望(照谷寺より)。
三峯城跡遠望(照谷寺より)。
【所在地】 会津若松市門田町御山字館山
【別称】 御山館、御館山塁
【築城年】 (康平年間(1058-65))
【築城者】 (源義家)、新宮氏、多々良氏か
【城主変遷】 (源氏)…新宮氏…多々良氏
【廃城年】  
【現状】 山林
 御山館の詰城ともいわれ、ともに康平年間(1058-65)源義家によって築かれたとされるが伝承の域を出ない。応安年間(1368-75)の城主は新宮小太郎時久とされ、その後多々良氏が住したという。時久は新宮城主新宮時兼(盛俊)の弟三郎時宗の孫であり、後に小山七郎左衛門と改めている。なお多々良氏は、宝徳三年(1451)伊賀守政重が松本右馬允の襲撃に遭い、御山館より小高木館へ逃れた後敗れて自刃している。

 標高539mの館山山頂に築かれた山城で、主郭部には30間(約54m)四方の平場、西側に帯郭状の平場が2箇所あるそうです。標高400mの地点から麓の照谷寺に通じる小道がある…とのことで照谷寺に行って見ましたが、見事によく判りませんでした(笑) よく考えると標高400mの地点から、ということは残りの139mは道がないって事じゃね?
 なお照谷寺のご住職には仕事やプライベートで非常にお世話になっており、ちょくちょく訪問してはサム(わんこ)に吠えられています。ご住職も“途中までは登れるぞ、一緒行くか?”とおっしゃってくれてましたが、続けて“くまがいるけどwww”とのこと。くまはやだなあ。
トップさくらとおしろ福島県会津若松市中島館
中島館
中島館堀跡。
中島館堀跡。
【所在地】 会津若松市門田町面川
【別称】 中嶋柵
【築城年】 応仁元年(1467)
【築城者】 中嶋実澄
【城主変遷】 中嶋氏…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地
 応仁元年(1467)中嶋越中守実澄が築いたとされる。

 会津鉄道会津線門田駅前に所在する館跡です。カワイイ駅舎を出ると、すぐ右側に土塁や水田になっている堀跡を確認出来ますが、現在は個人宅となっています。お宅訪問もしていないので、詳細は不明です。
 折角なので〜と門田駅の写真を撮影していた時、蝉が架線の柱にとまって啼き出しました。その時初めてツクツクボーシの啼声を聴いたんですが“つくつくぼーし、つくつくぼーし”ではなく、“つくつくぼーーーぉし、つくつくぼーーーぉし”なんですねぇ!しかし文字では伝えられないもどかしさ…。
トップさくらとおしろ福島県会津若松市飯寺館
飯寺館
飯寺館跡(稲荷神社)。
飯寺館跡(稲荷神社)。
【所在地】 会津若松市門田町飯寺
【別称】 幕内館
【築城年】 天授五年(康暦元・1379)
【築城者】 蘆名直盛
【城主変遷】 蘆名氏…
【廃城年】  
【現状】 企業敷地(会津オリンパス門田工場)、稲荷神社
 天授五年(康暦元・1379)会津へ下向した蘆名直盛は、初め幕内館を築いて居住したとされるが、一般にその館はこの飯寺館を指していると考えられている。直盛はその後すぐ弘和二年(永徳二・1382)に小館へ、さらに元中元年(至徳元・1384)に東黒川館(小高木館、のち黒川城)へと移ったとされる。そしてその子孫は天正十七年(1589)伊達政宗の侵攻を受けるまで、会津領主として南奥州に覇を唱えた。

 蘆名氏の下向、その居城の変遷などは諸説あり、何やらわけがわかりませんが、この天授五年に始まる飯寺館(幕内館)〜小館〜東黒川館の流れが一般的です。飯寺館は現在会津オリンパス門田工場敷地が中心で、稲荷神社がある場所はその南に位置する郭であったと考えられています。東には馬場があったとされていますが、全体的に工場や道路などによって全くその面影は残っていません。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「会津若松市文化財調査報告書第62号 会津若松市埋蔵文化財分布調査報告書」(会津若松市教育委員会1999)

ご意見、ご感想は下記まで。
sakushiro.3946@gmail.com