会津若松市
旧会津若松市 - 旧北会津郡神指村(〜S29) |
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神指城 |
神指城二の丸跡北西隅土塁。 |
【所在地】 |
会津若松市神指町高瀬 |
【別称】 |
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【築城年】 |
慶長五年(1600) |
【築城者】 |
上杉景勝 |
【城主変遷】 |
なし |
【廃城年】 |
未完成 |
【現状】 |
耕作地 |
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慶長三年(1598)若松城主蒲生秀行は下野国宇都宮城へ移封となり、代わって越後国春日山城より上杉景勝が120万石の大身で会津領主となった。若松城へ入城した景勝は、時勢を見て領内の支城を整備する一方、山に近く守備に不適であり、城下は拡張に障りがあるという理由から新城の構築を計画した。その候補地として蘆名氏一族北田氏が居城した北田城跡とこの神指が挙げられ、慶長五年(1600)後者に築城が開始されるが、その頃には景勝と徳川家康との対立は決定的となっており、普請奉行となった重臣直江兼続の指揮のもと昼夜兼行で作業は進められた。人夫は領内全てから集められたといい、その数は8万から12万人ともいわれる。突貫工事で進められた築城により、三ヶ月足らずで本丸、二の丸や石垣、水堀などが完成したという。
しかし徳川家康が会津討伐の軍を起こし、その軍勢が国境付近に迫るにあたって普請は中止となる。景勝、兼続らは領内諸城の防備をさらに固めつつ、徳川勢を迎え撃つ準備を整えるが、上杉勢の動きに合わせて挙兵した石田三成を討つべく家康は下野国小山で反転し、決戦場となった美濃国関ヶ原で三成らを打ち破った。戦後景勝は家康に恭順し赦免されるも、会津、庄内、佐渡といった所領をことごとく没収され、米沢城30万石に減封となり会津を去った。
その後神指城は未完のまま放置され、その石垣は以降の会津領主たちによって若松城改修に使用されている。
輪郭式平城として計画され、二の丸は東西468m、南北522mの規模を持ち、そのほぼ中心に東西180m、南北306mの本丸があった。
遺構の残存状況は良いとはいえないものの、現在も本丸跡や二の丸の四隅の土塁が明瞭に残っており、若松城を凌ぐ規模を有していたことが過去の航空写真からも確認出来る。
わたしが初めてこの場所を訪問したのは数十年前の学生の頃で、目的は戊辰戦争の際に新選組の斎藤一(山口次郎)らが西軍と交戦した如来堂集落に建てられている“新選組殉難地”碑を訪れた時でした。当時は神指城の存在を知らず、如来堂集落を探すのに苦労したモノですが…NHK大河ドラマ「新選組!」のお陰で案内表示が建てられています。その如来堂集落には二の丸南西隅の土塁が残っておりますが、当然当時は全く判らず、“高瀬の大木(大欅)”が生育する北東隅の土塁が神指城のイメージでした(非常に簡単な解説板もありますしね)。その後さらにNHK大河ドラマ「天地人」の放映により、神指城に関しても道路標示や案内板が整備され、現在は本丸跡周辺すらも以前と比べると格段に見学し易くなっております。…昔はマジ酷かったんですよ(^-^;
でも、神指城って本丸、二の丸は完成していたにしても全体的には未完成だし、景勝は入城もしていないんですよね。それを城と称するのも如何なモノかと…。「神指城建設予定地(直江組)」跡とするのが妥当ではないのかね?未完成な状態で放棄されつつも“城跡”ならば、宮城県の“野蒜築港跡”だって“野蒜港跡”になっちゃう…ってのは屁理屈?(会津とはファン・ドールン繋がり)。 |
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幕内館 |
幕内館跡(新城寺)。 |
【所在地】 |
会津若松市神指町南四合字幕内 |
【別称】 |
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【築城年】 |
(建久二年(1191))、天授五年(康暦元・1379)など諸説 |
【築城者】 |
蘆名直盛か |
【城主変遷】 |
蘆名氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
新城寺、二本木稲荷神社 |
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文治五年(1189)奥州合戦の功で会津の地頭職を賜った蘆名氏祖佐原十郎左衛門尉義連がこの地へ来た際、二本木稲荷神社の地に幕を張って陣所としたのが幕内村の名の由来という。その後天授五年(康暦元・1379)7代孫である蘆名直盛が会津へ下向して幕内館(新城寺)に入り、元中元年(至徳元・1384)東黒川館(小高木館、のち黒川城)へ移るまで居住したという。直盛が東黒川館を構築するにあたり二本木稲荷神社に祈願したところ、遣いの白狐が城の縄張りを示したと云われ、現在の鶴ヶ城稲荷は二本木稲荷の分神とも伝えられている。
また、幕内館は義連が会津を拝領した2年後の建久二年(1191)に築かれ、その後の承久四年(1221)に孫の光盛が小田山城を築城、その麓の小田館へ移ったとする説もある。しかしいずれにしても、当時義連が会津へ入ったとは考えにくいとされている。
実際のところは良くわかりませんが、一般には直盛が会津へ下向した際に入った幕内館とは飯寺館を指していると考えられています。しかし佐原義連が会津へ来たというのも併せて、伝説の域を脱していない様です。きつねの話も含めてね。
本当言うと、幕内集落は天文年間(1532-55)、寛永十年(1633)の2度に渡って東へ移動しているらしく、往時は今より約1kmの西側の地点にあったそうです。従って新城寺の場所が幕内館と言っても、現在大川(阿賀川)河川敷となっている旧村の場所に館跡はあったものでしょう。 |
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横沼館 |
横沼館跡付近。 |
【所在地】 |
会津若松市神指町北四合字横沼 |
【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
柴山氏か |
【城主変遷】 |
柴山氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地 |
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『会津古塁記』に柴山民部が居住したとあり、土塁が遺るという。
まほろん“文化財データベース”の位置情報を参考に訪問も、明確な位置を特定出来ませんでした。土塁が遺っている様ですが、さすがによそ様のお宅をジロジロ見ながらねり歩くと通報されてしまいますので、残念ながら未確認です。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「会津若松市文化財調査報告書第62号
会津若松市埋蔵文化財分布調査報告書」(会津若松市教育委員会1999) |
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