湯川村
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笈川館 |
笈川館跡(笈川小学校)。 |
【所在地】 |
湯川村笈川舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
天文年間(1532-55) |
【築城者】 |
新国弾正頼盛 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[新国氏、栗村氏] |
【廃城年】 |
天正十二年(1584) |
【現状】 |
笈川小学校、宅地、耕作地 |
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天文年間(1532-55)新国弾正頼盛が築いたとされる。天正年間(1573-92)には頼盛の孫栗村下総守盛胤が居住していた。
栗村盛胤は岩瀬郡長沼城主新国上総介貞通の子で、下総守盛種の養子であったとされる。天正十二年(1584)大沼郡船岡館主松本太郎行輔に与力して兵を挙げ、蘆名盛隆の不在を衝いて黒川城を占拠した。しかしほどなく鎮圧され行輔は討死、盛胤も笠ノ目館主赤塚藤内定景に討ち取られ、以降笈川館も廃館となった。
溷(セセナギ)川右岸に構築された、本丸、二の丸、三の丸を持つ複郭式方形館。本丸は東西135m、南北162mの規模を持ち、周囲を土塁、幅約7mの堀で囲われていた。本丸西南端に大手口が構えられ、土橋で繋がる二の丸は東西36m、南北18m、本丸、二の丸の北に東西55m、南北43mの三の丸(下郭)があった。また本丸東側には東西10m、南北40mの帯郭があり、その北東端に八幡神社が祀られている。館跡西側から南側へかけて溷川がカギ形に流れ、天然の外堀となっている。
現在は笈川小学校、笈川幼稚園の敷地となっており、現在館跡を通る326号県道は本丸東側の土塁内側を貫通しています。自宅から会津坂下町方面へ向かう際に度々通りますが、近いとどうしてもスルーしちゃうんですよねー(^-^; |
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傘ノ目館 |
傘ノ目館跡付近(傘ノ目集落)。 |
【所在地】 |
湯川村清水田堂前乙
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【別称】 |
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【築城年】 |
永享年間(1429-41) |
【築城者】 |
荒川国安 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[荒川氏、赤塚氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地 |
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永享年間(1429-41)津川城主金上式部少輔盛尹(モリタダ)孫、荒川平馬国安が笠ノ目地頭となり、館を築いて居住したのが始まりとされる。
天正年間(1573-92)には赤塚藤内定景が住したとされ、天正十二年(1584)船岡館主松本太郎行輔が黒川城を占拠した際、同心した笈川館主栗村下総守盛胤を討ち取る功を挙げている。
東西45m、南北38mの規模を持つ単郭式方形館であった。
割と早くから存在は知っていて、以前の職場に笠ノ目集落在住の同僚がいたため何度となく訊ねていましたが、歴史に全く興味のない彼は「知らねー」と(-_-;
会津の歴史を後世に伝える職場だったんだが…。館跡にのお宅には“舘”の屋号が印された蔵のあるということで、その彼の家を訪問して周囲を見回すと…庭から思い切り見えとりました(^-^;
そんな訳で現在は集落となっており、はっきりとした遺構などは確認しておりません。集落内を巡る水路、道路が堀跡でしょうから、詳しく追ってみれば痕跡などは発見出来るかもしれませんけどねー。 |
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北田城 |
北田城跡土塁、石碑、解説板。 |
【所在地】 |
湯川村三川舘ノ内
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【別称】 |
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【築城年】 |
建久四年(1193) |
【築城者】 |
北田広盛 |
【城主変遷】 |
北田氏 |
【廃城年】 |
応永十六年(1409)以後 |
【現状】 |
耕作地 |
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文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げた佐原十郎左衛門尉義連は、源頼朝より会津に所領を与えられた。その子遠江守盛連は六人の息子にそれぞれ所領を分け与え、河沼郡北田を与えられた次郎広盛が建久四年(1193)に築城し、以後北田氏を称したのが始まりである。
しかし佐原一族は代を重ねるにつれて相争うようになり、北田氏も黒川城主蘆名氏、新宮城主新宮氏らと抗争を繰り返した。天授五年(康暦元・1379)二郎行綱は新宮氏と争い新宮明継を討つが、応永九年(1402)には七代上総介若名次郎左衛門政泰が新宮盛俊と合力して黒川城の蘆名修理大夫盛政を攻めている。しかし翌応永十年(1403)新宮城が盛政によって攻め落とされると、次いで鉾先は北田城へと向けられ、同十五〜十六年の二度にわたって政泰を攻めた。この戦いの際、政泰が非違を唱えた長子太郎左衛門国通を承引しなかったため、国通は一族と袂を分かち盛政に与する事となった。一族の結束が乱れた北田氏は遂に滅亡し、その後国通の子孫は、大場氏を称して蘆名氏に仕えている。
その合戦の後は廃城となったと考えられるが、慶長三年(1598)会津領主となった上杉景勝は、若松城が山に近く防御に難があり、先の領主蒲生氏郷によって整備された城下は拡張に不向きとして新城の造営を計画した。その際北田城の遺構も候補地として挙げられたが、城地から離れすぎていたため断念し、改めて選ばれたのが神指城であるという。 |
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佐野館 |
佐野館跡標柱。 |
【所在地】 |
湯川村佐野目舘ノ内甲
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【別称】 |
河原崎城 |
【築城年】 |
元中年間(明徳年間・1390-94) |
【築城者】 |
佐野盛智 |
【城主変遷】 |
佐野氏 |
【廃城年】 |
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【現状】 |
長福寺、宅地 |
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元中年間(明徳年間・1390-94)三浦四郎左衛門盛智が築き、以降佐野氏を称して居住した。
会津より越後国へ向かう要衝に築かれた館で、東西155m、南北165mの規模であったという。
現在は長福寺境内、及びその周囲の宅地となっており、遺構はほとんど失われていますが土塁が僅かに確認出来ます。
館跡南側をすぐ49号国道が通っており、国道に面して標柱が建てられていますが、そこには正平年中(貞治年間・1362-68)に築かれた旨が記述されています…どっち? |
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浜崎城 |
浜崎城跡標柱。 |
【所在地】 |
湯川村浜崎字北殿町
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【別称】 |
(柏木城、塩川館、)藤森城 |
【築城年】 |
慶長年間(1596-1615) |
【築城者】 |
蒲生郷貞 |
【城主変遷】 |
蒲生氏[蒲生(上野田)氏](1601-1615) |
【廃城年】 |
元和元年(1615) |
【現状】 |
宅地、耕作地、県道 |
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黒川城主蘆名直盛家臣浜崎主馬が耶麻郡塩川の古町に築城した柏木城を前身としており、慶長年間(1596-1615)初頭、会津領主であった蒲生秀行家臣蒲生(上野田)主計郷貞により当地に移されている。
柏木城は南北朝時代に築城され、黒川(現在の会津若松市)より会津北部へ通じる要地に位置していたため、度々蘆名氏とその家臣や一族による合戦の舞台となっていた。蘆名氏滅亡後もその重要性は変わらず、以後領主となった伊達、蒲生、上杉氏らもこの地を重視したが、日橋川、大塩川に挟まれた城地は度々水禍に見舞われている。
慶長年間(1596-1615)初頭、下野国宇都宮城より若松城主への復帰を果たした蒲生秀行は、家臣蒲生主計郷貞を浜崎城代に任じ、城の改修、整備を命じた。その際郷貞は、水禍を避けて古町より現在地の河沼郡浜崎へと城地を移した。
その後元和元年(1615)江戸幕府による一国一城令により事実上廃城となったが、戦略的な要地であることは変わらず、以後も茶屋と称して城館機能を残したと伝えられている。
浜崎集落の東北端に築かれた複郭式の平城で、本丸は東西90m、南北110m、その西にほぼ同じ規模の二の丸があった。現在は土塁、堀の一部が現存するが、本丸中央部を326号県道、二の丸中央部をJR磐越西線が共に南北に貫通している。
柏木城の説明にも書きましたが、実質的には両城は同一の城館と考えて差し支えないかと思います。一応何れも別城館として遺跡登録されているので、ここでも分けて記載しております。しかしそれって、中世の黒川城と近世の若松城を別城館として考えるのと一緒じゃないかな…(^-^; |
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浜崎館 |
浜崎館跡(春日神社)。 |
【所在地】 |
湯川村浜崎宮前
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【別称】 |
古館 |
【築城年】 |
天正十七年(1589) |
【築城者】 |
片倉景綱 |
【城主変遷】 |
伊達氏[片倉氏](1589-90) |
【廃城年】 |
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【現状】 |
春日神社 |
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浜崎城南西500mほどの所に所在し、伊達氏家臣片倉小十郎の居館とされる。
現在は春日神社の社地となっており、周囲を最高所4mほどにもなる土塁が取り巻いている。
明確な資料がありません。片倉小十郎の居館となると、天正十七年(1589)摺上原合戦の後に築いた事になるのでしょうが、それは現在JR磐越西線塩川駅南東に所在する小十郎館だしなあ…。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県湯川村
北田城跡」(湯川村教育委員会1984)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「浜崎城跡試掘調査調査報告書」(湯川村教育委員会1999)、「塩川町史
第三巻 資料編I 考古」(喜多方市教育委員会2010) |
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