喜多方市
旧耶麻郡塩川町(〜H18) - 旧塩川町(〜S29)
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柏木城
南大橋より見る柏木城跡付近(画像正面の橋が121号国道東大橋)。
南大橋より見る柏木城跡付近(画像正面の橋が121号国道東大橋)。
【所在地】 喜多方市塩川町古町
【別称】 浜崎城、塩川館、藤森城
【築城年】 正平七年(観応三・1352)以前
【築城者】 浜崎主馬
【城主変遷】 蘆名氏[浜崎氏、七宮氏、上野氏]−伊達氏[片倉氏](1589-90)−蒲生氏[蒲生(横山)氏](1590-98)−上杉氏(1598-1601)−蒲生氏[蒲生(上野田)氏](1601-1615)
【廃城年】 慶長年間(1596-1615)
【現状】 日橋川及び河川敷
 現在は日橋川の河川改修によってなくなった字古城に所在した城館で、後に水禍を避けて南西側へ移され浜崎城と称された。つまり両城館は実質的に同一のものと考えられ、資料上の戦国時代以前の浜崎城の記述は主にこの柏木城を指すものと思われる。

 黒川城主蘆名直盛家臣浜崎主馬某が築城したとされるがその年代は明らかでない。しかし直盛が会津へ下向したのは天授五年(康暦元・1379)とされており、浜崎城(柏木城)の資料上の初見である『真壁文書』の記述に、正平七年(観応三・1352)三浦若狭守(直盛と推測される)が常陸国
真壁城主真壁政幹の代官薄景教を率いて河沼郡合川(金川)、浜崎城、政所楯牛沢城を転戦したとあるため、その時期には既に築かれていたものと考えられる。

 宝徳三年(1451)猪苗代城主猪苗代右近将監盛光が、蘆名盛詮の家督相続に際しての混乱に乗じて浜崎城を攻め落とすが、白河郡
小峰城主結城義季の仲裁によって兵を引き、その後浜崎靱刀政頼が城主に復帰したとされる。その後蘆名氏は浜崎主馬某に命じて浜崎城の改修を行わせたという。
 また享徳二年(1453)には、蘆名氏を継いで日の浅い盛詮に対して叛乱を起こし、日光山へと逐われていた松本右馬允通輔(典厩)、橋爪(芳賀とも)将監らが
駒寄城主河原田氏の助力により会津へ潜入、さらに猪苗代盛光の助力をを得て浜崎城へと籠もったとされる。対する盛詮は再び結城氏の援けを受けて典厩を自害に追い込み、猪苗代氏を逐ったが、この2度の浜崎合戦によって浜崎氏は滅亡したという。

 浜崎氏滅亡を受けてのものか、長禄年間(1457-60)には七宮勘解由左衛門盛種が居城した。七宮氏は藤倉館主藤倉三郎盛義の子(石見守時連か)を祖とし、その子盛胤の代より七宮を称したという。下って天正年間(1573-92)には、七宮下総憲勝入道自然斎、その子栗村弾正左衛門尉憲俊が居城したが、天正十七年(1589)伊達政宗の侵攻による摺上原合戦で憲俊は討死し、残った者は近隣の諸城館同様に城を棄てて黒川城下へと退いている。
 蘆名氏滅亡後、政宗は会津北方の要地である浜崎、塩川など五箇村を腹心片倉小十郎景綱に与えた。景綱は北西の地に新城(小十郎館)の構築を開始するが、翌天正十八年(1590)伊達氏は小田原遅参を理由に会津領を召し上げられ、僅か一年で当地を去った。

 伊達氏に代わって会津領主となった蒲生氏郷は家臣蒲生(横山)喜内頼郷(真令)を塩川館主とし、その後慶長年間(1596-1615)初頭、宇都宮城転封を挟んで再度会津領主となった蒲生秀行の代には蒲生(上野田)主計郷貞が城代に任ぜられた。この頃に古町より浜崎村へと城地を移され、改修、整備が行われたという。
 なお『会津古塁紀』には、浜崎村藤森城についての記述として、天正年間に上野甚五郎が居住したとあり、“此処今河沼郡に成る”とも記されている。塩川は耶麻郡であり、浜崎は河沼郡であることから、天正年間(末期)には既に城地が移されていたものであろうか。

 上記の通り、柏木城が所在した字古町、字古城は、昭和四十年の河川改修により消滅しており、現在は日橋川の流路、河川敷となっている。現在の日橋川、大塩川の合流点は121号国道に架かる東大橋付近だが、当時は326号県道に架かる南大橋より西側の箇所であった。その南大橋付近の、北を大塩川、南を日橋川に挟まれた場所に字古町、字古城は所在していた。
 柏木城は東西七十五間、南北九十六間(九十五間とも)の規模を有する城館であったが、その規模は字古城の領域を大きく上回っており、字古城の地は城跡の一部であったものと思われる。因みに上野甚五郎が居住したとされる浜崎村藤森城についての記述では、東西五十八間、南北九十七間、あるいは東西百四十二間、南北三十間と極端に異なっており、これはどう捉えたものか。

 柏木城と浜崎城、上にも書いたけど要するに同一の城館なんですよねー。浜崎城に一本化して記述すれば解説も面倒じゃないんだけど、一応遺跡登録されているので別城館ってことで(^-^; しかし…何とも捉えどころのない解説になってしまうのはこまっちゃうなー。
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小十郎館
小十郎館跡付近(JR磐越西線塩川駅)。
小十郎館跡付近(JR磐越西線塩川駅)。
【所在地】 喜多方市塩川町舘ノ内
【別称】 塩川村館
【築城年】 天正十七年(1589)
【築城者】 片倉景綱
【城主変遷】 伊達氏[片倉氏](1589-90)‐蒲生氏[蒲生(横山)氏]…
【廃城年】  
【現状】 JR磐越西線塩川駅、宅地
 天正十七年(1589)摺上原合戦で黒川城主蘆名氏を攻め滅ぼした伊達政宗は、会津北方の要地であるこの地に5千石を以て腹心の片倉小十郎景綱に与えた。景綱は(水禍に備えてか?)塩川館に代わって新城の構築を開始するも、翌年豊臣秀吉によって伊達氏は会津を没収されたため、築城半ばにして主家と共に会津を去った。
 替わって黒川城主となった蒲生氏郷は、蒲生(横山)喜内を当地に封じている。

 JR磐越西線塩川駅南東に所在、現在も舘ノ内の地名が残り、その範囲は『会津古塁記』に記述される東西一丁十八間、南北一丁三十間とほぼ合致する。舘ノ内の北から西、さらに南にかけて字堀目が巡っており、幅約10mほどの堀が取り巻いていたと考えられる。

 現在は宅地化され遺構はほとんど残っていない様です。土塁跡が認められる箇所もある様ですが、さすがに民家敷地への進入は犯罪になっちゃいますからねえ…。機会があったら確認に行きたいものです。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「浜崎城跡試掘調査調査報告書」(湯川村教育委員会1999)、「塩川町史 第三巻 資料編I 考古」(喜多方市教育委員会2010)