会津若松市
旧河沼郡河東町(〜H17) - 旧日橋村(〜S32) |
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藤倉館 |
藤倉館南側水堀跡、解説板。 |
【所在地】 |
会津若松市河東町倉橋藤倉
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【別称】 |
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【築城年】 |
建久三年(1192) |
【築城者】 |
藤倉盛義 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[藤倉(金上)氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地 |
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建久三年(1192)三浦氏一族の佐原十郎左衛門尉義連の子遠江守盛連は、六人の子に所領をそれぞれ分け与え、第三子左衛門盛義は河沼郡藤倉を与えられた。盛義は当地に館を構え、藤倉を称して居住したのがこの館の始まりとされる。
藤倉氏は早くから同族である黒川城主蘆名氏に従属したものか、伯耆守盛弘(盛義次男時盛の子)の代に同郡金上館に移住して金上氏を称し、さらに建長四年(1252)越後国蒲原郡小川を与えられ、津川城を築いて居城、蘆名氏一族の重臣として越後方面の守備に当たっている。
また藤倉氏は河沼郡栗村の地頭栗村氏の祖とも伝えられている。しかし藤倉氏が三浦氏一族である確証はなく、また金上氏の祖は蘆名盛久の第二子であるともされている。
中世における藤倉氏の動向は全くの謎であり、上記のように一族が蘆名氏に従属したとも考えられているが、蘆名氏や北田城主北田氏、新宮城主新宮氏らと一族間で相争った中、応永、永享年間(1394-1441)滅亡したとも考えられている。なお藤倉義弘が金上に移住した後の藤倉館の消息は不明であるが、黒川城の支城として存続していたとも考えられている。
藤倉氏一族の子孫とされる金上氏は、天正十七年(1589)伊達政宗の会津侵攻の際、当主遠江守盛備が奮戦の末討死している。現在も摺上原古戦場跡に残る三忠碑は、会津藩八代藩主容敬が、盛備及び共に奮戦した佐瀬種常、常雄父子三人の忠節を讃えて建立したものである。
現在は、近世に代田組郷頭であった松本氏のご子孫がお住まいです。東西八十三間、南北七十二間の規模を持つ単郭式方形館で、現在も周囲に高さ2-3mの土塁、幅約4mの水堀が現存しています。また南辺にある虎口を入って東側には遠州流の立派な庭園が残っています。
お伺いした際奥様からお話を伺ったんですが、戊辰戦争で薩摩藩兵によって焼き討ちを受け、藤倉の集落はほとんど焼失してしまったそうです。そんな中、郷頭であったご先祖様は討死になさったとの事でした。写真撮影をお願いしたところ快く了解して下さり、その上夏の盛りに伺ったものだから、下草のなくなる初冬にまた来て下さいとまでおっしゃって下さいました。おまけにへびが出るから注意してね、と。確かに、見事な北辺の土塁を撮影させていただこうとお宅の裏を歩いていると、かえるがぴょこぴょこ逃げ回っておりました(笑) |
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南高野館 |
南高野館跡付近。 |
【所在地】 |
会津若松市河東町南高野館ノ内
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地、宅地 |
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詳細不明、単郭方形の館だったという。
まほろん“遺跡データベース”の位置情報に従えば、現在は画像の様な圃場整備後の全くの水田地…。しかしながら所在地は“館ノ内”とあるので、実際は河東学園小学校北側、現在応急仮設住宅が立ち並ぶ付近を中心とした範囲だったものでしょう。
当然地名が残るのみで遺構などは確認出来ませんが、以前河東町史だったかな?で、圃場整備の際に××が出土した、なんて記述を目にした記憶があります。役に立たない頭脳ですなあ。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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