会津坂下町
旧河沼郡金上村(〜S30)
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海老沢館
海老沢館跡遠望。
海老沢館跡遠望。
【所在地】 会津坂下町海老細東屋敷甲
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 藤倉氏か
【城主変遷】 蘆名氏[藤倉氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地
 「福島県の中世城館跡」に、藤倉久太郎重信住むとのみ記載がある。『新編会津風土記』によると、館跡は東屋敷の村中にあり、東西一町、南北一町一間余りの規模であったと伝えられている。

 藤倉氏は佐原十郎左衛門尉義連の子、遠江守盛連の三男左衛門盛義が河沼郡藤倉に所領を与えられ、藤倉館に居住したのが始まりとされる。その後盛義次男時盛の子、伯耆守盛弘が同郡金上に金上館を築いて移住しており、その一族が海老沢館を築いて居住したものであろうか。

 なお海老沢集落は郡内でも古い集落であると伝えられており、初めは字古屋敷に集落があったというが、現在は西屋敷、東屋敷に分かれている。転住の理由については、天喜三年(1055)源頼義、義家父子の奥州征伐の際に兵火に罹ったとも、天正十七年(1589)伊達政宗の会津侵攻の際、束原の平田少輔の館を攻めたついでに海老沢も焼かれたともいわれている。

 東屋敷の集落への入口となる西側と、その周囲の水田地が館跡の様です。館跡西側は圃場整備されており遺構は破壊されているでしょうから、残るとすれば館跡東側なんですが、そちらは宅地となっており未確認です。余所者が車で走ってるだけで結構ジロジロ見られますからねー(>_<;
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金上館
金上館跡土塁。
金上館跡土塁。
【所在地】 会津坂下町金上舘
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 藤倉盛弘
【城主変遷】 北田氏−蘆名氏[金上(藤倉)氏]…
【廃城年】 天正十七年(1589)か
【現状】 宅地
 金上館は初め北田次郎広盛が築いたとされ、広盛が北田城へと戻された後に藤倉石見守盛経の子伯耆守盛弘が金上地頭として居住したとされる。盛弘は建長四年(1252)越後国蒲原郡に津川城を築いて移住するが、本貫地として金上を領し、盛弘の子盛仁が本領に因んで金上を称したという。

 黒川城主蘆名氏重臣の中でも、蘆名氏の庶流であった金上氏は、針生氏と並び一門衆として四天宿老家の上座にあった。主家からの信任は厚く、越後国へ通じる西方の要衝である津川城主を、盛弘以降十五代にわたって任ぜられている。とりわけ十五代遠江守盛備は知勇兼備の将として名高く、天正六年(1578)上杉氏の内訌である
御館の乱では蘆名勢を率いて越後国へ侵入し、また同九年(1581)には主君蘆名盛隆の名代として上洛、織田信長に謁見するなど、重要な任務のほとんどを一任されていた。
 天正十四年(1586)蘆名氏の後嗣問題が起こると、盛備は針生氏や四天宿老家の推す出羽国
米沢城主伊達政宗弟小次郎を押さえ、常陸国太田城主佐竹義重の子義広の入嗣を主張、強引にこれを実現させた。これによって蘆名、佐竹氏の連携は強まったものの、逆に伊達氏との全面対決は避けられなくなった。その上家中の分裂は決定的となり、また義広に従い佐竹氏より新たに加わった家臣との軋轢も生じた。そして家中の結束を乱したまま天正十七年(1589)伊達氏との決戦、摺上原合戦に望み、盛備らの奮戦も空しく蘆名氏は敗走、滅亡した。
 なお現在も摺上原古戦場跡に残る三忠碑は、会津藩松平氏八代藩主容敬が、盛備及び共に奮戦した佐瀬種常、常雄父子三人の忠節を讃えて建立したものである。

 館跡は金上集落のほぼ中央の微高地に所在し、東西それぞれに集落が分かれている。南北81m、東西40mの規模を持つ単郭式の方形館で、周囲に幅4mほどの堀を巡らし、その内側には土塁が構築されている。北、西面のの土塁は現存しているものの、東、南面の土塁は失われており、堀跡は集落内の道路となっている。失われた南面土塁中央部に虎口が開口していたとされ、当時は館跡すぐ南側を通じていたとされる越後街道とは土橋で結ばれていたものと考えられている。なお東西両村は金上氏家臣団の屋敷地と推定されている。

 金上寺南側の宅地が館跡であり、上記の通り南、西側の土塁が明瞭に残っています。しかしながら民家となっているため主郭部内は未確認…、こちらのお宅で金上盛備の位牌のほか愛用の鞍や鐙を保存されているらしいので、いつか拝見させて頂きたいものです。
 ちなみに会津古城研究会会長石田明夫氏によると、豊臣秀吉の小田原征伐で、石田三成率いる大軍を相手に武蔵国
忍城に籠城し、僅かな手勢で城を守りきった“のぼう様”成田長親が、当主成田氏長らと共に蒲生氏郷のもとに一時身を寄せた際に居住したのがこの金上館だそうです。なお成田氏長はその後下野国烏山城2万石の領主となり、江戸時代初期には弟長忠が烏山藩3万7千石の大名となりますが、長親は氏長と不和となり出奔、自永斎を称して晩年は尾張国に居住しています。
トップさくらとおしろ福島県河沼郡会津坂下町細工名館
細工名館
細工名館跡(妙福寺)。
細工名館跡(妙福寺)。
【所在地】 会津坂下町海老細大道下乙
【別称】 福森柵
【築城年】  
【築城者】 谷津土佐守か
【城主変遷】 蘆名氏[谷津氏(、福森氏)]…
【廃城年】  
【現状】 妙福寺、宅地、耕作地
 築城年代は不明、黒川城主蘆名盛興家臣谷津土佐守(諱不明)が居住したという。その後皆川治郎(次郎)吉村なる人物が居住し、後に福森を称したという。『芦名家御旧臣見分録』には、福岡治郎なる人物が細工名村に800石を以て居住したとあるが同一人物であろうか。なお江戸時代には代々谷津氏が細工名村の肝煎を勤めている。
 東西三十六間、南北二十四間(東西三十一間、南北二十二間とも)の規模を持つ単郭式方形館であったという。

 現在の細工名集落が館跡の様ですが、特に遺構は見つけられませんでした。館跡北側に妙福寺があり、その東側は微妙な段差が見られましたが、西側の水田面とは全くの同レベル。こちらの館跡も宅地化や圃場整備の流れで失われてしまっている様です。
 なお細工名集落は、大同年間(806-810)猪苗代湖の陥没により湖底に沈んだ49箇村の中に同名の村があったといわれ、当地より避難した村人が拓いた村だそうです。迷惑だな、猪苗代湖。
会津坂下町
旧河沼郡川西村(〜S30)
トップさくらとおしろ福島県河沼郡会津坂下町竈館
竈館
竈館跡遠望。
竈館跡遠望。
【所在地】 会津坂下町長井竈
【別称】 竈御前宅
【築城年】  
【築城者】 城長茂か
【城主変遷】 城氏…
【廃城年】  
【現状】 森林、耕作地
 会津坂下町北端の袋原地区竈原に所在し、城四郎長茂(資職)妻女竈御前の邸宅であったという。長茂は村の南にあったという千笑原に毎年妻を連れて芍薬の観賞に訪れ、遊観歌舞して楽しんでいたと伝えられる。
 寿永元年(1182)平宗盛より命を受けた長茂は、信濃国で兵を挙げた源義仲追討に向かうが、横田河原合戦で大敗を喫して越後国を逐われ会津へと逃れた。袋原の地は阿賀川が南から東をまわって北側を洗い、西に大きく迂回して流れる文字通り袋状の地となっており、僅かに西側の一端だけが陸続きとなった天然の要害地であったため、長茂はこの地にしばらく隠棲していたと伝えられている。

 往時は草むらの中に大きな礎石が数多く並んでいたとされ、『新編会津風土記』には僅かに6〜7個残るとあるが現在は見当たらない。館跡の北東60mほどの所には、長茂隠棲中に死去した竈御前のものという、高さ五尺、周り五間ばかりの墓があり、その上には数基の五輪塔があったと伝えられるが、現在は五輪塔も失われ墓所も定かではない。また周囲には竈御前が日常使用したといわれる御前清水、竈原中央に所在し舞台を設けて楽しんだとされる舞台沼、馬場、的場といった伝説、地名が数多く残る。なお前述の千笑原には慶長七年(1602)若松城主蒲生秀行が訪れ、芍薬を観賞したことが記録に残っている。

 ここを訪問した際に、何となく不思議な感覚に襲われました。10月半ばとは言え非常に好天で、直前に中崎城を歩き回っていたので汗だくのまま訪問したのですが、館跡推定地付近で一歩踏み出した瞬間に空気がガラリと変わりました。どの地点か定かではないんですが、とある一線を越えた瞬間に空気が一変した感覚で、一瞬にして汗が引いた感じでした。お天道様が一瞬雲に隠れんじゃねーの〜?なんてオチでもないし、水煙が届くような位置でも全くなかったんですが…あれ何だったんだろう?
 何箇所もこういった場所には訪れており、別に霊感云々なんてモノも全くありません。今までちょっとヤだなーなんて感じる場所はありましたが、この場所で感じたのは全く嫌な感じではなく、何となく触れてはいけない様な、神社などで感じる畏怖といった感覚でした。気のせい!と言われちゃ〜それまでなんだけど、若い頃には深夜に城跡に突撃していた様な、思慮や信心深さとは無縁のわたしが今でも不思議に感じている経験でした。
トップさくらとおしろ福島県河沼郡会津坂下町陣が峯城
陣が峯城
陣が峯城空堀跡。
陣が峯城空堀跡。
【所在地】 会津坂下町宇内五目
【別称】  
【築城年】 永延二年(988)
【築城者】 城重則
【城主変遷】 城氏[沖野氏]…
【廃城年】  
【現状】 川西公民館
 越後国蒲原郡より会津への進出を狙う、越後平氏城四郎重則が築いた会津八館の一。

 重則は永延二年(988)会津進出の足掛かりとして八館を築き、猿戻城を主城として自らの居城とし、陣ヶ峰城には沖野太郎を配したという。しかし重則は正暦二年(991)慧日寺の寺代官斎藤佐渡守宗顕との合戦に敗れ片門村十文字原で自刃、八館の家臣はことごとく殉死したとされる。

 東西150m、南北230mほどの規模を持つ単郭式方形館。周囲は土塁と二重の空堀が巡り、西側中央部に現在も公民館入口となっている虎口が開いている。二重堀は北側内堀が幅、深さとも2〜3m、外堀が4〜5m、南側内堀が4〜5m、外堀が6〜7m以上に達する見事なものである。郭内部では発掘調査が行われ、白磁や青白磁、銅製の錘などが出土しており、かなり有力な豪族が使用していたものと考えられている。

 現地説明会のほか何度か訪問していますが、毎回見事な空堀、土塁に感動しています。その割にロクな写真も撮れてはいませんが(泣)、会津でも必見のお城の一つではないか!?と思っています。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)

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