喜多方市
旧耶麻郡山都町(〜H18)
トップさくらとおしろ福島県喜多方市小布瀬城
小布瀬城
小布瀬上主郭部西側堀跡(腰巻)。
小布瀬城主郭部西側堀跡(腰巻)。
【所在地】 喜多方市山都町小舟寺字舘ノ内乙
【別称】 おふせの城
【築城年】 室町時代か
【築城者】 小布瀬原氏か
【城主変遷】 新宮氏[小布瀬原氏]…蘆名氏[渡辺氏]…
【廃城年】 応永二十六年(1419)か
【現状】 宅地、耕作地
 築城年代、築城者とも明確でないが、永禄二十六年(1419)新宮氏と蘆名氏との抗争の最中、蘆名勢によって新宮方の「おふせの城」が落城したとする記録がある。「おふせの城」がこの小布瀬城であるとすれば、室町時代には新宮城の支城としてすでに存在していたことになる。
 また小布瀬城は館ノ原にあり、館ノ原住人小布瀬原右京が新宮時康に属して討ち滅ぼされたとする記録もある。しかし館ノ原集落周辺には城館が確認されておらず、また小布瀬原は新宮城のある会津北方地方から最明寺峠を越えて越後国を結ぶ、かつて越後裏街道と称された交通の要衝であることから、小布瀬城は小布瀬原にあったものと見るべきであろう。
 元亀、天正年間(1570-92)小布瀬城には渡辺忠兵衛直忠が居住していたと記録がある。応永の合戦で落城した「おふせの城」と、渡辺氏の居住した小布瀬城が同一であるかは不明だが、新宮氏の滅亡後、蘆名氏が新宮荘を支配するに及び蘆名氏に属する土豪の居館となったものであろう。

 16号県道喜多方西会津線沿い、小布瀬原集落南側の館ノ内と呼ばれている部分が主郭部であるという。その西側には、腰巻と呼ばれる幅40〜50mの水田が県道を挟んで南北に続いており、これが堀跡であった。主郭部北側の小布瀬原集落、及び南側の原川(田入川)へと続く部分もかつては外郭であったろうと考えられている。

 現在館ノ内へ至るには民家敷地へと侵入しなければならない様で、西側の堀跡から侵入を試みましたがさすがに怪しすぎると思い断念しました。館ノ内と堀跡を挟んだ所の民家でお母さんにお話を伺ったところ、場所は間違いないが現在は林になっててわかんないよ〜とのこと。主郭部南側にも堀が切られている様なんですが、それを拝むにはやっぱりお宅訪問しなきゃならんのかな…。
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中崎城
中崎城腰曲輪土塁を頂部平坦面より(奥は阿賀川)。
中崎城腰曲輪土塁を頂部平坦面より(奥は阿賀川)。
【所在地】 喜多方市山都町小舟寺
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 中崎氏か
【城主変遷】 中崎氏
【廃城年】  
【現状】 耕作地
 「福島県の中世城館跡」に中崎善六郎某が住んだとのみ記載がある。また同書の小布瀬城の項にも中崎城の記載があるが、小布瀬城との関係は不明との記載のみである。

 上記の通りなので大して期待もせずに訪問しました。小布瀬原集落に入る手前の耕作地を南へ入り、原川(田入川)と阿賀川(大川)の合流点に突き出した部分へとひたすら車を進めます。周りはフラットな水田なので、途中で農道が砂利道へと変わるところで車を停め、さらに原川の造る渓谷に沿って水田地帯を南西へ徒歩移動、すると一面の蕎麦畑に到着。蕎麦畑はまさに平坦地一杯に広がっており、左側は阿賀川の造る断崖へと続く林で、さら奥へ進むのは若干躊躇われましたが、作物を踏まない様にギリギリ縁の部分をずんずん進む! しばらくすると左側の断崖に帯曲輪が見られ、さらに縁に沿って進むとその帯曲輪に2mほどの土塁が巡っているではないですか! 蕎麦畑の最も西側まで進んだ後、平坦部上面には若干の土盛りしか確認出来ないため、ちょっと戻って帯曲輪部分へ降りてみたところ割と阿賀川の水面近くまで下れました。釣りは全くやらないので魚がいるのかどうかは判りませんが、釣りをするにはなかなか良い場所っぽい。しかしそこには土塁が見られないためさらに西側へ進みたいところでしたが、りんのお迎えの時間が迫っていたので引き返しました。
 平坦部上面からしか見てはいませんが、あの土塁の様子はなかなかのモノでしたので、次回は是非とも情報収集をした上で釣り好きな知人を連れて行きたいところです。明らかな私有地、かつひっそりとしていたので、正直なところ怖かったんですよ、渓谷沿いは…(ヘタレ)。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)

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