猿戻城跡遠望。 |
【所在地】 |
柳津町藤舟渡
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【別称】 |
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【築城年】 |
永延二年(988) |
【築城者】 |
城重則 |
【城主変遷】 |
城氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地、山林 |
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越後国蒲原郡より会津への進出を狙う、越後平氏城四郎重則が築いた会津八館の一で、その主城であった。
平安時代、会津地方に勢力を拡げていた磐梯山慧日寺を攻略すべく、余五将軍平維茂の子四郎重則(重範)は慧日寺の対抗勢力であった高寺山高隆寺と結び、永延二年(988)会津に城館を築いた。高寺山を囲むように八つの館を築き、その主城として猿戻城を自らの居城とした。しかし慧日寺の僧兵は強力で、正暦二年(991)重則は寺代官斎藤佐渡守宗顕との合戦に敗れ、片門村十文字原で自刃した。その後城氏は慧日寺と和を結び、逆に高寺を攻め滅ぼしている。
その後城氏は越後国内で勢力を拡大、棟梁である四郎資永は平清盛の信任も厚く、保元の乱などでも活躍した。そして治承四年(1180)源義仲が信濃国木曽谷で兵を挙げると、資永は清盛を継いだ宗盛より追討の命を受け、父資国の女婿である慧日寺の衆徒頭乗丹坊と共に3万の軍勢を集めるが、出陣直前に病を得て死去する。資永の急死を受けて後を継いだ弟資職(長茂)は、寿永元年(1182)乗丹坊と共に信濃国へ出陣するも横田河原合戦で大敗、以後城氏は衰退した。
現在は山頂部が畑地となっており、山裾を巡ると遺構と思われる地形が散在しています。只見川、小藤川が天然の堀になっており、当時の登城口はおそらく東北部の小藤川に架かる橋(近在の方が通したのでしょうか、コワイ)の所かと思われます。山頂部へは反対側に舗装された農道があるので車でも登れます。農作業中のご夫婦にお訊きしたら、場所は間違いないとのこと。山裾では遺物も色々発見されているそうです。
ちなみにほかの七館は、陣が峯城、花の城、雲雀城、久山城、福富城、田中城、外島城と伝わっています。 |