会津坂下町
旧河沼郡高郷村(〜S35) |
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雲雀城 |
雲雀城跡遠望。 |
【所在地】 | 会津坂下町高寺舟渡
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【別称】 |
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【築城年】 |
永延二年(988) |
【築城者】 |
城四郎重則 |
【城主変遷】 |
城氏[加佐間氏]…蘆名氏[渡部氏] |
【廃城年】 |
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【現状】 |
山林 |
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越後国蒲原郡より会津への進出を狙う、越後平氏城四郎重則が築いた会津八館の一。
重則は永延二年(988)会津進出の足掛かりとして八館を築き、猿戻城を主城として自らの居城とし、雲雀城には家臣加佐間七郎を配したという。重則は正暦二年(991)慧日寺の寺代官斎藤佐渡守宗顕との合戦に敗れ片門村十文字原で自刃、加佐間七郎も殉死を遂げ、婦女子も只見川に身を沈めたという。この伝承からここは姫の渕と呼ばれている。その後天正年間(1573-92)には渡部越後守綱元が居住したという。
東西百二間(約180m)、南北六十三間(約110m)の規模であったとされるが、城跡のすぐ南を流れる只見川によりかなりの浸食を受け、現在は東西約93m、南北約63mの規模となっている。只見川を望む断崖上に築かれ、主郭の北、東側には幅13m,深さ6mの巨大な堀切があり、屈強な要害であったことが想像される。
実は未だに主郭部までは訪問してません(^-^;
だから上記の堀切は未確認…いいかげんですなー。近在のお母さんに訊いたら、昔は雲雀城へ通じる道(堀底道)を使って坂下へ抜けていたので、平場などが明瞭に確認出来たとおっしゃっていました。現在はその道も使われておらず、わたしも途中まで登って断念しました。訪問時はどれほどの遺構が残っているのか知らなかったってのと、夏の盛りだったのでむしがイヤだったので…(-_-; |
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会津坂下町
旧河沼郡広瀬村(〜S30) |
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政所館 |
政所集落西端の耕作地となっている政所館堀跡。 |
【所在地】 |
会津坂下町合川政所
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【別称】 |
政所楯 |
【築城年】 |
正平七年(観応三・1352)以前 |
【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
寺社境内地、宅地、耕作地 |
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「福島県の中世城館跡」には、蜷川庄の政所政庁跡を想定、とのみ記載がある。
『真壁文書』に、正平七年(観応三・1352)蘆名直盛と見られる三浦若狭守が、常陸国真壁城主真壁政幹の代官薄景教を率いて浜崎城、政所楯、牛沢城を転戦したある。
下政所集落の南西端に所在するお寺(見た目集会所ですが)の周囲が館跡の様なので、ふらっと立ち寄ってみました。訪問した年の冬は異常に雪が少なかったんですが、ちょうど2〜3日前にまとまった降雪があった時でした。真壁文書に見られる政所楯がここであるかは全く判りませんが、お寺の西、北側の耕作地には段差が見られ、堀跡である事が判りました。館跡の推定地は集落の北から西にかけての範囲で、お寺は推定地の南端辺りの様なので、主郭部はその堀を挟んだ北から北西辺り、これが堀で間違いなければ複郭式の館跡だったものでしょう。また境内に若干の土盛りがありますが、果たしてこれは土塁の痕跡なのであろうか…?
何年前かは覚えていませんが、毎年参加している真壁城跡の発掘調査現地説明会の際に解説員の方に確認したところ、薄氏は確かに蜷川庄に出陣しているとの事。会津坂下町史に何やら記載がある様なので、それを読んで再訪ですなあ…と言いつつ何年経ったものか(-_-; |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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