猪苗代町
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猪苗代城
猪苗代城跡石垣。
猪苗代城跡石垣。
【所在地】 猪苗代町古城跡
【別称】 亀ヶ城
【築城年】 建久二年(1191)
【築城者】 猪苗代経連
【城主変遷】 猪苗代氏(1191-1547)−蘆名氏[猪苗代氏](1547-89)−伊達氏[猪苗代氏](1589-90)−蒲生氏[蒲生氏、町野氏](1590-1598)−上杉氏[今井氏、水原氏](1598-1601)−蒲生氏[関氏、岡氏](1601-27)−加藤氏[堀氏](1627-43)−丹羽氏[江口氏、丹羽氏](1643)−溝口氏[溝口氏](1643)−保科(松平)氏[城代諸氏](1643-1868)
【廃城年】 明治二年(1869)
【現状】 亀ヶ城公園、市街地
 文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げた佐原十郎左衛門尉義連は、源頼朝より会津に所領を与えられた。その子遠江守盛連は六人の息子にそれぞれ所領を分け与え、耶麻郡猪苗代を与えられた長子大炊助経連が建久二年(1191)に築城し、以後猪苗代氏を称したのが始まりという。しかし経連が猪苗代を拝領したのは宝治二年(1248)であるとされ、資料上に猪苗代氏の名が確認出来るのは貞和四年(1348)であることから確証はない。初め白津に八手山城を築き、後年現在地に移ったという説もあるが、八手山城の築城もかなり後年であると考えられている。

 黒川城を本拠とし、中世会津に勢力を拡大した蘆名氏は盛連の四男、つまり経連の弟である光盛を祖としており、猪苗代氏と蘆名氏は同族であったとされるが、両氏はしばしば軍事衝突を起こしている。

 ・応永二十七年(1420)蘆名氏が猪苗代へ出陣、猪苗代勢が敗れる。
 ・宝徳三年(1451)猪苗代右近将監盛光が浜崎城を攻め落とし、白河郡
小峰城主結城義季の仲裁で和睦する。
 ・享徳二年(1453)蘆名氏家臣松本右馬允通輔(典厩)が蘆名盛詮に叛して浜崎城に拠り、猪苗代盛光が右馬允に加勢して戦うが、結城氏の援けを得た盛詮に敗れる。
 ・寛正五年(1564)猪苗代盛光が蘆名盛詮を黒川に攻める。
 ・延徳四年(1492)猪苗代伊賀が蘆名氏重臣富田淡路、松本藤右衛門らと謀って蘆名盛高に叛し、盛高は一時黒川城から家臣伊藤氏の館へと逃れた。その後伊賀は討死。
 ・明徳十年(1501)猪苗代弾正盛頼父子が盛高に叛し、盛高の子盛滋の初陣に敗れる。
 ・永正十八年(1521)蘆名盛舜の家督相続に際し、猪苗代勢が蘆名氏重臣松本新蔵人、塩田刑部らの与力を得て黒川城を攻める。新蔵人、刑部は討死、猪苗代勢も多数の死傷者を出して敗走する。
 ・天文十一年(1541)猪苗代盛頼が蘆名盛舜に叛するも半月ほどで降伏する。
 ・天文十六年(1547)蘆名修理大夫盛氏が猪苗代氏を攻めてこれを破る。

 蘆名盛氏による猪苗代攻め、猪苗代崩れといわれる合戦を最後に、蘆名氏と猪苗代氏の抗争は文献では見られなくなる。天文二十年(1551)には盛氏が猪苗代平太郎の元服に際して偏諱を与え、猪苗代弾正忠盛国と称させており、このころから緩やかな主従関係を結んだものと考えられる。

 その盛国は、天正十三年(1585)嫡男盛胤に家督を譲り、隠居城として弦峯城を築いて退隠した。その頃の蘆名氏は当主の早世が続いたため家中が混乱しており、その機に乗じて会津侵攻を図る伊達政宗は度々盛国へ内応を働き掛けた。この対応を巡って盛国、盛胤父子の対立は深まり、また盛国の後妻が盛胤を讒言したこともあり、ついに天正十六年(1588)、盛国は盛胤の留守を衝いて猪苗代城乗取りに成功する。父に居城を奪われ進退に窮した盛胤は、安積郡横沢に移って体勢を整え、同年猪苗代湖を渡って金曲館を急襲してこれを占拠した。この戦いはお互いに兵を引いたため収まったが、父子の溝が埋まることは無く、翌天正十七年(1589)摺上原合戦では敵味方に分かれて戦った。
 摺上原合戦勝利後、猪苗代城に伊達勢を引き入れ、また合戦でも先鋒として戦った盛国は、政宗より加増の上で旧領を安堵された。しかし翌年豊臣秀吉の奥州仕置が行われ、伊達氏はわずか1年で会津去ることとなり、猪苗代氏もこれに従い米沢へと去った。なお、その後子孫は伊達氏の一家に列せられている。

 伊達氏が会津を去った後も、会津から仙道(福島県中通地方)へ向かう要衝にあった猪苗代城は重要視され、歴代の会津領主は8千石から1万石ほどの重臣を城代として置き、これを治めた。幕藩体制が固まったのちも一国一城令の例外として存続が許され、寛永二十年(1643)保科正之が会津藩主となった以後も、番頭、御旗奉行、物頭クラスの家臣が城代に任命された。城代は民政には関与せず、家中十騎と称された家臣らを掌握して街道の守備に当たり、また正之の死後はその墓所である土津神社の維持管理に当たった。総延人員は135名、最長で17年間の原主税、最短では10日で数名が交代している。
 この様に若松城の有力な支城としての機能を持っていた猪苗代城であったが、明治二年(1869)、会津戦争の際に終焉を迎える。時の城代高橋権太夫は、母成峠を越えて進軍してくる西軍の軍勢には抗し切れないと悟り、自ら城と土津神社へ火を放ち若松城へ退却したのである。なお猪苗代城最後の城代は300石取の物頭城取新九郎で、慶応四年(1868)八月二十一日付で任命されている。しかしその日は母成峠で西軍との戦いの真最中であり、城代としての任務に就くことはなかった。

 現在は亀ヶ城公園として整備されており、画像では石垣を載せていますが、実際は土塁が非常に見事な城跡です。どうしても石垣に目が向いてしまうのは、土造りのお城ばっかり見ている東北人の性でしょうか…?
 なお亀ヶ城という名称ですが、若松城が鶴ヶ城と称されるのに対してと説明されることがありますが、実際は隣接する弦峯(鶴峯、つるがみね)に対しての名称であるとも言われます。果たしてどちらなんでしょうね…両方関係なく猪苗代湖の大亀伝説が元だったりして?
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三城潟館
三城潟館跡(八幡神社)。
三城潟館跡(八幡神社)。
【所在地】 猪苗代町三ツ和家北
【別称】  
【築城年】 建久二年(1191)頃か
【築城者】 猪苗代経連
【城主変遷】 猪苗代氏…
【廃城年】 天正年間か(1573-92)
【現状】 八幡神社、宅地
 佐原(猪苗代)経連が猪苗代に所領を与えられ当地に下った際、自らは猪苗代城を築いて居城し、子の経泰、赤房、義泰3人にそれぞれ館を築いて住まわせた。そのため内城村という名を三城潟村と改めたという。その館の一が現在八幡神社の境内地となっており、神社の北、西側に低い土塁が設けられている。東側は民家、小学校の校地となっており遺構は判然とせず、南側には特に遺構は見られない。

 半年ほどこの近辺に勤めていたので、昼休みにほてほてと野口シカさんのお墓参りと併せて八幡神社まで行ってきました。おそらくこの八幡神社の地が、猪苗代町史にある三城潟館(二)でありましょう。土塁が残るといってもかなり低く、館跡としては見どころに欠けます。なおもう1箇所の三城潟館(一)、及び所在地不明の三城潟沖の館推定地にはまだ行ってないんです…。
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鶴峯城
鶴峯城跡土塁。
鶴峯城跡土塁。
【所在地】 猪苗代町弦峯西
【別称】  
【築城年】 天正十三年(1585)
【築城者】 猪苗代盛国
【城主変遷】 蘆名氏[猪苗代氏]…
【廃城年】  
【現状】 亀ヶ城公園
 元は猪苗代城と一体の構えであったと考えられており、天正十三年(1585)猪苗代弾正忠盛国が嫡子盛胤に家督を譲って隠居するに当たって、その隠居城として大改修が行われた。
 しかし盛国は、家臣が盛胤の下にのみ出仕し、弦峯に脚を向けないことに腹を立て、新たに
新地館を築いて居を移したという。さらに盛国の後妻による盛胤への讒言や、また会津侵攻を狙う伊達政宗の内応工作への対応もあり、父子は徐々に対立を深めていった。この対立は、ついに天正十六年(1588)盛国による猪苗代城占拠という事態を呼び、さらに盛国の伊達氏への内応、そして摺上原合戦での伊達氏の勝利へと続いた。

 猪苗代城と尾根続きの弦ヶ峯に築かれており、猪苗代城とは堀切によって分断されている。居館は現在弦峯神社が建立されている麓の辺りと考えられており、石積の残る虎口や、山上には数箇所の堀切、土塁の巡らされた平場、帯郭状の段築が認められる。

 しかし記述して改めて思ったが…大人げねぇな盛国さん(-_-;
 現在は亀ヶ城公園の一部として整備されておりますが、初めて訪問した際は整備前の発掘調査が行われていた段階でしたので、弦峯神社脇から伸びる小道を登っての入城でした。地元の方が手入れしていたものか、当時から藪漕ぎが必要〜なんて状況ではありませんでしたが、立派な解説板が建てられるなど、ここまで整備されるとは当時は想像もしませんでしたねー。なお画像は整備前のものです。

【参考文献】「会報第13号 城と館、柵、塁」(猪苗代地方史研究会1979)、「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(伊吉書院1980)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「ふくしまの古戦場物語」(歴史春秋社1988)、「歴史群像シリーズ19 伊達政宗」(学習研究社1990)、「ビッグマンスペシャル 歴史クローズアップ 伊達政宗」(世界文化社1995)、「歴史群像名城シリーズ15 会津若松城」(学習研究社1997)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「城と城下町 東の旅」(日本通信教育連盟1998)、「戦国の城 −天守閣への道−」(福島県立博物館1998)、「歴春ブックレット20 会津の城」(歴史春秋社1998)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「歴史と旅 2000年10月号 城物語」(秋田書店2000)、「別冊歴史読本76 正保城絵図」(新人物往来社2001)、「歴史群像シリーズ戦国セレクション 風雲 伊達政宗」(学習研究社2001)、「歴史と旅 2001年7月号 奥州王 伊達政宗の野望」(秋田書店2001)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く12 会津若松城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく4 会津若松城」(小学館2004)

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