常陸太田市
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太田城 |
太田城(舞鶴城)跡碑。 |
【所在地】 |
常陸太田市中城町
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【別称】 |
舞鶴城、北城、太田御殿 |
【築城年】 |
天仁年間(1108-10) |
【築城者】 |
藤原通延 |
【城主変遷】 |
藤原氏−佐竹氏…徳川(水戸)氏[中山氏](1707-18) |
【廃城年】 |
慶長七年(1602) |
【現状】 |
太田小学校、市街地 |
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関東七名城の一。
天仁年間(1108-10)、秀郷流藤原氏の藤原通延が城館を築き、以降太田氏を称して居住したのが起源であるという。その後、馬坂城主佐竹義昌の子四郎隆義が太田氏を逐って居城とし、同時期に兄忠義より佐竹氏惣領職を譲られ佐竹宗家を継承したため、以降戦国時代に至るまで佐竹氏の本拠となった。
佐竹氏は新羅三郎源義光を祖とする源氏の名流だったが、治承四年(1180)源頼朝による平氏打倒の旗揚げの際、当主隆義が上洛中で不在だったこともあり参陣しなかった。そこで頼朝は佐竹氏追討の軍を起こし、金砂山城に籠もって抵抗した隆義の子秀義を攻略、佐竹氏は所領没収の憂き目に遭う。しかし文治五年(1189)、秀義が頼朝に礼を尽くして忠誠を誓い、常陸国北部の領有を認められた。後に常陸国統一を果たす佐竹氏だが、この時点では常陸国守護八田(小田)氏や大掾氏らに比肩する勢力ではなかった。
佐竹氏の勢力が拡大するのは南北朝の争乱期であり、9代貞義が北朝方に与し、足利尊氏に従って各地で戦功を挙げた。そして興国二年(暦応四・1341)、北畠顕房、興良親王を小田城に迎えていた守護の小田治久が降伏すると、遂に貞義が常陸国守護に補任されたのである。以後小田氏の勢力は衰え、貞義の子10代義篤の代には常陸国北部の支配を確固たるものとした。
ところが応永十四年(1407)、12代義盛が家督を決められないまま死去すると、家督相続を巡って家中が混乱する。宿老であり常陸国守護代であった小野崎通綱と江戸通隆によって、鎌倉で関東管領上杉安房守憲定の子龍保丸が養嗣子に迎えられたが、それは佐竹氏支族の勢力を抑えるための策謀であった。また龍保丸が年少であったため、義盛の弟粟義有が後見人となったが、実際の家政は小野崎、江戸氏ら宿老の専横であった。
鎌倉の動きに対し、常陸国内では藤姓である上杉氏からの入嗣に反対し、長倉義景を中心に山入与義、額田義亮らが挙兵、譜代の国人層も同調して龍保丸入国を阻止する動きとなった。この争いに対して、鎌倉公方足利持氏は討伐軍を起こし、長倉城に拠った反抗勢力を包囲した。籠城軍は公方の介入による大軍に攻められ、予想外の展開に混乱もあり、一年後には降伏することとなる。だがこの叛乱によって大きな処分を受けた者はおらず、むしろ山入氏は足利氏への軍忠、佐竹氏家中での影響力の問題もあり、却って優遇され勢力を拡大している。そしてこのことが後に佐竹宗家と一族山入氏との対立のきっかけとなり、その対立は応永二十三年(1416)上杉禅秀(氏憲)の乱、永享十年(1438)永享の乱、同十二年(1440)結城合戦、享徳三年(1454)享徳の乱などにおいて、室町将軍家と鎌倉府との対立を背景に約100年に渡って続いた。
その中で佐竹宗家は数度太田城から逐われている。享徳元年(1452)には佐竹義憲の長子義俊が、弟で上杉憲実の養子となっていた実定、及びそれに与した山入祐義、江戸通房らに追放されて孫根城へ逃れた。寛正六年(1465)に定実が死去し、その子義実が水戸城へ出奔するに至り義俊、義治父子は太田城復帰を果たすが、その後父子の対立が生じて義治が大門城へ移り、父義俊の死後に家臣に迎えられ太田城に入った。その義治が延徳二年(1490)に死去し、子の16代義舜が家督を相続すると、山入義藤が江戸氏や天神林氏に推されて補佐役となった。それを好機と見た義藤、氏義父子は、山入一揆を結集して太田城へ入城、身の危険を感じた義舜は近臣とともに大山城へ走った。太田城を完全に占拠した山入氏は佐竹氏の家政を専断し、宿老の江戸氏、小野崎氏も混乱に乗じて主家の所領を侵略、自領拡大と地位確立を図った。この山入一揆の団結は強く、義舜義兄の磐城大館城主岩城常隆の仲介も甲斐なく、戦闘は止まなかった。しかし永承元年(1504)、岩城氏の加勢を受けた義舜勢は太田城の奪還を果たし、逃走した氏義を捕らえて処刑、ついに山入一揆は平定された。その後義舜は家法を制定して家臣の統制を強め、17代義篤、18代義昭の代には戦国大名としての体制が確立されていった。
以降さらに勢力を拡大していった佐竹氏は、小田原城主北条氏に圧迫された関東管領上杉憲政から、上杉の家名と関東管領職の譲渡という話を持ちかけられる程の実力を有するまでに成長する。憲政の申し出に対し、佐竹義昭は北条氏討伐は受け容れながらも、源氏の名流であるという誇りと、名目だけの管領職は不要であるとしてそれを拒絶した。その後上杉の名跡、管領職が越後国守護代の長尾景虎に譲られたのは周知の通りである。
19代義重の代には家政も安定し、版図も常陸国全域、下野国東部、陸奥国南部にまで拡大、義重は“鬼”と周辺諸大名に恐れられる存在となっていた。しかし広大な所領は逆に兵力を多方面へ分散させなければならなくなり、天正十八年(1590)の小田原城征伐に至るまで、北は奥羽の伊達氏、西は那須氏、南は小田、江戸、そして北条氏らに対しての交戦を余儀なくされていた。
小田原城征伐に際し、義重の子20代義宣は豊臣秀吉に臣従し、常陸国54万石を安堵されて近世大名となった。義宣は領国経営の新たな拠点として、戦国大名化していた家臣江戸氏の居城であった水戸城に着目する。江戸氏は小田原に参陣せず、独立した大名と認められていなかったため、佐竹領内の問題として処理出来たからである。そこで義宣は城明渡しを拒否した江戸重通を逐って水戸城に入城、次いで府中城主大掾氏を攻め滅ぼし、また有力国人衆であった南方三十三館を策を以て討伐、常陸国の統一を果たした。
常陸国を統一した義宣は、水戸城を整備、拡張して本拠を移し、太田城は以後北城と称されて義重の隠居城となり、領内北方の守りを固めていた。しかし秀吉の死後、政治の実権を握った徳川家康による若松城主上杉氏討伐、そして関ヶ原合戦時の不鮮明な態度から、慶長七年(1602)出羽国秋田への国替を命じられ、遂に佐竹氏による常陸国支配は終焉を迎えた。なお出羽国へと移った義宣は、初め安東氏の居城であった湊城へと入城、その後久保田城を築城して居城とし、以後明治維新に至るまで久保田藩主佐竹氏として存続した。また太田城は御三家水戸徳川氏の所領となり廃城となったが、一部城館としての機能を残して太田御殿と称された。宝永四年(1707)から享和三年(1718)の間、水戸藩付家老中山氏が松岡城より移って居城としている。
…長いっすね(^-^; ちょっとは読みやすくすんべと段落を分けましたがあまり意味なし。
現在は太田小学校や宅地となっており、遺構はほとんど見られないです。写真の城址碑は太田小学校の敷地内に建てられており、わたしは早朝不法侵入を犯して撮影しました(^-^;
台地上に所在しており、それほど防御に難のある城館とも思えませんが、合戦になると佐竹氏はすぐ太田城を棄ててしまう…何故? |
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馬坂城 |
馬坂城跡碑、解説板。 |
【所在地】 |
常陸太田市天神林町
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【別称】 |
間坂城、佐竹城、稲木城、天神林城 |
【築城年】 |
平安時代 |
【築城者】 |
天神林正恒 |
【城主変遷】 |
天神林氏−佐竹氏−佐竹氏[稲木氏、天神林氏]… |
【廃城年】 |
慶長七年(1602)か |
【現状】 |
耕作地、宅地 |
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平安時代、秀郷流藤原氏である天神林刑部丞正恒が築城し居城したとされる。
天承元年(1131)、京より下向した新羅三郎源義光の孫昌義は、長承二年(1133)天神林氏を逐って馬坂城を居城とし、以後佐竹氏を称した。その後子の忠義が佐竹氏を継承したが、忠義は弟の太田城主佐竹隆義へ惣領職を譲った(外戚の大掾氏を継いだ?)ため、以降佐竹氏の本拠は以後太田城へ移った。
その後は4代秀義の子義清が稲木氏を称して居城、稲木氏が絶えた後は14代義俊の子義成が天神林氏を称して居城した。次いで天神林氏2代義益は、佐竹惣領家に対して自立を主張した山入義藤、氏義父子に与して“山入一揆”となり、延徳二年(1490)山入氏が太田城を占拠すると山入氏の本拠地山入城へ移った。しかし明応年間(1492-1501)頃には、太田城を逐われた佐竹義舜が岩城氏らの加勢を得て勢力を回復、馬坂城は天神林氏の手から離れたとされる。
慶長七年(1602)佐竹氏の出羽国秋田移封に伴い廃城になたっと考えられている。
現在は畑地となっており、主郭に写真の城跡碑、解説板の建てられている。この郭の東西にそれぞれ郭が置かれ、3つの郭を東西に並べた縄張となっており、北を鶴ヶ池、西南を山田川が囲む天然の要害であったと解説板にはあるが、中世初期においても防御は充分ではなかったと「日本城郭大系」では評されている。
写真の通りまだ夜も明け切らぬ時間帯に訪問したんですが、数枚撮影した写真の1枚にナニやら得体の知れぬ光が…。ストロボ光の反射だと自身には納得させていますが、その位置には反射物はなく、また被写体には全くブレもないのでどうにもおかしいんですよね…。所謂“オーブ”と呼ばれる光なら、心霊現象でも何でもないので全く気にしなかったんですが…コワイ時間帯にお城に行っちゃだめですな。ぶるぶる。 |
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【参考文献】「日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬」(新人物往来社1979)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992) |
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