北塩原村
旧耶麻郡北山村(〜S29) |
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赤館 |
赤館跡遠望。 |
【所在地】 |
北塩原村北山寺ノ前
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【別称】 |
阿賀館 |
【築城年】 |
明応年間(1492-1501)か |
【築城者】 |
中ノ目阿賀か |
【城主変遷】 |
蘆名氏[松本氏(中ノ目氏)]… |
【廃城年】 |
永正二年(1505)か |
【現状】 |
畑地 |
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綱取城居館群の一。
明応年間(1492-1501)頃、綱取城主松本勘解由左衛門宗輔家臣、中ノ目阿賀が居住していたとされる。永正二年(1505)松本氏と佐瀬、富田氏の対立に端を発した合戦で綱取城は落城、廃城となったとされるので、同時に赤館も廃されたものであろう。
綱取城西方約1.5kmほどの場所に立地する平地館で、現在畑地となっている東西80m、南北60mほどの主郭部北側に土塁、空堀が遺る。東側は島原堰を利用した堀となっており、北側の空堀も往時は水を引き入れていたとも考えられている。西側は現在農道が走っているが、459号国道となっている南側と共に堀が巡らされていたものであろう。館名の由来は、中ノ目阿賀の名から阿賀館とされ、それが赤館に変化したものとも推察されている。
喜多方市街地より459号国道を大塩、裏磐梯方面に進み、りんも通ったさくら幼稚園、小学校を越えた左側の微高地に標柱が建てられています(たまに寝てるけど)。主郭部は前述の通り畑地となり、その奥に土塁、空堀が遺っています。特に主郭部北東隅の状況が良い感じかな。素人目では主郭部北側の墓地や東側の畑地、国道を挟んだ南側にも遺構がありそうで、単郭の方形館とも思えないのですが、不勉強なわたしには解明不可です。 |
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居館 |
居館跡標柱付近より望む綱取城跡。 |
【所在地】 |
北塩原村北山上ノ台
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【別称】 |
居館(エダテ) |
【築城年】 |
明応年間(1492-1501)か |
【築城者】 |
松本宗輔か |
【城主変遷】 |
蘆名氏[松本氏]… |
【廃城年】 |
永正二年(1505)か |
【現状】 |
畑地、宅地 |
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綱取城居館群の一。
綱取城西麓600mほどの位置に上ノ台館と隣接して築かれた、綱取城主松本勘解由左衛門宗輔の居館であった。永正二年(1505)松本氏と佐瀬、富田氏の対立に端を発した合戦で綱取城は落城、廃城となったとされるので、当然この館も同時に廃されたものであろう。
北塩原村役場の南側に所在し、現在は畑地、宅地として利用され、さらに459号国道が中央部を東西に縦断している。畑地南側に土塁、さらにその南側斜面には空堀、石塁が遺っている。また国道と役場駐車場の間にある畑地は以前は水田であり、土合堰より水を引いた水堀であったと考えられている。
この居館を中心に、東方に詰城である綱取城、西方に隣接して家臣の住した上ノ台館、そしてさらに西方に赤館、新井館、一盃館を配した堅固な構えであったことが偲ばれる。
資料によっては「エダテ」と…それって訛ってんじゃないの?
まあ館名そのままの綱取城の居館であり、むしろ松本氏館としたほうが良いかもです。なお上ノ台館との境界はよく判りません(笑)
国道から南東側へ通じる道(土合道)を進み大塩川を渡ると旧米沢街道と合流し、奥さんの実家である関屋集落に入ります。現在館跡南側はすっかり伐採されていますが、数年前までは鬱蒼とした林であり、義妹は子どもの頃その林の中を通って学校に行ったと言ってました。居館の空堀、あるいは上ノ台館の腰郭、武者走りを通っていたのかも知れませんね。 |
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一盃館 |
一盃館跡標柱。 |
【所在地】 |
北塩原村下吉
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【別称】 |
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【築城年】 |
明応年間(1492-1501)か |
【築城者】 |
一杯大輔か |
【城主変遷】 |
蘆名氏[松本氏(一杯氏)]… |
【廃城年】 |
永正二年(1505)か |
【現状】 |
水田 |
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綱取城居館群の一。
綱取城より西へ2.5kmほど、下吉、谷地集落の中間の水田地に所在し、明応年間(1492-1501)頃に綱取城主松本勘解由左衛門宗輔家臣、一盃大輔が居住したとされる。永正二年(1505)松本氏と佐瀬、富田氏の対立に端を発した合戦で綱取城は落城、廃城となったとされるので、同時期に廃されたものであろう。
現在は圃場整備で全くの水田となっており、周囲との段差も特に感じられない。整備前には東西36m、南北71mの主郭部が畑地として残り、その周囲を最大20mの内濠が水田として巡っていたという。また外堀が約200mほど離れた場所にあったとされ、整備工事の際に土留用の丸太杭が出土したというが、現在は水田の地下に眠っている。
水田の脇の建てられた標柱がなければ所在の確認は困難な館跡です。『北塩原の城館柵』に圃場整備直前の航空写真と略図が載っておりますが、現在は想像で復元するしかありません。 |
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上ノ台館 |
上ノ台館堀跡。 |
【所在地】 |
北塩原村北山上ノ台
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【別称】 |
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【築城年】 |
明応年間(1492-1501)か |
【築城者】 |
戸山数馬、神山一次、榊田勘十郎らか |
【城主変遷】 |
蘆名氏[松本氏(戸山氏、神山市、榊田氏ら)]… |
【廃城年】 |
永正二年(1505)か |
【現状】 |
畑地、宅地 |
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綱取城居館群の一。
綱取城の西側600mほどに所在し、綱取城主松本勘解由左衛門宗輔の居住する居館の西側に隣接している。この館には松本氏重臣である戸山数馬、神山一次、榊田勘十郎ら家臣団の住居があったという。永正二年(1505)松本氏と佐瀬、富田氏の対立に端を発した合戦で綱取城は落城、廃城となったとされるので、他の居館と同様にこの館も廃されたものであろう。
北塩原村役場の南側、居館のすぐ西側に所在し、居館同様現在は畑地、宅地として利用される。周囲には土塁があったであろうが現在は失われており、その南側斜面には空堀、武者走り、腰郭がある(私有地なので未確認)。顕著な遺構としては、台地突端部の459号国道と南側に入る土合道分岐点に、一段低い畑地として堀跡が遺っている。現在は国道によって分断されているが、役場南側にも畑地として堀跡が遺っており、上ノ台館、居館の北側を画している。
別の館跡として扱われているので居館と分けましたが、正直なところ複郭の館なんじゃねーの?って感じです。見たら判りますが本当にお隣さん。『新編会津風土記』には、上ノ台館東方約100mほどに居館が所在したとある様ですが、現状を見る限り隣接しています。なお且つ館主として数名の名が挙がっていますが、改変されているとしてもそれほど大きな敷地ではありません。皆さん名前が伝わっているほどなのにウサギ小屋に住んでたのかな…? |
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綱取城 |
綱取城跡登城口。 |
【所在地】 |
北塩原村北山姥ヶ作
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【別称】 |
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【築城年】 |
明応年間(1492-1501)か |
【築城者】 |
松本宗輔か |
【城主変遷】 |
蘆名氏[松本氏](-1505)… |
【廃城年】 |
永正二年(1505) |
【現状】 |
山林 |
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築城時期、築城者は不明。明応年間(1492-1501)に黒川城主蘆名氏重臣、松本勘解由左衛門宗輔が居城した。
松本氏は蘆名氏四天宿老といわれる重臣であり、信濃国諏訪の発祥と伝えられ、蘆名氏には享徳二年(1453)には臣従していたことが確認出来る。蘆名氏の勢力拡大に比例して松本氏の所領も拡大し、大沼郡船岡館を中心に会津一円に一族が城館を構えたが、ほかの重臣とは異なり叛乱の記録が数多く残っている。
明応九年(1500)正月12日、叛意を疑われた宗輔の兄松本対馬守輔政の居館対馬館が蘆名盛高によって攻撃を受け、輔政は弟を頼り綱取城へと落ちた。そこで盛高は耶麻郡三橋村に兵を集め、15日に綱取城に立て籠もる輔政、宗輔兄弟を囲み、遂に2月5日落城した。そして翌日輔政は捕らえられて誅殺されたが、宗輔は降伏したため許されている。
次いで永正二年(1505)、重臣間の対立が引金となり、蘆名盛高、盛滋父子の対立が生じた。佐瀬、富田氏を支持した盛高に対し、盛滋は松本源三、勘解由宗輔を支持し、松本氏の居城綱取城へと籠城した。父子の相克に対し、白川結城氏が和議の斡旋に乗り出したが、その代償として南山三郷の割譲を望んだため失敗に終わり、両者は塩川の日橋川を隔てて合戦に及んだ。しかしこの合戦で盛滋、松本氏は敗れ、伊達氏を頼って出羽国長井荘へと落ち延びた。なお盛滋と共に逃れた家臣の中に勘解由宗輔の名は見られず、討死したものと考えられている。
この合戦の後、綱取城は廃城になったとされるが、戦国時代末期まで改修が加えられつつ存続したとも考えられている。
米沢街道、大塩川を見下ろす天険の要害に築かれ、出羽国米沢城を本拠とする伊達氏に対する戦略上重要な城であった。比高約130mの要害山山頂部に主郭が置かれ、勾配が急であるため物資や水を綱で引き上げたことから綱取城と称されたという。
山頂の主郭には土塁、石積が見られ、周囲を数段の腰郭が巡る。西側には門跡と見られる石積、堀切を隔てて二郭があり、東側には堀切を隔てて外郭(三郭)がある。主郭は東西約14m、南北約9mの小規模な菱形の平場で居住性に乏しく、また城内には水の手も見当たらないことから、長期の籠城は不向きであったと考えられる。
城主松本氏は平時は南西の居館に住し、家臣団は上ノ台館、赤館、新井館などに住した。また支館として東方に清野六郎屋敷、坪家館、西方に一盃館が置かれていた。
現在は山林となっており、北塩原村立第一中学校入口脇の459号国道沿いに解説板が設置され、そこから主郭部まで上ることが出来ます。またさらに国道を東へ進むと"要害山駐車場"があり、そこから上ると城跡南側の絶壁下に至りますが…そこからどう行けば良いの?って感じです。
城跡南側、大塩川沿いの字土合付近には、明応の合戦の際の悲話が伝わる"姫籠渕"の標柱が寝てたり立ってたりします。その伝説とは、松本対馬守には美しい秀姫という女があり、その美しさを耳にした蘆名盛高が度々黒川城へ出仕させよと厳命したにもかかわらず対馬守は応じず、ついに盛高によって対馬館を取り囲まれてしまう。漸く囲みを破って弟勘解由の居城綱取城へ逃れた対馬守、秀姫だったが、すぐに盛高の軍勢に囲まれてしまった。落城は時間の問題、せめて女子供だけは落ち延びさせたいと軍議を重ねていると、何処ともなくイケメンな若者が現れ、無事姫を助け出したら嫁にくんつぇと言う。姫を助けたい一心から対馬守がその申し出をOKすると、イケメンはにょろりと本性である大蛇に身を変え、自らの身体を大塩川に渡してまんまと姫や女子供を落ち延びさせた。しかし秀姫はエロ親父に迫られるわイケメンは爬虫類だったわで我が身の薄幸を嘆き悲しみ、大塩川に身を投じて儚い生涯を閉じた…というものです。
なおウチの奥さんの実家が大塩川を隔てて所在する関屋集落(米沢街道沿いなので関が置かれたというのが地名の由来らしい)なんですが、この姫籠渕周辺も昔とだいぶ様子が変わってる〜なんて言ってました。綱取城自体も国道が通ったことで南側がだいぶ破壊されているものでしょうし、往古は大塩川河畔から要害山一帯を含めた壮大な山城だった事と思われます。 |
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坪家館 |
坪家館跡。 |
【所在地】 |
北塩原村関屋蟹澤字坪家舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
常世氏か |
【城主変遷】 |
蘆名氏[松本氏(常世氏)]… |
【廃城年】 |
永正二年(1505)か |
【現状】 |
耕作地、山林 |
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綱取城の支館の一で、松本氏家臣の土豪、常世助光の居館とされるが確証はない。
綱取城の東南東に位置しており、地名としても残っています。山頂に平場が残るとされますが未確認です。
以前標柱が建てられていたのを見て城館跡だと知ったのですが、その標柱がどこにあったか忘れちゃいました(^-^;
過去の記述を見ると一ノ沢集落内だったみたいなので再訪かな。なおその標柱を見つけたときは、娘がまだ幼児だったので登らなかったんですが…それよりもすぐ近くでまむしを見ちゃったんですよねー。
しかしこの画像、車で5分もかからない場所なんだし、もーちょっとマシなのを撮れって感じですね(-_-; |
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新井館 |
新井館跡標柱。 |
【所在地】 |
北塩原村北山新井舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
明応年間(1492-1501)か |
【築城者】 |
新井田善五郎か |
【城主変遷】 |
蘆名氏[松本氏(新井田氏)]… |
【廃城年】 |
永正二年(1505)か |
【現状】 |
宅地、耕作地 |
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綱取城居館群の一。
明応年間(1492-1501)頃、松本勘解由左衛門宗輔家臣新井田善五郎が居住していたとされる。永正二年(1505)松本氏と佐瀬、富田氏の対立に端を発した蘆名氏の内訌で綱取城は落城、廃城となったとされるので、同時期に廃されたものであろう。
約50m四方の方形の主郭を持ち、その周囲を幅約7〜11mの水堀で取り巻いていた。以前は主郭部周囲に土塁が残っていたというが、耕地整理によって破壊されているため現在は見られない。また周囲の水堀は、主郭部と比べて一段下がっているのが確認出来る程度である。
主郭部では過去に耕作の際、平たい土台石と見られる大石が数個出土したという。
村立さくら小学校すぐ西側に所在するので、以前はりんの運動会やら発表会の空き時間に煙草を吸うために度々訪問してました(笑)
付近は若干の段差が認められるものの、以前は水田として遺っていたという堀跡も畑地に転用された部分がある様で、面影が非常に掴みづらいです。ただ、付近の水田の代掻きが終わった頃ですかね、ああこんな感じで堀が取り巻いていたのかな…と思った時がありました。
因みに写真の標柱、寝たり起きたり動きが結構激しい様で、初めて訪問した頃と比べると現在はだいぶ背丈が縮んでおります(笑) |
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