北塩原村
旧耶麻郡大塩村(〜S29)
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赤城館
459号国道より望む赤城館跡。
459号国道より望む赤城館跡。
【所在地】 北塩原村大塩長坂
【別称】 舘山
【築城年】 戦国時代
【築城者】 赤城氏か
【城主変遷】 蘆名氏[赤城氏]…
【廃城年】  
【現状】 山林
 戦国時代、黒川城主蘆名氏の手によって築造されたものと考えられるが詳細は不明。
 天正十七年(1589)摺上原合戦で蘆名氏は伊達政宗の侵攻により滅亡するが、耶麻郡夏井館(喜多方市高郷町)主赤城玄蕃頭忠清の嗣子左馬介忠師が親族と共に下川前に隠れ住み、元和二年(1616)死亡したという。なお忠師の墓が下川前来正寺に残るという(未確認)。

 赤城氏は刑部大輔藤原顕清なる人物を祖とし、足利氏に仕えて摂津国安部を領していたという。曾孫の上野佐詮頼が扇谷上杉氏に仕えて上野国赤城に塁を構え、以後赤城氏を称した。更に詮頼の玄孫勘解由忠範が故あって
赤城塁を去り、奥州へ下って蘆名氏に仕え、耶麻郡大槻館(西会津町野沢)に居住した。その嗣子忠清は夏井の地頭中村備中の女を娶り、備中の死後その遺領を与えられたという。なお忠清の長男は近内忠時と称して越後国上杉氏に仕え、子孫は米沢で上杉氏の禄を食んだ。次男忠師は嗣子となり、三男は雅楽介忠道を称して夏井館に住したとされる。また忠師の子孫は館山より下川前に居を移した後、6代孫の與五右衛門宗保が元文五年(1740)頃耶麻郡塩川(喜多方市塩川町)へ移住、今日も続いている。

 459号国道沿い、漆(北山)綱取城と大塩柏木城の中間に所在し、大塩川を堀とした急峻な絶壁上に立地しています。丘陵頂部に東西約35m、南北約12mの平場があり、北側に3段ほどの曲輪がある…様ですが、周囲は全くの断崖絶壁。『北塩原の城舘柵』に略図が記載されておりますが、著者の渡部氏はどうやって調べたの?って感じです。
 果たして蘆名氏の城館として築かれたものなのか、居住性は全く乏しいので居館は何処に置かれたものか、そして来正寺にあるという忠師の墓、そして夏井に遺るという父玄蕃忠清の墓と夏井館、はたまた塩川へ移って商人になったという子孫宗保の墓など、なかなか興味が尽きない館跡です。
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五十嵐道貞屋敷
五十嵐道貞屋敷跡遠望。
五十嵐道貞屋敷跡遠望。
【所在地】 北塩原村大塩
【別称】  
【築城年】 天正十二年(1584)頃か
【築城者】 五十嵐道貞か
【城主変遷】 蘆名氏[三瓶氏(五十嵐氏)]…
【廃城年】 天正十七年(1589)か
【現状】 山林、耕作地
 天正十二年(1584)黒川城主蘆名盛高は、桧原峠を越えて会津侵攻を図る伊達政宗に備えて大塩に柏木城を築き、城将として三瓶大蔵大輔重実を置いた。その柏木城の命綱である水源は通称「通り清水」と呼ばれ、2キロにも及ぶ舘上堰によって利用された。その水守番人であったとされるのが五十嵐道貞で、その居館が道貞屋敷といわれる。
 五十嵐道貞が柏木城築城とともに来た三瓶大蔵の家臣であったか、或いはもともと地元の土豪であって、柏木城築城後三瓶大蔵の家臣として幕下に連なったかは不明である。

 天正十七年(1589)摺上原合戦で蘆名氏が敗れて柏木城が放棄されると、以降五十嵐氏の子孫は大久保に土着し帰農した。現在も後裔が大久保に住むが、現存する最古の墓石は元文五年(1740)五十嵐道貞五代孫惣右衛門貴正のものであることから、柏木城落城後も数代の間はこの道貞屋敷に隠れ住んでいたものとも考えられている。

 山林内に遺る東西50m、南北28mほどの平場が主郭部とされ、石塁、土塁、空堀が見られる。北東部に石塁に囲まれた虎口が遺り、また主郭部南側中央部には庭園跡と思われる池の跡が遺る。

 先日10年振りくらいかな…で訪問したのですが、正直なところ全く場所も様子も覚えていなかったです(笑) 大塩から桧原の桜峠方面へ抜ける林道沿いで、館跡付近まではしっかりと舗装してあり車で訪問可能です。…が、以前は標柱が建てられていたんですが、なくなっちゃってましたねー。資料も持たずに写真撮影のためだけに訪問したので、踏み込んで確認出来ませんでした。
 夏前、菱形模様のスネークが出てくる前にもう一度行ってみようかな?
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柏木城
柏木城跡案内板。
柏木城跡案内板。
【所在地】 北塩原村大塩
【別称】 柏木の森の塁
【築城年】 天正十二年(1584)頃か
【築城者】 五十嵐道貞か
【城主変遷】 蘆名氏[三瓶氏(五十嵐氏)]…
【廃城年】 天正十七年(1589)か
【現状】 山林、耕作地
 大塩から桧原を通り米沢へと通ずる会津米沢街道は、黒川城主蘆名氏家臣の桧原地頭、穴澤氏一族により守備されていた。穴澤氏は一族の堅い結束と、要害である戸山城巌山城に拠り、再三に渡り伊達輝宗、政宗父子の会津侵攻を撃退してきた。しかし年々激しさを増す伊達氏の侵攻に備えるべく、天正十二年(1584)盛隆の命によって柏木城が築かれ、城番として三瓶大蔵大輔重実が置かれた。そして同年、遂に伊達氏の策によって穴澤氏が桧原を逐われると、柏木城は北方の最前線として位置付けられることとなる。

 城番である三瓶氏は俵藤太藤原秀郷を祖とし、祖先が安房国三範城(?)を治めて以降三瓶を称したという。その後安房国、相模国鎌倉で代を重ねるが、弘治二年(1556)三瓶重頼が相模国三浦で里見義弘、北条氏康との合戦で敗走、陸奥国三戸へと逃れた。そして永禄元年(1558)蘆名盛氏を頼って会津へ来たり、その幕下に加わり河沼郡代田の荒木城を預けられたという。その重頼の曾孫が大蔵大輔重実であるという。また一説には、三瓶氏は伊達氏の重臣であったが、伊達晴宗の女が蘆名盛興に嫁した際、その側臣として蘆名氏の幕下に入ったとするとも伝わる。
 三瓶大蔵は、桧原を逐われた穴澤俊次ら150騎とともに柏木城を守備した。

 天正十三年(1585)伊達政宗が関柴館の地頭関柴(松本)備中の内応に成功、関柴より家臣原田左馬介宗時を進め、自身は新たに構築した桧原城より白石若狭守宗実を先鋒として大塩萱峠まで侵攻した。この時は降雨と濃霧、そして険阻な地形から大軍行動が不可能であったため引き返したとされるが、柏木城の堅固さを知って退却したともいわれている。その後三瓶、穴澤氏らは萱峠からの侵攻に備えてさらに鹿垣を構築、逆に桧原奪還の行動を展開したが実らなかった。

 その後政宗は守りの堅い桧原口からの会津侵攻を諦め、仙道(福島県中通地方)からの侵攻を画策、かねてより主家蘆名氏と折り合いの悪かった猪苗代城主猪苗代盛国の内応に成功し、天正十七年(1589)磐梯山麓摺上原合戦で蘆名氏を攻め滅ぼした。その翌日、三瓶大蔵、穴澤俊次は城に火を放ち退却、以降柏木城は使用されることもなく廃城となった。

 なお柏木城より落ちた後の三瓶大蔵の足取りは不明であり、摺上原合戦で討死したともいわれる。また伊達氏の軍門に降るを潔しとせず、越後路を落ち延びてそのまま現在の西会津町出戸に辿り着き再起を期したともいわれ、現在もその子孫が連綿と続いているという。

 北山の関屋集落から大塩方面に向かう旧米沢街道沿いに所在し、現在は459号国道沿い、大塩裏磐梯温泉手前にある商店”鈴木家”さんの裏山となります。蘆名勢が退却した後は一部を除いて大きく破却されることもなかったため、遺構は良好に遺っています。戦国時代末期、蘆名氏が持つ最新技術を以て築かれた山城で、東西1100m、南北600mという壮大な城郭でした。村では国の史跡指定を目指して発掘調査、整備を進めており、また村内外の方々を対象にした散策イベントなども度々実施されています。イベントや発掘調査現地説明会には毎回参加していますが、毎回成果が挙がっており村民としては嬉しい限りです♪
 なお平成二十五年に会津で開催された第一回全国城サミットの際は、お世話になっている郷土史家の方からの依頼を安請け合いして私が案内人を務めさせて頂きました。…が、前日まで父親の葬儀その他で実家に滞在していたため、ロクに予習復習も出来ないまま案内スタート。コースを間違えたり終始レヨレヨな案内となってしまいました…(>_<; イベント、村関係者の皆様は問題なかったよーと言って下さいましたが、ご参加頂いた皆様(米沢市長もいらっしゃたはず…)には大変申し訳なかったです。
トップさくらとおしろ福島県耶麻郡北塩原村清野六郎屋敷
清野六郎屋敷
清野六郎屋敷跡標柱及び柏木城跡案内板。
清野六郎屋敷跡標柱及び柏木城跡案内板。
【所在地】 北塩原村大塩下六郎屋敷
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 清野氏
【城主変遷】 蘆名氏[松本氏(清野氏)]…
【廃城年】 明応九年(1500)か
【現状】 北塩原村活性化センター
 綱取城主松本勘解由左衛門宗輔に従った土豪、清野六郎の館と伝わる。

 旧米沢街道沿いに所在し、綱取城の支館として桧原方面へ備えるとともに、大塩地頭中島美濃守利久の中島館を牽制する目的で築いたものと考えられている。松本氏一族はは蘆名氏の重臣ではあったが、主家に対する叛乱の記録も多く、中島氏とは反目していたものであろうか。

 明応九年(1500)蘆名盛高の攻撃により綱取城が落城した後はこの館も歴史上から姿を消し、以後大塩は中島氏、穴澤氏の勢力下となった。その後時代は下って天正十二年(1584)、伊達政宗の侵攻により桧原を奪われた蘆名氏の命により、この館跡を取り込んだ形で柏木城が築かれている。

 柏木城跡のすぐ西側に隣接し、以前は大塩中学校、現在は北塩原村活性化センターの敷地となっており、駐車場脇に標柱と柏木城の解説板が設置されています。六郎屋敷という地名が現在も残っており、館跡であることが偲ばれますが、特に目立った遺構は見られません。
トップさくらとおしろ福島県耶麻郡北塩原村中島館
中島館
中島館跡。
中島館跡。
【所在地】 北塩原村大塩中島道南
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 中島氏か
【城主変遷】 蘆名氏[中島氏]…
【廃城年】 天正十七年(1589)か
【現状】 寺社境内地、墓地、耕作地
 天正年間(1573-92)、黒川城主蘆名氏家臣中島美濃守利久が居住したという。

 中島氏は鎌倉幕府侍所別当和田義盛を祖とし、建保年間(1213-19)義盛の子新左衛門尉常盛の子幸若が、3歳の折に家難を避けて会津へ逃れたのが始まりという。幸若は長じて中島靱負義仲(義永?)を称し、大塩地頭となる美濃守利久はその9代孫である。
 利久には嗣子がなく、桧原地頭穴澤加賀守俊恒の五男左馬介信清を養子としていた縁で、天正十二年(1584)伊達政宗の侵攻により桧原を逐われた穴澤一族を迎え入れている。そして翌年、柏木城城番三瓶大蔵大輔重實、伊東大膳らと協力して鹿垣柵を構築し、萱峠を越えて侵攻する伊達勢に備えた。
 その後信清は穴澤姓に復して左衛門貞利と称し、その子孫は大塩にあって問屋、肝煎を世襲、現在もその血脈を保っているという。

 大塩の温泉街の南東、中島の集落を越えて砂利道の農道を進むと、道路沿に標柱が建っています。標柱の建っている辺りがおそらく待場(マツバ)と呼ばれる場所で、その東側のやや南北に延びた六角形の耕作地が館跡とされている様ですが…よく判りませんでした。南東側の畑にいたお父さんにお伺いしたら、怪訝そうな顔(正しくは怪訝な顔)をしながらも親切に色々教えて下さいました。
 以前の愛車三菱ギャランはどんなに狭い路地でも悪路でも突き進み(そして傷付き)ましたが、ここは非常に焦ったのを憶えています。温泉街側より国道側から侵入したほうが吉かもしれません。また徒歩で侵入する場合は叢からにょろっと出現するスネークに注意。私が遭遇したのは石山新次郎だったので、追いかけたらすぐにょろっと逃げて行きましたけどね。