北塩原村
旧耶麻郡檜原村(〜S29)
トップさくらとおしろ福島県耶麻郡北塩原村巌山城
巌山城
巌山城跡遠望。
巌山城跡遠望。
【所在地】 北塩原村桧原
【別称】  
【築城年】 永禄八年(1565)
【築城者】 穴澤俊光、あるいは俊恒か
【城主変遷】 蘆名氏[穴澤氏](1565-84)
【廃城年】 天正十二年(1584)
【現状】 山林、遊歩道
 永禄八年(1565)、黒川城主蘆名氏家臣の桧原地頭、穴澤新右衛門尉俊光が築いたとされる。
 桧原は近世まで会津と出羽国米沢を結ぶ重要な街道であったため、米沢より会津進出を図る伊達輝宗、政宗父子が侵攻を繰り返していた。俊光は居城である
戸山城が伊達氏に対して地の利を得ず、南東に所在する巌山こそが最適であるとして居城を移したという。また俊光の父加賀守俊恒の隠居城として築かれたともいわれ、築城年も永禄七年、あるいは同九年ともいわれている。

 穴澤氏は俊恒、俊光父子を中心とした一族の堅い結束を以て幾度も伊達氏の侵攻を跳ね返すが、伊達政宗は策を講じ、風呂屋又五郎の助力を得て俊光の従兄弟四郎兵衛の内応にも成功した。そして天正十二年(1584)、四郎兵衛の手引により伊達勢が桧原へと侵攻し、不意を衝かれた穴澤勢は、俊光が風呂屋での奮戦の末討死、巌山城にあった隠居の俊恒は妻女とともに自刃したという。これ以降桧原は伊達氏勢力下となり桧原城が築かれ、穴澤一族の桧原奪還が果たされることはなかった。

 現在城跡は堂場山と呼ばれ、磐梯山噴火によって生じた桧原湖上に半島状に突き出した形で所在している。最高所にある東西約50m、南北約30mの不整形の平場を主郭とし、その周囲を土塁で取り巻いた、簡素ながら天然の要害を利用した城跡である。

 現在は、あまり人が歩いているのを見たことがない遊歩道が整備され、主郭部まで楽に行くことが出来ます。劇的な遺構が見られる訳でもありませんが(むしろミズバショウが綺麗だな…と)、平場を取り巻く土塁などが遺っています。しかし近年はその存在自体が疑問視されている?みたいは感じ…。
 なお上記の「風呂屋」さんですが、当時は湯舟に浸かるという習慣がなく、組立式?のサウナの様なものを持った人が諸国を歩き蒸し風呂を提供していた…ということらしいです。通行にある程度の自由があったんでしょうから、貴重な情報源かつ謀略の手段として使われることもあったんでしょうねー。
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鹿垣柵
鹿垣柵跡標柱(現在は案内板が設置されています)。
鹿垣柵跡標柱(現在は案内板が設置されています)。
【所在地】 北塩原村桧原
【別称】  
【築城年】 天正十三年(1585)
【築城者】 穴澤、中島、三瓶、伊東氏ら
【城主変遷】 蘆名氏[穴澤氏](1585-89)
【廃城年】 天正十七年(1589)
【現状】 山林、遊歩道
 天正十三年(1585)穴澤氏、中島氏が柏木城を守備する三瓶大蔵大輔重実、伊東大膳らの助力を得、桧原より侵攻する伊達勢に備えて米沢街道沿いに築いた砦である。柴木で築いた障害を造り、鹿をも通さない堅固な砦であることから鹿垣と呼ばれたという。

 蘆名氏家臣の桧原地頭として
戸山城巖山城に拠り、一族の堅い結束を以て伊達氏を再三にわたって撃退してきた穴澤氏だったが、天正十二年(1584)伊達政宗の謀略によりその結束に乱れを生じ、当主新右衛門尉俊光が殺害され、その父加賀守俊恒も自刃を遂げた。桧原を逐われた俊恒の子助十郎俊次及び次男太郎兵衛、六男善七郎は、五男左馬允信清の養子先であった大塩地頭中島美濃守利久の居館中島館に身を寄せ、伊達勢の来襲に備えつつ桧原奪回を図っていた。そのために築かれた砦が鹿垣柵であった。

 対する政宗は、さらなるに会津侵攻の拠点として新たに桧原城を構築、城番として後藤孫兵衛信康を置いた。そして天正十三年(1585)、関柴館主関柴(松本)備中の内応を得、原田左馬介宗時、新田常陸介らに兵三千を付け入田付越えで北方(現在の喜多方)へ侵入させ、自らは大軍を率いて桧原城を進発する。しかし萱峠まで侵攻したものの、大軍を動かすには向かない険阻な地形と、濃霧、五月雨による視界不良から、先陣の白石若狭守宗実の進言で兵を引いている。なお原田、新田らの一軍は予定日を一日誤って北方へ侵攻するが、当然進軍を断念した本隊との合流も果たせぬまま蘆名勢によって散々に討ち負かされている。
 その後政宗は守りの固い桧原口からの侵攻を断念、一転して仙道(福島県中通地方)方面から侵攻を企図する。そして天正十七年(1589)、猪苗代城主猪苗代弾正忠盛国の内応を得、磐梯山麓摺上原合戦で蘆名氏を討ち滅ぼすこととなる。

 大塩温泉街から459号国道を外れ、桧原へ抜ける旧会津米沢街道沿いに所在しています。
 以前は標柱が建てられていながらも、"この下○○mに〜"との記載がありかなりスリリングな感じがしましたが、現在は旧米沢街道自体の整備が進み、ウォーキングイベントなどで何度か訪問しています。
 なお大塩から桧原集落へは旧街道をベースにしっかりと舗装された道路が通じており、道路沿いには伊達、蘆名氏の古戦場跡や一里塚、茶屋跡などの史跡が点在しています。しかしながら両集落の間に民家などはなく、当然通行量は多くないので、会津へ来たばかりで何も知らなかった頃(野生動物に免疫なかったしねえ…)は非常に不安を抱きながら通った記憶があります(^-^:
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桧原城
桧原城跡解説板。
桧原城跡解説板。
【所在地】 北塩原村桧原
【別称】 小谷山城、政宗塁
【築城年】 天正十三年(1585)、※天文年間(1532-55)とも
【築城者】 伊達政宗、※松本宮内とも
【城主変遷】 伊達氏[後藤氏](1585-90)
【廃城年】 天正十八年(1590)
【現状】 山林、遊歩道
 天正十三年(1585)伊達政宗が築き、城番として後藤孫兵衛信康を置いた。なお天文年間(1532-55)松本宮内なる人物が地取りしながら未完成に終わり、その跡を利用して築かれたともいわれる。

 米沢城主伊達氏は南進を図り、黒川城主蘆名氏の支配下にあった桧原への侵攻を繰り返した。しかし
戸山城巌山城に拠る蘆名氏家臣の桧原地頭、穴澤氏一族によってことごとく撃退されていた。
 しかし天正十三年(1585)、伊達政宗は内応策を用いて穴澤一族の結束を乱し、遂に桧原への進出を果たす。さらに政宗は関柴館主関柴(松本)備中の内応を得、原田左馬介宗時、新田常陸介らに兵3千をつけて入田付越えで北方(現在の喜多方)へ侵入させ、自らは白石若狭守宗実を先鋒に大塩へと出陣、萱峠を越えて蘆名勢の拠る柏木城へと侵攻した。しかし大軍を動かすには峠が険阻であり、濃霧、五月雨で視界が利かず行軍を断念する。そこで政宗は守りの堅い桧原口からの侵攻を諦め、代わりに猪苗代城主猪苗代氏への内応工作を開始、その成否を待つため桧原に逗留する。この間に、桧原奪還を図る穴澤氏らに備えて桧原城を築城するが、猪苗代氏への工作は不首尾に終わり、政宗は後藤信康を城番として
米沢城へと帰城した。
 その後天正十七年(1589)、猪苗代氏の内応に成功した政宗は、6月5日磐梯山麓摺上原で蘆名氏との決戦に挑み、翌6日にはそれに連動して桧原城より原田宗時が柏木城へと侵攻した。しかし摺上原での蘆名勢敗走の報を聞いた柏木城城番三瓶重実は、早朝の内に城に火を放って黒川へと退却しており、桧原口は完全に伊達勢の勢力下に置かれることとなった。

 桧原湖北岸、通称小谷山、館山といわれる標高954m、比高約130mの山頂に築かれた山城で、本丸、二の丸、外郭から成っている。その周囲を深さ約1〜1.6m、幅約2.8〜5mの空堀が巡り、その外側に土塁が巡る。本丸は約45m四方の正方形を成しており、その南側の腰郭、虎口を通って大手口へ続く九十九折りへと続く。本丸の北側に幅約9mの空堀を挟んで二の丸、虎口の南東側に外郭があり、その東西にはそれぞれ竪堀が伸びている。なお桧原湖畔に東西4町の桝形の土塁が残っており、大手口の馬出跡と伝えられている。

 現在は桧原湖畔の県道から主郭部まで遊歩道が整備されており、歩くのが下手なりんですら小学校低学年の頃に訪問したほど楽に登ることが出来ます。整備前は道標などが設置されていてもなかなか登る気になれませんでしたけどね…くまがいるし。
 ここ数年、村でも史跡の調査、整備に力を入れており、村民対象ながら探訪イベントなども実施されていました。私も数回参加させて頂きましたが、郷土史家石田さんは流石に会津人、侵略者である政宗さんの築城に対しては結構辛口な紹介をして下さいます(笑)
 イベント参加時に写真を撮影してはいるんですが、取り敢えず城館の追加作業を急ぎたいと思いますので後回し〜。今はもーちょっと良〜い感じの解説板が設置されてますよ。