会津若松市
旧河沼郡河東町(〜H17) - 旧堂島村(〜S32) - 旧郡山村分(〜M22)
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北郡館
北郡館跡北側土塁。
北郡館跡北側土塁。
【所在地】 会津若松市河東町郡山北郡
【別称】  
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】 蘆名氏[大塚氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地
 「福島県の中世城館跡」に、戦国期に大塚某が住む、とある。

 詳細が全く判らないんですが、館跡は現在民家となっており、周囲に堀、土塁が遺っています。最初に行ったときは全く偶然に見つけたんですが、その時にいらっしゃった方にお話を伺っておけば…。それから何度か訪問していますが、一度好機を逃すとなかなか恵まれないものですね。
 ちなみに別の機会に訪問した際は、館跡南側で発掘調査をしていました。そう、
郡山遺跡(会津郡衙)の発掘調査です。そういえば最初に行ったのはこの遺跡を探しに行った時だったかも知れません。
会津若松市
旧河沼郡河東町(〜H17) - 旧堂島村(〜S32) - 旧谷沢村分(〜M22)
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高畑館
高畑館跡付近。
高畑館跡付近。
【所在地】 会津若松市河東町谷沢高畑
【別称】 高畠館
【築城年】 安元元年(1175)頃か
【築城者】 伊澤俊行
【城主変遷】 藤原氏[伊澤氏]−源氏[神保氏]…
【廃城年】  
【現状】 耕作地
 平安時代末期、奥州藤原氏家臣伊澤権頭俊行が構築し、後に神保小次郎長保が住したとされる。
 当時会津は隆盛を誇った寺社勢力の慧日寺や、猿戻城を主城とした八館を築いて会津進出を図る越後城氏、そして藤原氏が互いに勢力を競っていたと考えられ、藤原氏は会津進出、支配に当たり地頭として河辺太郎高経を
御山館に置いていたという。高経が御山館にあったのは安元元年(1175)頃とされており、伊澤俊行もほぼ同時期に会津へ入部、高畑館を築いたものと推定されている。御山館の前衛として慧日寺、城氏の動向を探る役割を担ったであろうこの館が、どれだけ活躍したかを示す資料はないが、その後間もない文治五年(1189)の奥州合戦で藤原氏は滅亡しており、藤原氏の会津支配に大きな役割を果たしたものとは考え辛い。
 なお伊澤氏の後に高畑館に住したという神保氏は源頼朝の家人と見られるが、会津一円は蘆名氏祖である佐原十郎左衛門尉義連に与えられており、ごく短期間の居住であったか、佐原氏の被官として高畑館にあったのかは判然としない。

 『新編会津風土記』には東西十九間、南北二十七間、『会津鑑』『会津古塁記』には東西二十八間、南北二十一間とあり、規模の記載には差異が見られるが、館主の記載は同様である。なお館ノ内を字限図で見ると、東辺が南北五十四間、西辺が南北四十一間、また北辺が東西三十七間、南辺が東西四十五間となっており、不整形の方形館であったと見られる。また周囲は四間ほどの堀が周囲を取り巻いていたと見られている。しかし現在は圃場整備によって全く姿を消しており、遺構は存在しない。
 なお往古は伊澤村、その後高畠村と称されていたが、明治時代以降高畑村となった様である。
会津若松市
旧河沼郡河東町(〜H17) - 旧堂島村(〜S32) - 旧福島村分(〜M22)
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島村館
島村館跡南東部土塁、堀。
島村館跡南東部土塁、堀。
【所在地】 会津若松市河東町福島島原
【別称】  
【築城年】 大永二年(1522)
【築城者】 伴野則実
【城主変遷】 佐瀬氏…西海枝氏…伴野氏
【廃城年】  
【現状】 宅地
 『会津古塁記』によると、初め下総国千葉郡高瀬村の地頭であった佐瀬利兵衛が住し、その後西海枝宮内、次いで伴野孫六実清が住したとする。
 『新編会津風土記』によると、伴野氏の祖は出羽守長房といい、興国三〜六年(康永年中・1342-45)足利尊氏に随行して天龍寺に参詣したことが『太平記』に出ているという。天授五〜七年(康暦年中・1379-81)頃、孫の伯耆守重清が蘆名直盛に従って会津へ下り、嶋村館(内島館)に居住した。しかし大永二年(1522)火災により廃館となり、同年この館を築いて移り住んだという。従って上の『会津古塁記』の記述は、嶋村館と島村館(ややこしい)について混同されているものであろう。
 その子孫伯耆守光実は、天正年間(1573-92)初頭に松本太郎が蘆名氏に対して反乱を起こした際、黒川城へ馳せ参じ負傷している。その後天正十七年(1589)伊達氏の侵攻により蘆名氏が滅ぼされると、その後は帰農したと考えられている。

 現在は個人宅となっており、伴野氏のご子孫がお住いです。単郭式方形館で、東西四十八間、南北三十六間の規模を持っています。東、南側の土塁が現存しており、周囲には後年改修されてはいるものの水堀が取り巻いています。
 おばあちゃん、なんだかよく分かっていなかったと思いますが、訪問時に撮影許可下さりありがとうございました。
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嶋村館
嶋村館跡付近。
嶋村館跡付近。
【所在地】 会津若松市河東町福島簗前
【別称】 内島館
【築城年】 天授五年(康暦元・1379)
【築城者】 伴野重清
【城主変遷】 蘆名氏[伴野氏](1379-1522)
【廃城年】 大永二年(1522)
【現状】 山林、河川
 天授五年(康暦元・1379)伴野伯耆守重清が築城したとされる。重清は蘆名直盛に従い会津へ下向、初め耶麻郡宇津野に居住し、その後この地へ移り住んだという。しかし大永二年(1522)火災に見舞われて廃館となり、新たに島村館を築いて以後代々居館とし、現在も子孫が居住している。なお北側に面する堂島川(日橋川)の水禍を避けて居館を移した、とする伝承もある。

 島村館と69号県道を挟んで相対する位置にあり、まほろん“文化財データベース”の位置情報を信頼すると上の画像の場所となります。画像のフェンスの直ぐ左には用排水路が流れ、林を挟んで日橋川が流れています。フェンスを越えて進入することも容易でしたが、訪問時は出勤前だったのでさすがに控えました(^-^;
 なお北側は日橋川と並んで7号県道が東西に通じており、伊達政宗が摺上原合戦後に北方(現在の喜多方)方面へ侵攻した際に本陣を置いた
駒形山館がすぐ北東に所在しています。
会津若松市
旧河沼郡河東町(〜H17) - 旧堂島村(〜S32) - 旧代田村分(〜M22)
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代田村館
代田村館跡南西部土塁。
代田村館跡南西部土塁。
【所在地】 会津若松市河東町代田代田
【別称】 荒木館、荒井館
【築城年】  
【築城者】 荒木宗胤
【城主変遷】 荒木氏…三瓶氏…高橋氏…荒井氏
【廃城年】  
【現状】 宅地
 北田城主北田氏子孫、荒木四郎宗胤が築き、初め荒木館と称したとされる。その後三瓶民部重朝、その子高橋大和重則が住し、天正年間(1573-92)に荒井主計政憲が館主となった。
 荒井氏は仙道(福島県中通地方)荒井の城主であったが、黒川城主蘆名盛氏により攻められて落城後服属、天正九年(1581)30貫文を以て代田館主となったという。蘆名氏滅亡後は蒲生、上杉氏の配下となり、代々十郎左ェ門を称して代田村を統治した。この館は延宝六年(1678)まで代田村支配の中心であったとされる。

 現在は民家となっており、東西五十三間、南北六十八間の規模を持つ。周囲には土塁、堀跡が現存し、二つの郭からなっていたことが確認出来る。館跡には現在も荒井氏のご子孫が居住しており、いろいろと貴重な話をお聞かせ下さいました。荒井氏は多々良氏の子孫で、県内各地にゆかりの城跡があるとのこと、おじいちゃんありがとう!

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)

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