上山市
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上ノ山楯
上ノ山楯跡遠望。
上ノ山楯跡遠望。
【所在地】 上山市中山
【別称】  
【築城年】 永禄、元亀年間(1558-73)か
【築城者】 中山弥太郎
【城主変遷】 伊達氏[中山氏]…
【廃城年】  
【現状】 耕作地
 中山城の支館であり、同時期の永禄、元亀年間(1558-73)中山弥太郎によって築かれたものであろう。

 平坦な頂部を主郭とし、西から東南にかけて、一部破壊されているものの狭小な階段状帯曲輪で幾重にも取り囲んだ館であった。

 中山城跡現地説明会の際に確認、接近を試みたものの国道工事の重機及び作業員の方々に阻まれ、無念の退却となりました。工事が終了してから、ちょくちょく仙台での野球観戦の際に通っているんですが現状は未確認…駄目な人だなあ。
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上山城
上山城復興天守。
上山城復興天守。
【所在地】 上山市元城内
【別称】 月岡城
【築城年】 天文四年(1535)
【築城者】 武衛義忠
【城主変遷】 武衛氏(1535-78)−最上氏[里見氏、坂氏、上山氏](1578-1622)−松平(能見)氏(2代・1622-26)−蒲生氏[蒲生氏](1626-27)−鳥居氏(1627-28)−土岐氏(2代・1628-92)−一時廃城−金森氏(1代・1692-97)−松平(藤井)氏(10代・1697-1871)
【廃城年】 明治六年(1873)か
【現状】 月岡公園、月岡神社
 永正十一年(1514)に上山(月岡)城の前身である虚空蔵山の高楯城が伊達氏によって攻略されて以降、伊達氏家臣小梁川貞伴(親朝とも?)がこれを領していたが、享禄元年(1528)武衛(武永、上山)義忠によって奪還された。そして天文四年(1535)義忠によって天神森台地に移されたのが現在の上山城であるとされる。

 山形城主最上氏、米沢城主伊達氏の勢力の狭間にあった上山氏は、度々伊達輝宗の侵攻を受け、次第に伊達氏寄りの態度をとって宗家である最上義光に対抗するようになった。そこで義光は一計を案じ、天正六年(1578、同八年とも)まんまと時の当主満兼の謀殺に成功する。義光は上山氏重臣里見越後守、及びその息子内蔵助、民部少輔に、満兼の首と引き替えに上山城を与えることを約束したのである。義光に同調した民部は反対する兄内蔵助を殺害し、主君満兼の暗殺にも成功、約束通り上山城2万千石を与えられた。

 その後民部は、対伊達領の最前線にあって活躍し、さらに慶長五年(1600)の出羽合戦においては直江山城守兼続の侵攻を撃退、本村親盛を討ち取る活躍を見せた。なおこの合戦に備え民部は高楯城を改修したとされるが、合戦で使用されることはなかった。また出羽合戦では直江勢に内通していたともいわれ、義光に父越後守を人質に取られたため密約を反故し、そのため直江勢は惨敗を喫したとも伝えられている。このような活躍もあり最上氏の重臣となった民部だったが、慶長八年(1603)義光と嫡男義康の不和を利用し、次男家親を擁して家中での発言力を伸張させるべく画策、大浦城代下対馬守吉忠と共謀して義康を殺害した。しかしこれに激怒した義光の追求を恐れて最上家中より出奔、加賀国前田氏の下に身を寄せるが、最上氏の要請により引き渡される途中の庄内丸岡にて殺害された。なお義康殺害については謎が多く、徳川氏との関係から家親に跡目を譲ろうとした義光の意を汲んだものともいわれ、また殺害されたのも慶長十六年(1611)という説もある。

 里見氏が去った後、上山城には慶長八年(1603)長谷堂城より坂紀伊守光秀が1万3千石を以て入城、さらに元和二年(1616)義光の五男上野山兵部義直(上山とも、また光広とも)が2万千石で入城する。しかし元和八年(1622)家督相続に端を発する重臣間の不和から、最上氏は家中不取締として改易処分となった。

 57万石の大身であった最上氏の所領は分割される事となり、上山には能見松平重忠が4万石を以て封ぜられ、ここに上山藩が立藩された。しかし4年後には摂津国三田へ移封となり、次いで寛永三年(1626)蒲生忠知が4万石で領知する事となった。忠知は会津藩若松城主蒲生忠郷の弟であり、独立した藩であったかは不明である。その蒲生氏も忠郷が25歳の若さで嗣子無く早世、しかし母が徳川家康の女振姫であったため断絶を免れ、幕府の特別の計らいで忠知が家督を相続し、伊予国松山藩へ転封となった。その後山形藩主鳥居氏の預かりを経て、寛永五年(1628)下総国守谷より土岐山城守頼行が2万5千石で藩主となり、三層の天守を築くなど城下を整備、拡張したが、元禄五年(1692)転封となり上山を去った。土岐氏の転封後、上山城は小藩に相応しからずとして廃城となり、建造物はほとんど破却されたという。

 その後金森頼時3万8千石を経て、元禄十年(1697)藤井松平信通が3万石で入封、以後明治維新まで10代170年にわたって上山を支配した。上山城は元禄十五年(1702)信通によって本丸、城門が修築されたが、ついに土岐氏時代に羽州の名城と謳われた姿に復することはなかった。


 現在城跡は月岡公園として整備されており、郷土資料館となっている模擬天守が建てられています。しかし現在の天守はもちろん土岐氏が築いた天守とは関係なく、場所も本丸ではなく二の丸に建てられています。なお城下には武家屋敷が数軒現存しています。
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高楯城
高楯城跡遠望。
高楯城跡遠望。
【所在地】 上山市河崎反田
【別称】 上山城、亀ヶ岡城
【築城年】 応永年間(1394-1427)、永正五年(1508)など
【築城者】 上山満長、小梁川貞伴など
【城主変遷】 最上氏[上山氏]…伊達氏[小梁川氏](1514-28)−最上氏[武衛氏](1528-1535)
【廃城年】 天文四年(1535)か
【現状】 虚空蔵山
 応永年間(1394-1427)山形城主最上氏の祖である羽州探題斯波兼頼の曾孫、天童頼直の子満長がこの地に封ぜられ、虚空蔵山に城を築いて以後上山氏を称したとされるが確証はない。また永正五年(1508)米沢城主伊達稙宗家臣小梁川貞伴(親朝とも?)が築城したとも、同十一年(1514)の合戦で最上氏が伊達氏に敗れた後貞伴が城主として配されたともいう。

 このように起源は不明であるが、享禄元年(1528)武衛(武永、上山)義忠が奪還を果たし、以後武衛氏が居城する。なおこの武衛氏は満長の子孫であるとも、大宝寺城主武藤氏の一族であるともいわれる。
 その後義忠は、要害ではあるが高峻であった高楯城を廃し、天文四年(1535)新たに東の天神森台地に築いた上山城に移り住んだ。しかしその後武衛氏は、天正六年(1578)最上義光の謀略により重臣里見越後守、民部父子によって討たれ滅亡した。
 なお上山城築城に伴い廃城となった高楯城は、慶長五年(1600)関ヶ原合戦に伴う出羽合戦の際里見民部によって改修されたという。上山城により要害であったためであろうが、結局里見氏は果敢に城外で直江山城守兼続の軍勢を迎え撃ったため使用されることはなかった。


 標高356mの虚空蔵山に築かれた山城で、虚空蔵堂が建てられている山頂から中腹にかけてが主郭とし、その北西の白土平が二の曲輪、さらにその北東の北平が三の曲輪となっている。主郭、二の曲輪は満長の時代に築かれ、三の曲輪は小梁川氏が領した頃に構築したものと推定されている。


 実は入口までしか行ってません(笑) 登る気満々で行ったのですが、思いの外入口まで辿り着くのに時間がかかり、訪問当日に参加予定だった中山城跡発掘調査現地説明会に間に合わなくなりそうだったもので…。上山出身の方が職場にいるので訊いたら、お正月(年末?)に市内の皆さんは主郭部にある虚空蔵堂まで上り、鐘を撞いて来るのだとか。そんなに時間はかからないよーとの事だったんですがねー。
 そんなわけでこの目で見た遺構は東空堀くらい。毎度の事ではありますが、再訪したいと思っています。
トップさくらとおしろ山形県上山市中山城
中山城
中山楯跡遠望。
中山楯跡遠望。
【所在地】 上山市中山
【別称】  
【築城年】 永禄、元亀年間(1558-73)
【築城者】 中山弥太郎
【城主変遷】 伊達氏[中山氏]…蒲生氏[蒲生氏](1592-98)−上杉氏[横田氏](1598-1692)
【廃城年】  
【現状】 旧中山小学校
 永禄、元亀年間(1558-73)米沢城主伊達輝宗家臣中山弥太郎が築城したという。

 中山城は中世、近世を通じて米沢城の支城であり、かつて置賜郡であった中山は、置賜、村山郡の境に位置する戦略的に重要な地点であった。室町、戦国時代には、内訌の絶えない最上領内に伊達勢が度々侵攻を図っている。

 天正十九年(1591)奥州仕置により伊達政宗が岩出山城へ移封になると、置賜郡は会津92万石の若松城主蒲生氏郷に与えられ、米沢城には蒲生郷安、中山城には蒲生郷可が配された。しかし氏郷が文禄四年(1595)急死した後、跡目を継いだ秀行は若年で家中を統制出来ず、慶長三年(1598)下野国宇都宮城12万石へ減封となる。同年若松城には越後国春日山城より上杉景勝が120万石の大身で入封し、米沢城には腹心直江兼続が30万石をを以て封ぜられ、中山城には横田式部旨俊が配された。その後上杉氏は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦で西軍として行動、その結果米沢藩30万石に減封となり、米沢城がその府城となった。

 江戸時代初期には御役屋とされ、米沢藩五支城の一に数えられて藩境の防備に当たった。元禄五年(1692)中山御役屋と改称されたともあるが、中山城の遺構を改修して御役屋が整備されたものか。


 標高約344mの天守山に築かれ、山頂に本曲輪、その南に二の曲輪、そしてその東に三の曲輪が設けられた堅固三段の縄張りとなっている。馬出(近世には馬場)であった旧中山小学校の校地の東方には前衛となる前森山があり、北方には上ノ山楯物見山楯を配する、自然地形を利用した防備に囲まれた城であった。本曲輪にはほぼ正方形の天守台と称される石組の物見台が現在も遺る。
 前森山と旧中山小学校の間には、近世家臣屋敷が立ち並んでおり、13号国道上山バイパス建設に伴い発掘調査が行われた。


 2回行われた現地説明会のほか、何度か訪問しておりますが未だ天守山へ上ったことがありません。そんなところばかりじゃないかと言われれば全くその通りでございます。登城口がワカランのですよ…、旧中山小の裏から上れば良いのは判るのですが、虫キライなので藪漕ぎが苦手な根性なし(致命的)ですもので。

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「出羽諸城の研究」(伊吉書院1980)、「山形県城郭古絵図展」(最上義光歴史館1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「図説 日本の名城」(河出書房新社1994)、「山形県中世城館遺跡調査報告書第2集 村山地域」(山形県教育委員会1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「古写真大図鑑 日本の名城」(講談社+α文庫1998)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「新全国歴史散歩シリーズ6 山形県の歴史散歩」(山川出版社2001)、「週刊名城をゆく36 山形城」(小学館2004)

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