大崎市
旧玉造郡岩出山町(〜H18) |
トップ>さくらとおしろ>宮城県>大崎市>一栗城
一栗城 |
一栗城跡解説板。 |
【所在地】 |
大崎市岩出山下一栗宿
|
【別称】 |
中館 |
【築城年】 |
室町時代末期 |
【築城者】 |
一栗(氏家)氏か |
【城主変遷】 |
大崎氏[一栗(氏家)氏]…伊達氏[四竈氏、(笠原氏?)] |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
山林 |
|
室町時代末期、奥州探題大崎氏家臣一栗兵部が居城したと『古城書上』に、また氏家兵部高春の居城と『風土記』にあり、同一人物であろう。一栗氏は大崎氏の重臣であり、城主として名が見える高春、そして祖父放牛、父豊前ともに勇猛の士として知られた。
天正十九年(1591)の大崎葛西一揆において、高春は一栗城に籠城して仕置軍の伊達政宗を迎え撃とうとするが、政宗は素通りして一揆の中心であった佐沼城へ直行した。これは一栗城の要害振りを敬遠したとも、一栗氏が大崎家中でも親伊達派であった氏家党であったからともいわれている。しかし高春としては面目が立たず、すぐさま佐沼城へと向かい一揆勢に合流した。そして城を囲む政宗に対し、“伊達どのは木の葉猿にも劣りたり栗一つをば落とし得ざるを”と記した短冊を放ち、その卑劣さを罵った。それに対し政宗は、“よそにのみ見れば木の間の一つ栗終わりに猿の餌食なるべし”と返し、高春の剛胆さを惜しんで生け捕りを命じたという。その後高春は落城寸前に城を脱し、出羽国山形城主最上氏に仕えて田川郡内に千石を給されたが、慶長十九年(1614)謀叛の疑いから殺害されたという。また一説には、佐沼城籠城の際に壮絶な討死を遂げたともいわれる。なお祖父放牛も佐沼城の一揆勢に加わっており、92歳の高齢ながら奮戦、討死したと伝わっている。
一栗氏が去った後、一栗城には伊達氏に降った旧大崎氏家臣四竈氏が代々居住したという。また笠原某が居住したとも伝えられているが、この四竈氏と同一の記録であろうと考えられている。
東西600m、南北400mの範囲に、本丸(中館)を中心として支城である東館、小館、西館が馬蹄形状に配置されており、その郭の集合体として一栗城は成立している。本丸は比高70mほどの山頂に、東西100m、南北80mほどの平場が置かれ、同心円状に腰郭が数段取り巻いている。一栗城(本丸)に城主一栗高春、東館に家臣千田雅楽之丞、小館に同半田土佐守、そして西館に高春の祖父一栗放牛が居住していたという。
正直申しまして旧岩出山町内のお城に訪問したのはだいぶ前、しかも仕事の合間を縫ってのことなので、ほとんど憶えていないんです。その中でも一栗城は雰囲気、場所などは憶えているんですが、細かい遺構などは忘れちゃった…。まあ人間は過去を忘れることで現在を生きることが出来るんですが(←?)、ただ闇雲に城址を巡っている真骨頂がここに顕れていますねー。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>大崎市>岩出山城
岩出山城 |
岩出山城跡伊達政宗像。 |
【所在地】 |
大崎市岩出山城山
|
【別称】 |
岩手沢城、臥牛城、岩出山要害 |
【築城年】 |
応永年間(1394-1428) |
【築城者】 |
氏家隆継 |
【城主変遷】 |
大崎氏[氏家氏]…伊達氏−木村氏[荻田氏]−伊達氏[(岩出山)伊達氏] |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
城山公園 |
|
藩政時代の仙台藩伊達氏の要害の一。大崎氏家臣氏家弾正隆継が応永年間(1394-1428)初期に岩手沢城を構築したのが始まりとされる。
氏家氏は藤原北家道兼流と称する下野国宇都宮城主宇都宮氏を祖とし、藤原宗円の孫宇都宮朝綱の子公頼が下野国芳賀郡氏家を所領したのが始まりという。氏家氏の当地下向に当たっては諸説あるが、正平八年(文和二・1353)斯波家兼が奥州探題職として下向した際、氏家詮継がその監視役として共に下向したという。初め杉沢城を居城としたが、詮継の子隆継が岩手沢城を築城し、以後代々居城とした。
斯波氏は大崎氏を称し、奥州管領職の権威を以て名生城を拠点に大崎五郡に勢力を拡大、氏家氏も徐々に臣従する様になり、大崎氏の執事として家中に重きをなした。しかし戦国時代になると、氏家党と並ぶ勢力を持ち、大崎家中の主流派であった笠原党との対立が激しくなり、氏家氏は反主流派として度々叛乱を起こした。天文三年(1534)新田安芸頼遠の叛乱に端を発する大崎内訌の際には、氏家直益は古川、高泉、一迫ら諸氏とともに頼遠に同心、大崎義直に対抗した。義直は自力での鎮圧を断念し、同五年(1536)伊達郡梁川城主伊達稙宗に援助を要請、大崎領内への影響力を強めようとする稙宗は自ら出馬し師山城へ入った。一時は優勢だった反乱軍も、伊達氏の介入によって古川城、高泉城などを次々と攻め落とされ、最後に岩手沢城も2ヶ月の籠城戦の末和議が成りついに開城した。乱後、新田頼遠は出羽国へ落ち、直益は嫡子弾正隆継に岩手沢城を譲り、自らは三丁目城に隠棲した。
大崎氏の内乱は反乱軍の敗北で収束したものの、以後も家中の混乱、権力争いは絶えず、天正十四年(1586)ついに再燃する。きっかけは大崎義隆の寵臣、新井田刑部隆景と伊庭野惣八郎との確執であった。隆景は初め惣八郎を討つべく伊達政宗に奉公を誓って助力を乞い、隆景の動きを察知した惣八郎は吉継を頼った。内紛を防ごうと調停に動いた義隆だったが、隆景によって身柄を新井田城に拘束されてしまう。これにより家中の主流派となった隆景は、政宗との約束を反故、はからずも反主流派となった氏家党を攻撃した。すると今度は吉継が政宗に救援を依頼、氏家党はもともと親伊達派であり、また出羽国山形城主最上義光、陸奥国黒川城主蘆名義広、常陸国太田城主佐竹義重らと相対するには後背の大崎氏を討つのが得策と政宗もこれに応じ、留守政景、泉田重光を大将とする5千とも1万余ともいわれる大軍を大崎領へ侵攻させた。義隆は中新田城に籠城しこれを迎え撃ち、伊達勢の大将同士の対立や、岩手沢城の氏家氏と伊達勢の合流阻止、そして大崎支族であり、桑折城の守備に就いていたものの態度を鮮明にしていなかった黒川月舟斎晴氏の大崎勢加勢などの要因から、伊達勢を散々に討ち果たし奥州探題大崎氏の面目を保った。
この中新田合戦で伊達氏に大勝した大崎氏ではあったが、その衰退を押し止めることは出来なかった。天正十七年(1589)最上義光の斡旋、そして義光の妹、政宗の母である保春院の尽力により大崎氏と伊達氏の和議が成立したが、それは大崎氏の伊達氏への服属に他ならなかったのである。ここに大崎氏の独立性は失われることとなり、政治的判断も出来ないまま翌年の奥州仕置を迎え、大崎氏は滅亡した。なお氏家吉継は、中新田合戦後謀叛の首謀者として討たれそうになるが、和議の条件として氏家領への不可侵が挙げられたため赦されている。そして大崎氏滅亡後は伊達氏に仕えたが、間もなく病没、嫡流はそこで途絶えたという。
天正十八年(1590)大崎、葛西氏の旧領は豊臣秀吉家臣木村伊勢守吉清に与えられ、岩手沢城は荻田三右衛門が城主となった。しかし三右衛門は年貢を厳しく取り立て、農民の妻子をことごとく捕らえるなど暴政を行い、同年大崎、葛西氏旧臣らによって斬殺され城を奪われた。この蜂起が大崎、葛西一揆勃発の発端の一つとなり、その後木村氏は失脚、一揆は政宗、蒲生氏郷らによって鎮圧された。
一揆鎮圧に功のあった政宗だったが、一方で一揆を背後から支援していたとする疑いを持たれ、秀吉によって伊達、信夫、置賜郡などの所領を召し上げられ、一揆で荒廃した旧大崎、葛西領を与えられることとなった。黒川城、次いで米沢城をも召し上げられた政宗は、新たな居城地として新領地の中心となる岩手沢を選び、天正十九年(1591)岩出山と改称して居城とした。これは奥州再仕置のために下向していた徳川家康の薦めとされ、家康自らが縄張りし、その重臣榊原康政によって整備、拡張されたという。しかし政宗自身は秀吉のいる京都、大坂にいることが多く、岩出山城に在城したのはわずか数ヶ月であったとされ、その間は屋代勘解由兵衛景頼が城代として国政と取り仕切った。秀吉の没後、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦において政宗は徳川方に与し、秀吉によって取り上げられた旧領の加増、いわゆる百万石のお墨付きを家康より得る。旧領を加えると岩出山では所領の北に偏していると考えた政宗は、国分氏の城であった千代城の地に居城移転を決意し築城を開始した。結局加増は刈田郡のみに止まり、政宗の旧領回復の望みは絶たれることとなったが、移転計画はそのまま進められ、慶長八年(1603)居城は仙台城へと移された。
本拠地移転後、岩出山城は城に準ずる要害として存続、政宗四男の宗泰が封ぜられ、以後岩出山伊達氏が明治維新まで岩出山邑主として統治した。
現在は本丸は公園、二の丸は学校地となっており、中世から伊達氏本拠地となった頃の中心は本丸、近世以後の中心は二の丸であったそうです。現在は公園に政宗像が建てられていますが、この像は太平洋戦争中に仙台城の伊達政宗騎馬像が供出されたために作られ、戦後残されていた型から騎馬像が復元されるに及び岩出山町に寄贈されたものです。なお供出された騎馬像も胸像部分は残され、現在も仙台市博物館前で見ることが出来ます。
ここに氏家氏の動きを書くから長くなるんですよね…。簡単に書けば、大崎氏の所領であった頃はその重臣氏家氏が居城とし、大崎氏滅亡後は木村氏家臣荻田氏が居城、大崎葛西一揆後一時伊達氏の本拠となり、本拠が仙台城へ移った後は岩出山伊達氏の治むるところとなった。…ほら2行で終わっちゃった。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>大崎市>樋田城
樋田城 |
樋田城跡標柱。 |
【所在地】 |
大崎市岩出山上山里字葛岡樋田
|
【別称】 |
戸井田館、照井館 |
【築城年】 |
|
【築城者】 |
葛岡氏か |
【城主変遷】 |
大崎氏[葛岡氏か]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
|
|
標柱には、葛岡城の出城の一つと伝わるが年代などは不明、土塁、空堀、平坦面の一部が残る、とある。
所有する資料には記載がなく謎の城館ですが、道路沿に標柱が建てられているということは町史などには記載があるのでしょうかね…?小松川を挟んで北東に本城である葛岡城がある様なので、併せて再度行ってみたいと思います。ほら、写真の通り雪の時季で大して見てないし、仕事の途中で標柱を発見しただけだし…と言うか何より例の如く憶えてないし(^-^; |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>大崎市>八幡館
八幡館 |
八幡館跡(古館八幡神社)入口。 |
【所在地】 |
大崎市岩出山下一栗片岸浦
|
【別称】 |
古館、鹿ヶ城 |
【築城年】 |
|
【築城者】 |
一栗(氏家)氏か |
【城主変遷】 |
大崎氏[一栗氏]か… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
古館八幡神社、不動院、山林 |
|
築城時期、館主とも何れの記録にもなく不明である。しかし北西の一栗城と至近で隣接しており、一栗城を構成する東館が当館であろう。
一栗城の南東わずか500mほどに位置し、標高約160m、比高約100m、現在八幡神社が祀られる東西約50m、南北約30mほどの平場が主郭であると考えられている。神社東側に物見台として利用されたと推定される塚が残り、その東側は幅10mにも及ぶ空堀が切られ、分断されている。北面には15mほど下って20mほどの平場があり、西面の緩やかな斜面には数段の壇があり不動院などが立地するが、何れもその先は急峻な崖となり谷に落ち込んでいる。参道が取り付く南面はかなりの急峻であり、主郭部より30mほど下ると壇が開け、現在は屋敷地となっている。
標柱には、一栗高春の祖父放牛とその子息宗蓮が居住した、とあったと思うんですが、放牛の居館は西舘とだから一栗城を挟んで反対側になっちゃうんですよね…。何れにしても一栗城を含めて再訪せねばなりますまい。何時になるやらわかりませんが(笑) |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>大崎市>馬館
馬館 |
馬館跡標柱。 |
【所在地】 |
大崎市岩出山上山里字上真山反目
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
|
【築城者】 |
|
【城主変遷】 |
|
【廃城年】 |
|
【現状】 |
民家、山林、耕作地 |
|
馬館の地名が残るものの、結論としてはどこを指しているかは不明であるという。
高さ約20mほどの丘陵が館跡と見られており、数段の壇が積まれ、西端には不明瞭ながら空堀らしき所も認められるという。記録上にも出ては来ず、往古は軍馬の放牧場であったと口伝が残るらしい。
数回目の前を通ったことがありますがいつも日が落ちてから(^-^;
出張時がほとんどで、最後はくりでんに乗車しに行ったついででした。仕方がないので再訪を期して標柱の写真だけを何とか撮影してきましたが、標柱東側は直ぐ17号県道なので結構車通りがあり、撮影のために車の前照灯を当てるのに難儀しました(-_-ゞ |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>大崎市>南山崎館
南山崎館 |
南山崎館跡標柱。 |
【所在地】 |
大崎市岩出山上山里字上真山南山崎
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
|
【築城者】 |
|
【城主変遷】 |
|
【廃城年】 |
|
【現状】 |
|
|
標柱には、葛岡城の出城の一つと伝わる連郭式の館で、小規模だが土塁、空堀、平坦面が破壊されずによく保存されている、とある。
…さくら的謎の城館。見えづらいですが画像の通り道路脇に標柱が建てられているのですが、所有しているどの資料を見ても“南山崎館”では記載がないんです。場所すらよく憶えてないんですが、標柱が建てられているのは17号県道沿で、一迫から一栗へと向かう途中で南に向かって撮影したものと思われます。北東からこの南山崎館、葛岡城、樋田城が並んで所在している様なので、葛岡城の支城と見て間違いないと思われます。
何れにせよ本城である葛岡城に訪問していないので併せて再訪したい…という思いを10数年継続中。 |
|
|
【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981) |
ご意見、ご感想は下記まで。
sakushiro.3946@gmail.com |